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寅さんはメモの束持って授賞式司会、高倉健はイントロ流れても…芸能人も乗り越え糧にした初挑戦

日刊スポーツ / 2024年4月20日 9時20分

3万1653人から第1回東宝シンデレラに選ばれた沢口靖子。手にはデビュー作「刑事物語3」の台本が(1984年1月)

<ニュースの教科書>

入社、入学間もない時期です。不安を感じている人もいるでしょう。でも、初ものづくしの体験はきっと貴重な糧となるはずです。第一線の芸能人の多くも「初挑戦」のほろ苦さを乗り越えているからです。当時の記事や取材メモから振り返りました。【相原斎】

   ◇   ◇   ◇   

◆沢口靖子 海外プレミア

主演ドラマの「科捜研の女」(テレビ朝日系)が24シーズン、四半世紀続く沢口靖子(58)は、デビューの時から独特の雰囲気がありました。

第1回東宝シンデレラの最終選考会が行われたのは84年の1月。大阪の高校3年生だった沢口は歌唱テストで杏里の「悲しみが止まらない」を披露しましたが、音程を外しっぱなし。審査員が漏らす苦笑が取材する私たちにも聞こえるほどでしたが、ひるまずにワンコーラスを歌いきったのです。この度胸も加味され、シンデレラに選ばれると、満面笑みを浮かべ、自ら拍手する姿が印象的でした。

「成績は上の下。得意科目は英語、数学、体育です。軟式テニス部に入っています」という高校生らしい真っすぐな自己紹介にも好感が持てました。「科捜研」で演じるマリコの生真面目な性格にも反映されていると思います。自分のペースを崩さないことの大切さを教わった気がします。

その3年後、主演映画「竹取物語」(市川崑監督)のニューヨーク・ワールド・プレミアに同行取材した時のことです。初体験の海外プレミアの終了直後、沢口は恐怖の瞬間に遭遇しました。

セントラルパーク近くに駐車したタクシーの中、沢口が1人でスタッフを待っていると、全裸の黒人巨漢が間近に現れ、奇声をあげて次々と付近の車にぶつかり、とうとう沢口の乗るタクシーに向かってきたのです。

「私の車にもゴォーンって。その瞬間、運転手さんがすべてのドアをロックしました。その人はじっと中を見た後、また歩いていきました。車と人間がぶつかって車の方が壊れると思ったのは初めてです」

危機的状況にも目をつぶらずにしっかり観察していたことが驚きでしたが、真顔で明かされると、不思議にコミカルな感じになってしまうところがこの人らしい気がしました。こんな経験も沈着冷静なマリコのキャラ形成に生かされているに違いありません。何が幸いするか分からないのです。

◆薬師丸ひろ子 時代劇

女優として安定した仕事を続ける薬師丸ひろ子(59)は、アイドル時代に番記者をしていたこともあり、何度か「初挑戦」の現場に立ち会いました。主演映画「セーラー服と機関銃」(81年、相米慎二監督)では初めて主題歌も歌い、歌手デビューを果たしました。

作曲の来生たかおのレッスンを3カ月受けた後の公開レコーディング。中学時代に合唱部でソプラノを担当していたという、歌謡界ではめずらしい「正調」と高音の伸びに驚いたことを覚えています。

都立高校2年生だった薬師丸は「高校時代の思い出としてレコードを1枚作りたかった」とこれが最後といわんばかりでした。が、その後もヒットが続き、昨年には40周年ツアー。「思い出作り」のつもりが、活動のもうひとつの柱となったのです。

初の時代劇となった「里見八犬伝」(83年、深作欣二監督)では乗馬に挑戦しました。クランクインを前にひそかに特訓を行い、撮影本番は見事にこなしましたが、公開前のキャンペーンで悲劇が待っていました。府中競馬場で行った「ポニーレース」で2度の落馬。幸いケガはありませんでしたが、2万7000人のファンを前に、目を背けたくなる「惨事」でした。

「昨日撮影があって1時間しか寝ていなかったんです。それに私の乗った馬は走る気が全然ないんですもの。あれじゃあうまく乗れなくて当然です」

当時19歳のコメントは、今読んでも負け惜しみに他ありませんが、この負けん気がその後の成長につながったことは間違いありません。

◆渥美清 授賞式司会

初々しさとは趣が異なりますが、「苦手種目」への挑戦という意味では渥美清(96年68歳没)の司会ぶりが記憶に残っています。

84年2月のブルーリボン賞授賞式。この賞では前年の男女主演賞受賞者が司会を務めることが恒例になっており、この前の年に「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」で主演男優賞となった渥美に「義務」が生じたのです。

本来「素」をさらすのが苦手な人で「見る側の気持ちになれば(俳優の)年がいくつとか、出身がどこなんて分からない方がいい。愛妻家でいいパパですなんて聞くと、僕なんかゲンナリしてしまう。これ(俳優)やる前は泥棒でもやってたんじゃないか、と思う方が面白いね」というのが持論でした。だから、どうしても「地」がのぞいてしまう司会はできれば避けたかったに違いありません。

当日には、電話帳のような分厚いメモの束を持参。隙なく「俳優・渥美清」を演じる姿が印象的でした。

「私、不思議に役柄を狭めてしまいます。それというのも、名前や数字をまったく覚えられないからで」

ここで自らメモの束を持ち上げて見せたのも効果的でした。いつも「男はつらいよ」の長ぜりふを立て板に水でこなしているわけですから、そんなはずはないのですが、会場はすっかり渥美ペースです。

「本当は公認会計士やソロバン塾の先生の役をやりたいのですが、そういう役はまったくきません」

その後もよどみない司会ぶりが「寅さん」に重なって見え、何度も笑いが起きました。この賞は映画記者会の主催ですから、ノーギャラ出演です。当時55歳の大スターがどれだけ準備にエネルギーを費やしてくれたのか。主催者の1人として頭が下がる思いでした。

撮影現場では、いつもさりげなく寅さんに成りきって、隙なくカッコ良かった人の見えざる努力を垣間見る思いでした。

◆高倉健 コンサート舞台

対照的にあがりっぱなしの姿が人間的魅力と映ったのが、初めてコンサート・ステージに上がった高倉健(14年83歳没)でした。

83年9月、映画「居酒屋兆治」(降旗康男監督)で共演した縁で、加藤登紀子(80)のステージにゲスト出演した時のオロオロぶりが忘れられません。

健さんの登場に会場は興奮状態になりましたが、本人は「突然場違いな者が現れまして申し訳ございません」と頭をかくばかりです。

事前にはあいさつ程度と言われていたのでしょうが、映画主題歌「網走番外地」というあまりにも有名な持ち歌もあります。会場の熱気を受けて加藤が歌唱を求めると「そんなことを言われたら、血の気が引いていきます」。あきらめない加藤がマイクを向けると、じりじりと後退。イントロが流れる中をとうとう舞台隅まで下がってしまいました。

かつて所属した東映では、映画宣伝も兼ねて地方のクラブでの歌手営業が義務付けられていましたが、健さんはこれが大の苦手でした。結局、この時も歌わなかったのですが、「数年間、きっちりとレッスンをしまして、十分力をつけてから披露させてもらいます」と頭を下げ、観客から温かい声援を受けていました。

当時52歳。変わらぬ律義さと積み重ねた独特の魅力でピンチを乗り切ったのです。

■こんな「初」も目撃 所ジョージ披露宴の新郎紹介で「創作」

◆タモリ(78)初仲人

81年9月、東京・京王プラザホテルで結婚式を挙げた所ジョージ(69)夫妻を媒酌。親族だけで行われた式では「リハーサルで笑いすぎたので、本番ではいたってまじめでした」。約500人が出席した披露宴の新郎紹介は「4歳で『コヒツジ幼稚園』に入園し…」とタモリ流創作で。

◆オードリー・ヘプバーン(93年63歳没)初来日

世界の妖精と呼ばれた「銀幕の女王」は83年3月の来日時に53歳。「何回もチャンスがありながら調整がつきませんでした。日本からはこの30年の間に何百万通ものお手紙をいただき、温かいお国柄と。京都のお寺が見たいです。ルカ(次男、当時12歳)はカメラが欲しいと言ってます」

◆フリオ・イグレシアス(80)初めての歓待

72、75年の来日公演では無名歌手扱いでしたが、「世界のフリオ」としてブレーク後の83年は成田空港に約100人の取材陣。タヒチ出身の当時の恋人バルティエラさんも同伴。「コンニチワ。こんな大歓迎を受けたのは世界中でも日本が初めてです」

◆相原斎(あいはら・ひとし) 主に映画を担当。黒澤明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。初取材は文化社会部配属4日目。後楽園球場(現東京ドーム)で開催されたさだまさし、アリスらのチャリティー野球だった。快投のさだは「フォークも投げた。腰に来た…」。今思えばユーモアを交えたコメントを、ただただ必死にメモしたことを覚えている。

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