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【逆説の日本史】「虫けら同然の野蛮人」と義兄弟になった清朝皇族・粛親王善耆

NEWSポストセブン / 2024年7月31日 17時15分

 また芳子は「東洋のマタ・ハリ」とも呼ばれたが、マタ・ハリとは何者かと言えば、「パリのムーランルージュで人気を集めたオランダ系のダンサー。第一次大戦中、ドイツのスパイとしてフランス軍に逮捕され、銃殺された。マタ=ハリは芸名で、マレー語で太陽の意。以後、女スパイの代名詞となった」(『デジタル大辞泉』小学館)」である。この人も、戦前の人間なら誰でも知っていると言っても過言では無い有名人だった。

 どうも人名紹介ばかりになってしまったが(笑)、戦前の人間が常識としていたことがわかっていないと、これから先がいま一つ理解不足になるのでお許しいただきたい。

 川島芳子の夫となったガンジュールジャブや父バボージャブのことも気になるかもしれないが、これは後ほど語らせていただく。とにかくここでは、粛親王善耆と川島浪速の関係が当時の常識を超えた深いものであったことを認識していただきたい。

 二人は義兄弟になったともいう。これは日本の歴史にたとえれば、徳川家の血を引く一橋慶喜が一般庶民それも外国人と義兄弟になったということだ。あるいは、南北戦争前のアメリカで白人と黒人が義兄弟になったようなものだと言えば、その関係性がおわかりいただけるだろうか。だからこそ善耆は、娘の養育を「兄弟」に託したのである。

 しかし、いくら開明派とは言え、それは立憲君主制つまり清朝が続くことを前提としてのものであった。だから孫文の長年の努力が実って辛亥革命(1911年)が実現したとき、そして袁世凱が清朝に終止符を打つことを条件に孫文から中華民国大総統の座を譲り受けたときも、最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀。のち満洲国初代皇帝)の退位に反対した。

 しかし、彼らには袁世凱に対抗できる軍事力が無い。この先の話だが、袁世凱は皇帝になる野望を抱いており、民主派のリーダー宋教仁を暗殺した男でもある。命の危険を感じた善耆は川島の手引きで、当時日本が租借していた旅順に逃げた。事実上の日本亡命である。亡命とは自分が所属していた国の保護を離れて一人になるということだから、よほど信頼できる人間の手引きがなければできるものではない。すなわち、川島がいたからそれができたというわけだ。

 当然、善耆はこののち「清朝復興」をめざすことになる。そこへ、モンゴルとも深いパイプを持っていた川島が「満蒙独立」つまりモンゴル族と満洲族が団結し、漢民族の中華民国から独立すればいいではないかと持ちかけたのである。

満洲族にとって重要な「旗」

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