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【逆説の日本史】戦前の青年の多くが抱いていた支那大陸「大草原へのあこがれ」

NEWSポストセブン / 2024年8月14日 16時15分

 再三述べたように、彼の地では稲作が不可能だったからである。つまり、日本人の立場から見ればアイヌは「窮死」させる必要は無く、むしろ「サケやクマの供給者」として「生かして」利用すべき、ということになる。それが日本列島の歴史である。あらためて、「万里の長城」という境界線は作られたものの、遊牧民と農耕民が妥協できずに土地を争った中国大陸とは、日本列島と違ってじつに苛烈な環境であったことを思い知らされる。

 こういうことを知っていれば、司馬遼太郎の次の「冗談」も深く味わえるのではないだろうか。それは外蒙古つまり外モンゴルに建国されたモンゴル人民共和国(当時)で野菜が生産され食されていることを、通訳の女性から知らされたときである。

〈「おどろいたな」
「なにが?」
「モンゴル人が野菜を食べるなんて」
 堕落だな、と言おうとしたが、彼女のほうが脂肪のたっぷりした白いのどくびをみせて大笑いした。農業といっても人間のためのそれは小麦か何かぐらいのもので、主として家畜の飼料をつくるのだ、と教えてくれたのである。私は、ひそかに安堵した。偉大なるモンゴル民族が野菜を食ったがために滅びたなどというようなことがあれば、紀元前から営々(?)とそれを拒否してきた先祖に対して相済まぬではないか。〉
(引用前掲書)

 ここで、大正初期の満蒙独立運動に話を戻そう。大陸浪人とは言っても、頭山満のような「孫文(中華民国)応援団」と立場を異にする川島浪速は、「義兄弟」の清朝皇族粛親王善耆と組んで中華民国に滅ぼされた清朝再興をめざした。そのような形で清朝再興を成功させれば、当然日本はその新国家に強い影響力をもつことができるからだ。そして川島は、清朝に取り込まれた「内モンゴル人」ならば味方として使えると考えたのだろう。

 すでに述べたように、善耆の妹善坤は内モンゴルの王侯貴族に嫁いでいる。この「内モンゴルの王侯貴族」という曖昧な表現を、なぜしなければならないのかを説明するのに、これだけの紙数を要した。この話題に入ったとき川島浪速の経歴を紹介したが、引用した事典の説明に次のような記述があったのをご記憶だろうか。「このころから清朝の粛親王、蒙古王喀喇沁らと親交を結ぶ」。

 せっかく引用したのにケチをつけるようで申し訳ないが、この「蒙古王喀喇沁」という表現は、あまり正確では無い。そもそも、この時代「蒙古王」つまり蒙古全体の王などいない。ひょっとしたら日本の新聞が勝手にそう呼んだことはあったかもしれないが、それにしても「蒙古王喀喇沁」はおかしい。「善耆の妹善坤の夫」のことを指す意図なら、誤りとすら言える。「喀喇沁」は人名では無く、旗の名前つまり農耕民の世界なら地名にあたるものだからだ。

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