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パセリを見たこともなかった僕が、チベットからNYに渡り由布院で総料理長になるまで 

ニューズウィーク日本版 / 2024年12月21日 14時45分

由布院の自家農園「エノワファーム」に毎日通い新鮮な野菜を収穫するシェフのジャムツォ SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN

タシ・ジャムツォ(オーベルジュ「エノワ」のレストラン「ジングー」総料理長)
<18歳でチベットから渡米し、シェフになって大分県由布院のレストランにたどり着いたシェフの人生>

生まれ育ったチベットからニューヨークに渡り、シェフになって大分県の由布院にたどり着いた僕の人生に、大きな後悔は1つもない。別府方面から由布院方面に車で走ると、山間を抜けてチベットの草原のような光景が広がる場所がある。僕が18歳まで生活していたチベットも、山に囲まれていた。

僕はチベット自治州ナンワ県で、トラック運転手の父と農業を営む母と、弟と祖父母と暮らしていた。僕が9歳のとき、父は親類がいるニューヨークで働くためチベットを離れた。母は料理がうまくて、モモ(蒸し餃子)やトゥクパ(麺料理)、四川風料理を作ってくれた。祖父は毎朝チベットのパンを焼き、僕にも焼き方を教えてくれた。僕らの家は山の中にあったけれど、親戚は少し離れた草原でヤクを飼っていて、僕らが作った野菜を持っていくとヤクのバターやチュラ(羊)のチーズと交換してくれた。

2008年、僕が18歳の時、父が住むニューヨークに母と弟と一緒に移住することになった。高校に入り高級イタリアンで皿洗いのアルバイトを始めたのだけど、バスケットボールをしているときにけがをしてしまい、長期間バイトを休むことになった。

このとき自分を厳しく怒ってくれたのが、10歳上の兄のような存在で、後に僕の人生を切り開いてくれるフワ・ジェイソンという台湾系のシェフ。彼が09年にスペイン料理店「ボケリア」に移ることになり、僕もついて行くことにした。いま思うと、僕が本格的に料理の世界に足を踏み入れたのはこの時だった。

ジャムツォは「冬のケールが好き」だと語る SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN

でもスペイン料理はおろか西洋料理の世界も初めてだし、当時は英語もよく分からなかった。キッチンで「パセリ取ってきて」と言われても、見たことがないから探すのに苦労した。チベットでは肉は半生で食べるけれど、生野菜を食べることはあまりない。バジルやローズマリーといったハーブはニューヨークで初めて見たし、そういう食材をまずは食べてみて覚えるところから始まった。

ボケリアで20歳まで働き、大学に入ったものの、料理が楽しくなって休学。蕎麦(そば)店「松玄」でユウタさん、ヨシさんという先輩に和食の基礎を教えてもらい、その後はジェイソンの下でアメリカン料理店「ザ・ダッチ」で働いた。

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