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原稿料代わりに吉原で豪遊⁉︎ 蔦屋重三郎が巧みに活用した「吉原」のイメージ戦略

ニューズウィーク日本版 / 2025年1月7日 11時10分

「東都新吉原一覧」歌川広重画、1860(万延元)年、 東京都立中央図書館蔵。

ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<5日に放送が始まったNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。蔦屋重三郎は生まれ育った吉原とどのようにしてビジネスにおけるウィンウィンの関係を築いたのだろうか>

吉原出身の蔦屋重三郎の出版事業は、その生まれた土地と切っても切り離せない。それどころか、蔦重は出版物を通じて、吉原という場所を巧みに演出し、その価値を高めると同時に、その吉原を利用して、新たな出版事業を展開していったと言える。 

江戸文化の中心地と呼ばれた吉原とはどのような場所であったのか。蔦屋重三郎が生まれ育った吉原の実態について、作家・江戸文化研究家の永井義男氏に話を伺った。

本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。

◇ ◇ ◇

吉原に生まれた蔦屋重三郎

江戸の吉原とは、単なる遊郭ではなく、江戸文化の中心地であり、流行の発信地であったとしばしば言われます。そもそも吉原とは何かと言えば、私は現代で言うところの「企業城下町」であったと考えています。たとえば大きな自動車工場がある町は、その企業を中心として、城下町のように広がっていく。それと同じで、吉原はまさに「遊女城下町」だった。基本的に遊女を中心にして、そのすべてが回っていたのです。

俗に「遊女三千」と言われますが、時代によって増減はあるでしょうが、吉原にはおよそ3000人前後の遊女がいたとされます。また、そこには妓楼(遊女屋)が雇用していた女中や若い者などの奉公人も生活をしていました。加えて、吉原には料理屋や茶屋などもひしめいていましたし、職人や商人も住んでいた。遊女だけでなく、芸者や芸人もいたわけですが、みな遊女に関わる仕事をしていたのです。吉原に住んでいた人たちはみな、直接間接に遊女がいるからこそ仕事が成り立っていました。

公許の遊郭としてスタートした吉原は、1657(明暦3)年に、現在の日本橋人形町から千束(せんぞく)村へと移転して、浅草寺の裏手に広がる田んぼの真ん中に新吉原が作られました。吉原300年の歴史のうち、元吉原での経営はわずか40年ほどのことです。当時の江戸としては、通うには辺鄙な2万坪くらいの土地に、遊女3000人を含むおよそ1万人が住んでいたとされています。

遊女を売りとする妓楼を中心に、それだけの商売が成り立っていたわけですから、まさに「遊女城下町」でしょう。そうした1万人のなかの1人として、蔦屋重三郎は生まれたわけです。

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