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篠原信一が「銀」に泣いたシドニー五輪「世紀の誤審」から24年 柔道界の鉄人が指摘する「国際試合ならでは」の事情

NEWSポストセブン / 2024年7月23日 11時15分

 2000年9月22日、シドニー五輪100キロ超級の決勝戦。日本代表の篠原信一の対戦相手は、世界選手権覇者で96年アトランタ五輪王者のダビド・ドゥイエ(フランス)だった。

 1分半が過ぎたあたりで篠原はドゥイエの内股に反応し、右脚を高く突き上げて内股すかしで切り返す。ドゥイエは背中から、篠原は横から落ちた。篠原は一本勝ちを確信したが、判定は有効。しかも篠原ではなく、ドゥイエのポイントとなった。

 最も近くにいた副審は篠原の一本勝ちを宣告したが、主審ともうひとりの副審がドゥイエの有効と判定。そのポイントのまま試合は終了し、篠原は銀メダルに終わった。

 試合後、日本は山下泰裕監督と斉藤仁コーチが猛抗議したが認められなかった。後に全日本柔道連盟(全柔連)が抗議文を送り、国際柔道連盟(IJF)は「両者とも技は完全ではなかった」として、ドゥイエ有効の判定を誤審と認めた。

 篠原の勝利に覆ることはなかったが、これがビデオ判定導入のきっかけとなった。

「柔道は相撲と同じように選手が同体で倒れることが多い。相撲は先に落ちたとか、先に土俵を割ったという明確な判定基準があるが、柔道の場合は“どちらの体が死んでいるか”が重要で、判定の難しさでもある。百戦錬磨の選手でないと、“相手に投げられたか、技を返したのか”という違いがわからない。

 シドニー五輪決勝の審判を責めるつもりはありません。主審は篠原やドゥイエの技のレベルを体験したことがなかったからです。あえて言うなら、なぜ彼を決勝の審判員にしてしまったのか、ということでしょう」

 主審を担当したのはニュージーランド出身の柔道家で、実力は「二段」だったといわれる。

講道館ルールとIJFルールの相克

 柔道は「ルール変更」によって国際化が進んでいったが、ルールに則って判定する審判は度重なる変更に翻弄されてきたともいえる。

 日本の柔道は総本山の講道館が規定する「講道館ルール(講道館柔道試合審判規定)」で行なわれてきた。世界大会でも第1回世界柔道選手権(1956年)と東京五輪(1964年)では「講道館ルール」が採用され、第4回世界柔道選手権(1965年)までこのスタイルだった。

 だが、柔道の国際化を目指して1967年に国際柔道連盟が「IJFルール(国際柔道連盟試合審判規定)」を制定し、それ以降の世界大会で採用されるようになった。

 日本でも高校生以上の大会は基本的に「IJFルール」になったが、体重無差別で柔道日本一を決める全柔連主催の全日本選手権や全日本女子選手権は、引き続き「講道館ルール」で行なわれた。2つのルールを使い分けるという歪な構造だが、それには「有効」や「効果」といったポイント制の側面が強い国際ルールに対して、全柔連には「一本勝ち」を重視する“柔道の母国としてのプライド”があったともいわれる。

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