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【逆説の日本史】多くの歴史書に書かれていない張作霖とバボージャブの「因縁」

NEWSポストセブン / 2024年9月11日 16時15分

 また、多くの歴史書で書かれた張作霖の経歴について一つ欠けている部分があるのだが、それはなにかというとバボージャブとのかかわりだ。バボージャブがボグド・ハーン政権と縁を切って独立勢力となった一九一六年(大正5)七月、日本から武器弾薬および食料の援助を受けたバボージャブ軍は内モンゴルから奉天をめざして南下し、これを迎え撃った張作霖軍と激戦して見事勝利を収め、吉林省の一角を占領したのである。

 このまま日本の援助が続けば強力なバボージャブ軍は袁世凱の手先である張作霖の妨害を払いのけ、大モンゴル統一に一歩も二歩も近付いたかもしれない。

 なぜ張作霖が袁世凱に味方したかと言えば、もちろん経済的利益もあるがやはり日本が対華二十一箇条を中華民国に突きつけたことが大きいだろう。前にも述べたように、このあまりにも強硬な要求は中国民衆を憤激させ結果的に袁世凱の権力を強化する結果を招いた。もっとも、それで民衆の支持を固めた袁世凱が調子に乗って皇帝になろうとしたために、多くの中国人が彼を見捨て日本の大隈内閣も「排袁」に転じたため、結果的にこのことはバボージャブには追い風となった。

 一方、張作霖は張作霖でいまさら革命勢力と手を組み袁世凱と対決するよりは、権力の座にある袁世凱にとりあえずは従う姿勢を見せておいたほうがよい、という判断を下したのである。

機銃掃射を浴び戦死

 ところで、日本が張作霖を爆殺しようとしたのは昭和三年が初めてでは無く、少なくともこれは二回目だったということをご存じだろうか? バボージャブ軍が奉天に向かう二か月前の五月に、三村豊予備役少尉率いる一隊が奉天駅頭で張作霖を待ち伏せし、馬車ごと爆殺しようとした。

 普通の場合、予備役は大佐などの佐官あるいは大尉あたりまで勤め上げた軍人がいったん現役から引退する(召集があれば即応する)ための制度だが、少尉で予備役とはきわめて珍しい。陸軍士官学校を出て少尉に任官して、すぐ軍人を辞めたということだ。もちろん辞めたのは戦争から離れるためでは無く、むしろ大陸浪人のグループに入って陸軍を側面から応援するためだっただろう。

 三村は川島浪速の推進する「満蒙独立運動」に深く共感していた。川島の「満蒙独立」は「内モンゴル独立」より「清朝復活」に力点を置いたものだ。大陸には清朝が滅亡した段階でその再興をめざす宗社党という秘密結社が誕生していたが、三村のグループはこの一団とも交流があった。一方、バボージャブは清朝が完全に復興し内モンゴルを支配し続けることは望んでいないが、日本にとっては「敵の敵」であり「味方」ということになる。

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