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【逆説の日本史】多くの歴史書に書かれていない張作霖とバボージャブの「因縁」

NEWSポストセブン / 2024年9月11日 16時15分

〈中国の軍閥。字(あざな)は雨亭。奉天(ほうてん)省(現、遼寧(りょうねい)省)海城県の人。馬賊から身をおこし、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。のち清(しん)朝に帰順。辛亥(しんがい)革命のとき、奉天(現瀋陽 (しんよう))市内に入り警備にあたる。1916年、奉天将軍の段芝貴(だんしき)を追って督軍になる。1918年、東三省巡閲使、その後、黒竜江、吉林(きつりん)両省を支配下に収めて、東三省全体に君臨する奉天軍閥を形成した。(以下略)〉

 まだまだ記述は続くのだが、これから先は多くの人が知っているだろう。これより十年後の一九二八年(昭和3)、国民党の蒋介石に敗れた張作霖は満洲へ引き返したが、日本の関東軍参謀河本大作大佐の工作によって奉天駅付近で乗っていた列車を爆破され、殺害された。日本では真相を隠し「満洲某重大事件」と呼んだ。これで田中義一陸軍大将が首班であった内閣は崩壊したが、関東軍の首謀者は軍法会議にかけられることも無く、結局これが満洲事変そして日本による満洲国の建国につながった。

 ちなみに関東軍の名称にある「関東」とは、万里の長城の東端の山海関のさらに東の地域、具体的には満洲(東三省)を意味する。遊牧民であった満洲族が清朝を建てるまでここは「中華」では無く、長城の外側つまり「化外の地」であったが、清朝の成立によって中国の東北地方となり、三つの省が置かれたというわけだ。前出の百科事典では項目を次のように締めている。

〈張作霖は日本の後援を受けて軍閥として成長し、日本もまた彼を利用して東北に進出しようとした。その点で両者は互いに利用しあう関係にあった。しかし、彼が東北の枠を越えて全国的な規模の軍閥に成長すると、アメリカなどとのつながりが生まれ、かならずしも日本のいうことに従わなくなったのが、殺されたおもな理由であろう。〉

 そのとおりかもしれないが、多くの歴史書に張作霖は「爆殺事件(満洲某重大事件)」の被害者、そして満洲地域の軍閥の長として突然登場するような形で書かれている。実際はそんな単純なもので無いことは、おわかりだろう。組織でも人間でも一朝一夕には成り立たないし、当然その成立過程には多くのしがらみがある。

 たとえば、張作霖は日露戦争のときに一時はロシア側スパイとして動き、日本軍に捕らえられたことがある。スパイは直ちに処刑してかまわないというのが戦場のルールだが、彼はなぜか命を助けられた。日本軍のトップにいた児玉源太郎大将の計らいであり、これには若いころの田中義一中佐もかかわっていたという話もある。これが本当なら、張作霖にとって日本軍は「命の恩人」だったわけである。

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