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【逆説の日本史】戦前の青年の多くが抱いていた支那大陸「大草原へのあこがれ」

NEWSポストセブン / 2024年8月14日 16時15分

〈ハラチン(喀喇沁)部 ハラチンぶ Kharachin
15世紀以後モンゴル東部に現れる部名、行政区画名。16世紀後半にダヤン・ハン(達延汗)の孫のバヤスハルの支配下に入り、以後その後裔の支配するところとなったが、17世紀前半、リンダン(林丹)の征討を受けて壊滅、残った者は清朝に下って八旗に編入された。清代に内モンゴルのジョソト盟に属したハラチン2旗はこれとは異なり、ウリヤンハン部族の分れで、明代の朶顔衞の後身である。〉
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)

 じつは、いま問題にしている「ハラチン(カラチン)」とは、この記述の冒頭に出てくるものでは無く、それとは異なる「清代に内モンゴルのジョソト盟に属したハラチン2旗」のほうである。つまり、一度途絶えていたハラチンが清朝に「再興」されたということだ。なぜ「2」なのかと言えば、「右旗」と「左旗」があったからだ。

 ちなみに「盟」というのは、いくつかの「旗」によって構成される上位団体のことで、日本で言えば「市」が「県」に所属しているようなものだ。そして、その内モンゴル・ハラチン右翼旗の旗長だったのが「善坤の夫」で、個人名はグンサンノルブ(貢桑諾爾布。モンゴルに姓は無い)という。

渡蒙した日本人女性教師たち

 じつはこの人物、通常の人名事典や百科事典には載っていない。私が経歴をまとめておけば、まず生没年は一八七二~一九三一年。生家はチンギス・ハンの功臣ジェルメの子孫というから、名門である。モンゴル語、中国語だけで無く、チベット語にも通じていたという。その後所属するジョソト盟においても有力幹部となった。

 大阪で開かれた内国勧業博覧会を見学するために一九〇三年(明治36)に来日し、教育者下田歌子と会い女子教育の重要性を教えられ、帰国後ハラチン旗に「モンゴル史」初の近代女子教育機関である毓正女学堂を開校した。そして歌子の紹介で河原操子、鳥居きみ子ら日本人教師を招請し、近代的な女子教育を実践した。ちなみに、下田歌子は今度の新五千円札の肖像となっている津田梅子と並んで日本の女子教育の発展に貢献した重要人物なので、河原操子、鳥居きみ子とともに経歴を紹介しておこう。

〈下田歌子 しもだうたこ 1854-1936(安政1-昭和11)
皇室中心主義、国家主義の立場にたった女子教育者。幼名、平尾鉐(せき)。岐阜県出身。1872年から女官生活、79年結婚し退官。夫と死別後、81年上流家庭子女に純日本的教養を与える桃夭(とうよう)女塾を開設、賢母良妻の育成に努めた。華族女学校開設(1885)に参与し1907年まで皇女・貴女教育に従事。この間イギリスの皇女教育、欧米諸国の女子教育とともにその国情を視察し、1898年、婦人労働問題の未然の防止、国威をそこなう海外醜業婦問題の解決などを願って婦人大衆の教育を企図して帝国婦人協会を創設。貧困女性の教育機関として99年創立の実践女学校(実践女子大学の前身)は協会事業の一環だったが、実際には中・上流家庭子女の中等教育機関となった。1901年以降、この学校では清国女子留学生も受け入れた。(以下略)〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者千野陽一)

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