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一般人から見れば「どちらも敵、貴族と僧侶の戦い」にしか見えない、アカデミズムとジャーナリズムの対立

ニューズウィーク日本版 / 2024年8月28日 11時0分

私の専門であるタンザニアは、かつては現地に行かないとインタビュー調査ができませんでしたが、今ではスマートフォンで簡単に話を聞くことができるなど、この20年で大きく変わりました。

しかし、それぞれの地域のコミュニケーションの在り方の延長線上にデジタル・コミュニケーションが形作られており、日常的な「対話の遊戯」がSNSにも引き継がれていることを見ると、世界で暮らす人びとが完全にフラットにつながっているわけではありません。いまなお、世界と日本の人々は、まったく異なる技法のなかでコミュニケーションを取り続けているのだと思います。

田所 インターネットで世界は思われていたようにはフラットにならなかったというご指摘は興味深いですね。

かつて新聞や論壇誌といった媒体で大学知識人やジャーナリストが発言や発表をしてきましたが、今やSNSでは誰でも発言できます。そして、そこに生成AIが登場し、YouTubeのように映像表現も台頭し、きわめて大衆化した形で言論活動が繰り広げられています。この点についてはどうでしょうか?

トイアンナ 言論活動は個人と権力の間で、反発と和解が繰り返されてきた歴史という捉え方もできると思います。かつての権力は国家でした。しかし、今はXやGoogleなど巨大テック企業が権力となり、個人の思想や表現の自由と衝突しています。

運営ポリシーに違反すれば即「BAN」(アカウント凍結)されますし、絶対に話せないテーマもあります。ですから、フラットで大衆化したように見えて、言論をめぐる闘争は現在も続いています。

他方、38年前よりも人々が個人主義的になったことは確かだと思います。オープンな言論空間は殺伐としていますが、クローズドな言論空間である「サロン」が多く存在し、翻訳機能の向上によって言語を超えた人々のつながりも容易になりました。

そこでは異なる意見を聞きながら、自分の意見も言える場所ができました。その意味では、今はかつてないほどに言論の自由が花開いた時代と言えるかもしれません。

田所 私がほぼ最後の世代になると思いますが、マルクス主義を肌で理解できた時代がかつてありました。そういう呪縛や常識がなくなって、さまざまな言論空間が成立できるようになったことは望ましいということですね。我々の世代とは、まったく異なる世界が現在、展開しているように感じています。

トイアンナさんが先ほどご指摘された多くのサロンと、そのグループ内部で豊かなコミュニケーションが生まれていることはいいことだと思います。一方で、そのサロンやグループ同士をつなぐ装置はあるのでしょうか?

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