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【骨になるまで・日本の火葬秘史】上皇ご夫妻は400年ぶりでも「火葬」を望まれた 新時代の「送り方・送られ方」を考える

NEWSポストセブン / 2024年6月18日 11時15分

 聖徳太子は、6世紀半ば頃に伝来していた仏教の教えと仏像などの仏教文化を“丸のみ”して治世に生かした。

 聖徳太子の改革をさらに推進して国家の形を整えたのは天智天皇である。律(刑法)と令(行政)の制度化を図るが、律令国家の完成は、弟の天武天皇、その妻の持統天皇、曾孫の文武天皇の治世まで待たねばならず、大宝律令は701年に完成した。

 天皇の祭祀の形も律令国家の進行に連動する。686年に亡くなった天武天皇の葬儀は、長い殯(もがり)の後、発哀(みね)、誄(しのびごと)などの儀礼が続けられた。モガリとは死後、遺体をすぐには埋葬せず、棺に納めて仮安置し、別れを惜しみながらも体から魂が抜け「完全な死者」になったことが確認できるまで一定期間置いておく風習で、ミネとは僧尼による慟哭(どうこく)儀礼。弔いの儀式に時間と労力を割くことで、天皇の権力を証明しようとした。

 702年に亡くなった持統天皇は火葬を選択した。日本の火葬は「西遊記」で名高い玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に唐で学んだ道昭(どうしょう)の700年が最初といわれている。道昭に帰依していた持統天皇が続き、その後の天皇の弔いは火葬と土葬が混在しつつ、室町時代の中期には火葬が定着する形で歴史が刻まれていく。

 その間には840年に亡くなった淳和天皇のように遺言に基づき火葬に付された後、遺骨が砕かれて京都の小塩山に撒かれた「散骨」の先駆者も存在した。

後醍醐天皇の陵は京都の方角を向いている

 一方で天皇の役割は大きく変遷していく。平城京を経て平安京に遷都(794年)した桓武天皇の時代までは中央集権の律令政治はうまく機能していたが、藤原氏など特権階級に「荘園」という私有の領地を認めたことから天皇支配は揺らぎ始め、9世紀末頃からは藤原氏の摂関政治が始まる。

 その藤原氏の権勢が頂点に達したのは、NHK大河ドラマ『光る君へ』が描く藤原道長(966〜1028年)である。ドラマのように天皇は「御簾の向こう」にいて裁可は下すが言わされているだけ。権威はあっても権力はない。

 藤原の後、平、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川と武力を伴う日本の支配者は代わるが、この間天皇が権力を掌握しようとしたことが、一度だけある。

 2度の元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)によって幕府が揺らいだ鎌倉時代、不平を受け止めた後醍醐天皇が「討幕の論旨」を発し、楠木正成、新田義貞、足利高氏(後に尊氏)らが呼応して幕府を倒し、親政(天皇が行う政治)を行った。「建武の中興」と呼ばれるが、1333年から2年半で崩壊。天皇の戦術戦略は武家に及ばず、足利尊氏は室町幕府を開いた。

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