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【逆説の日本史】第二次満蒙独立運動の「主役」に躍り出た武闘派の内モンゴル人

NEWSポストセブン / 2024年9月7日 7時15分

 後に日本軍の手強いライバルとなる張作霖ももとは馬賊のリーダーだったし、その軍事顧問を務めた日本人・伊達順之助(伊達政宗の末裔)も馬賊のリーダーとなった。小説『夕日と拳銃』(檀一雄作)は、彼をモデルにした作品である。

 そうした時代風潮のなかで同じく馬賊のリーダーとなったバボージャブも、日本の幕末の志士のように個性的な魅力ある人物だったようだ。幕末にたとえれば、グンサンノルブは王族の出身だから徳川慶喜のような立場で、それに対して叩き上げのバボージャブは西郷隆盛かもしれない。佐幕か倒幕かの違いということだ。

 もっとも清朝を尊重する姿勢を維持していたグンサンノルブも辛亥革命で清朝が滅んだあとは、外モンゴルに誕生した「全モンゴル独立をめざすボグド=ハーン政府」に関心は抱いた。しかしバボージャブとの決定的な違いは、彼が喜び勇んで配下を率いボグド・ハーン(活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世)のもとに馳せ参じたのに対して、グンサンノルブは内モンゴルにとどまったことだ。グンサンノルブには守るべき旗つまり「領地」があった。この点も、遊牧民の常に拠点を移動する、という習慣を維持していたバボージャブとの決定的な違いかもしれない。

 しかし前にも述べたように、ボグド・ハーン政権はラマ教に由来する平和主義もあり武闘派では無かった。結果的には「内外モンゴルの統一をめざす」こと無く、中華民国およびロシア帝国とキャフタ協定(1915年)を結んでしまった。これは、簡単に言えば中露との妥協の産物で、中国もロシアもボグド・ハーン政権の完全な独立は認めないが、ロシアは中国の宗主権下におけるボグド・ハーン政権(=外モンゴル)の高度な自治を認める。その代わりに外モンゴルの経済権益を獲得する、というのものだった。

 肝心なことは、ここで外モンゴルと内モンゴルを統一した「大モンゴル国」を建国するという理想は完全に否定されたことだ。その理想を抱いていたバボージャブにとっては憤懣やるかた無かっただろうし、一方キャフタ協定を結んで事を荒立てたくないボグド・ハーン政権にとっては、バボージャブは頼りになる精鋭部隊の長から厄介者になったということだ。絶対に「中国人(漢民族)の支配」を受けたくなかったバボージャブは、それゆえに「約3000の騎兵をひきいて独自行動」をとったのである。

 すでに述べたように、袁世凱は一九一六年(大正5)一月より新たに元号を「洪憲」と定め、国号を「中華帝国」とし自らは皇帝に即位する形を整えたが、このようなことは突然実現できるわけではない。事前の準備が絶対に必要だ。つまり一九一五年(大正4)、言葉を変えて言えばキャフタ協定が成立したころから、いずれ袁世凱は皇帝になるつもりだと日本も認識していた。

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