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憲法9条は"天皇制維持"の交換条件だった

プレジデントオンライン / 2018年12月18日 9時15分

1946年5月、首相官邸で会見する幣原喜重郎首相(左)と吉田茂外相。国際主義的な考えを持つ幣原も吉田も、皇室を中心に国民が団結しなければ日本の秩序ある再建は望めないという認識を共有していた。(写真=共同通信イメージズ)

3期目安倍政権で再び高まりそうな改憲論議。だがこれまでの多くの議論は、日本国憲法制定の国際政治史的な文脈を忘れた、あまりにイデオロギー的かつ内向きの議論だったのではないか。国際政治学者の細谷雄一・慶応大学法学部教授は、日本国憲法の制定作業が連合国による戦後処理プロセスのなかで、当時の幣原首相らによって国際協調主義に基づき行われたことを改めて指摘する――。

※本稿は、細谷雄一『戦後史の開放II 自主独立とは何か 前編 敗戦から日本国憲法制定まで』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■9条の「発案者」が考えていたこと

幣原喜重郎の名前は一般的に、戦後の首相として新憲法制定の道筋を付け、とりわけ憲法9条の「発案者」であることによって記憶されている。しかしながら、幣原が何よりも重視したのは、天皇制の維持であった。

天皇制を維持してはじめて、日本は新しい国家として戦後の歴史を歩むことができる。天皇制を失えば、その後に待っているのは混乱と無秩序であろう。幣原は、天皇制維持という目的を達成するための手段として、新憲法制定と戦争放棄条項が必要だと判断したのだ。

1945年秋から1946年春にかけて、国際情勢と日本国内の政治状況は大きく揺れ動いており、天皇制の将来についても不透明性が増していた。

まず、幣原内閣が成立した時期と時を同じくして、GHQは日本政府に政治犯の釈放を命じており、それによって日本共産党の活動が公然と始まった。日本共産党は、天皇制批判を展開するようになり、10月下旬頃からその機関紙「赤旗」等でも断続的に、「天皇制打倒」の主張がなされていた(*1)

天皇制批判がなされていたのは、日本国内だけではなかった。アメリカ国内や中国国内でも、日本の侵略の源泉を天皇制という国家体制に求めて、それゆえに天皇の戦争責任を説いて、天皇制を廃止して戦後に新しい民主的な国家を建設するよう求める声があった。

高齢ながらも首相の重責を引き受けた幣原は、「最後の御奉公」として天皇制を維持することを何よりも大きな目標として設定したのであった。問題は、その目標を達成することが、必ずしも自明でもなければ、容易でもなかったことである。それを可能とするような、何か良い智恵が求められていたのだ。

■天皇制維持への国際的な逆風

これらの問題を理解するためには、この時代の日本を取り巻く国際政治と結び付けて考慮することが必要だ。というのも先に述べた通り、国際社会においてこの時期に天皇制維持への逆風が強まっていくからだ。

戦勝国間での戦後処理に関する外交交渉が始まると、アメリカ以外の諸国が、自らも対日占領政策へ関与できるように強く求めてきた。

最初にそのような要望を訴えたのは、対日戦の勝利で一定の貢献をなしたイギリスであった。とりわけイギリスは英連邦の盟主として、日本が再び軍国主義国家として復活することを恐れるオーストラリアやニュージーランドの意向も考慮しなければならなかった。それに続き、ソ連政府と中華民国政府も対日政策への関与を強く要求した。

細谷雄一(著)『戦後史の解放II 自主独立とは何か 前編:敗戦から日本国憲法制定まで』(新潮社)

モスクワ外相理事会での外交交渉の結果として、1945年12月27日の共同声明によって、極東委員会と対日理事会の創設が正式に発表された。極東委員会はワシントンD.C.に設置されて、米英ソ中などの11カ国がそこに参加することになった。これからはこの極東委員会が、対日占領に関する最高意思決定機関となる。

この極東委員会の付託条項によれば、「日本国の憲法構造」における根本的変革を処理するいかなる指令も、「極東委員会における協議を経、かつその合意が達成されたときにのみ、発せられる」と記されている(*2)。すなわち、日本が憲法改正を行う際には、極東委員会の承認が必要となるのである。

これは、ソ連や中国、オーストラリアのような対日強硬派の諸国の意向を、憲法改正に反映させる必要が生じたことを意味する。このような合意を前提として、アメリカ政府は憲法改正問題に対処しなければならない。もはや、天皇の戦争責任を問うことを求めるソ連や中国、オーストラリアの要求を、無視することができなくなってしまった。

■明治憲法の「解釈改憲」で済むと思っていた日本側

そのようななかで、どうすれば天皇制を維持できるのか。どのように日本の民主化を進めていけば、天皇制の維持を保証できるのか。それらを考えることもまた、新しい「国のかたち」をつくっていく作業の一環である。とはいえ、幣原首相も政府の中枢にいた関係者の多くも、この時点においてはまだ、国際情勢の変化に伴って天皇制維持が容易ではなくなったという現実を、必ずしも十分に認識できていなかった。彼らは、明治憲法をそのまま用いても、天皇制維持や民主化の実現、平和国家への転換が可能だと考えていたのだ。それはとても連合国にとって受け入れ可能なものではないという認識が完全に欠落していた。

幣原首相は、10月25日に憲法問題調査委員会を設置した。憲法問題調査委員会には、委員長であり元東京帝大教授の松本烝治国務大臣の下に、宮沢俊義東京帝大教授、清宮四郎東北帝大教授、河村又介九帝大教授、石黒武重枢密院書記官長、楢橋渡法制局長官、入江俊郎法制局第一部長、佐藤達夫法制局第二部長が委員として加わっていた。実質的には、松本烝治と宮沢俊義の2人が中心となって検討作業を進めていたとされる。

松本烝治委員長は、明治憲法を改正する意志をほとんど持っていなかった。松本自らが、この委員会について、「この調査会は学問的な調査研究を主眼とするものであるから、若し改正の要ありといふ結論に達しても直ちに改正案の起草に当るといふことは考へてゐない」と断言している(*3)。松本も宮沢も、戦後日本が再出発する上で、明治憲法をそのまま用いて、憲法解釈を柔軟に変えていくだけで十分に対応できると考えていたのだ。それはあまりにも、当時の国際情勢を無視した、内向きの思考であった。

宮沢の恩師であり、この憲法問題調査委員会の顧問でもあった美濃部達吉はちょうどこの頃に、「朝日新聞」紙上で、「憲法の改正はこれを避けることを切望して止まない」と書き記し、解釈の変更のみで戦後に新国家として再出発できると考えていた。宮沢もまた、美濃部や松本委員長と同様に、憲法改正には反対であった。宮沢は、「憲法の改正を軽々に実施するは不可なり」とこの年の9月の講演で述べている(*4)

明治憲法は、この時代を生きる多くの日本人にとって血であり肉であり、その呪縛は絶大であった。それを根本から改正するという思考は、内側からは湧いてこなかったのだ。そして彼らは、憲法を改正して、認識を改めない限り、天皇制の維持が困難になっているという国際情勢の変化を、ほとんど視野に入れていなかった。日本における憲法規範という、閉じられた宇宙の中で生きていたのだ。

■国際情勢の厳しさへの不感症

それはまた、当初の幣原首相の認識でもあった。幣原は組閣間もない頃から、憲法改正について「極めて消極的にして、運用次第にて目的を達す」と考えていた(*5)。11月28日の衆議院演説において、憲法改正の必要性を問う斎藤隆夫の質問を受けた幣原は、それを時期尚早と考えて、次のように答えた。「帝国憲法の条規は弾力性に富むものでありまして、民主主義の発展に妨害を加へることなく(*6)」。

守旧的な幣原の認識が変わるひとつの契機となったのが、1946年1月24日の幣原=マッカーサー会談である。幣原首相自らがマッカーサーに会って、意見交換に臨むことになった。幣原の関心は、天皇制の維持であった。幣原は、「どうしても天皇制を維持させておいてほしいと思うが協力してくれるか」と尋ねると、マッカーサーは「出来る限り協力したい」と応えた(*7)

この会談について、服部龍二は、「総じていうなら、幣原とマッカーサーが最重視したのは天皇制の存続であった」と論じる。そして、「戦争放棄を『ハツキリと世界に声明する事』は、その手段として位置づけられた」と述べる。というのも「戦争放棄を宣言することで、天皇制に批判的な国際世論を懐柔せねばならない」からであった(*8)

■戦争放棄条項の真の提案者は「A級戦犯」の一人だった

それでは実際のところ、憲法9条の戦争放棄条項についての提案は誰が行ったのだろうか。それは、マッカーサーの回顧録に書かれているように、幣原が最初に述べたのか。あるいはマッカーサーの提案なのか。当初は憲法改正の必要を感じていなかった幣原は、戦争放棄の問題をどのように考えていたのか。この点について、服部が新しい事実を紹介している。

服部は、このような幣原の戦争放棄に関する理念の出所を、元外交官でイタリア大使であった白鳥敏夫に求めている。白鳥がA級戦犯として東京裁判で有罪となったことを考慮すれば、これは実に皮肉なめぐり合わせであった。白鳥は、1945年12月10日付で、吉田茂外相に対して英文の書簡を送っている。そのなかで白鳥は、「憲法史上全く新機軸を出すもの」として、「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ」るべきだと記していた。いわば、天皇制を守るために、戦争放棄を憲法に盛り込むという発想であった(*9)

この書簡自体はGHQに検閲の末にしばらく接収されていたが、同様の内容を白鳥は直接吉田に伝えている。そして、同じ内容が書かれた書簡を接収が解除になってから渡された吉田は、その書簡を幣原に渡している。すなわち、吉田外相経由で、このような白鳥の戦争放棄論が幣原に伝わっている可能性が高い(*10)。そうだとすれば、幣原による戦争放棄条項の提案の出所は、白鳥ということになろう。

ちなみに白鳥は外交官として、1928年8月にパリで調印された不戦条約、すなわちケロッグ=ブリアン条約の調印式に、内田康哉全権代表の随員として参加している(*11)。白鳥はこの不戦条約の理念を想起して、かつて外務省の同僚であった吉田外相さらには幣原首相にそのような理念を伝えて、それによって天皇制が維持できるという方法を伝えたのだろう。

■国際協調主義の元外交官vs「不磨の大典」派の憲法学者

いわば、幣原も、白鳥も、いずれも天皇制を維持するという目的のために、平和憲法の象徴ともいえる憲法9条の戦争放棄条項に繋がる提案を行ったといえる。幣原首相と吉田外相は、戦前の日本の外務省で国際協調主義の重要性を主張する中心的な存在であって、また軍部の専横に苦しめられてきた存在であった。彼らには、明治憲法下の統帥権を盾にする陸軍と海軍の暴走を許したという反省から、平和主義に徹して軍部に制限を設ける戦争放棄の思想に共鳴するのは、自然なことである。

憲法改正の作業が幣原内閣で行われたということは、そこに必然的に国際協調主義の精神が埋め込まれたことを意味する。いわば、戦前日本の国際主義と自由主義の精神を存分に吸収してきた幣原と吉田という2人の元外務官僚が、首相および外相として新憲法制定に携わり、そこに国際主義と平和主義の理念を復元させた意義は大きい。

他方で、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長や宮沢俊義委員は、幣原や吉田とは異なる考えを有していた。彼らは明治憲法の体系を維持することを何よりも優先して考えており、「不磨の大典」の条文を護ることをほとんど唯一無二ともいえるような使命とし、可能な限り憲法改正を回避しようと試みていた。そのような頑迷な姿勢を崩さなかったことで大胆な改革を要望するマッカーサーの怒りを買い、松本烝治が作成した憲法改正案はGHQに峻拒される。結局、GHQ案に基づいた新憲法が起草される運命となってしまった。

もう少し松本や宮沢が国際的な潮流を理解して、民主化の徹底や天皇の権限の縮小という柔軟性を示していれば、日本人がより主体的に新憲法を起草できたはずである。彼らの頑迷さと内向きの思考が、日本が自らの手で憲法を自主的に起草する機会を喪失させたと言えないだろうか。ここにおいても、国際情勢の潮流を適切に理解できないという日本の宿痾を観ることができる。

■明治憲法「護憲派」のその後

その宮沢俊義が、そもそも明治憲法の軍部が強大な権能を持つ条文を改正する必要がないと考えていたにも拘らず、後には護憲を掲げて憲法9条の理念を強く擁護するようになるのは、なんという皮肉であろうか。それは体制に対する従順性と順応性の結果かも知れない。彼らの使命は、「不磨の大典」ともいわれる憲法の条文を、戦前においても戦後においても、一言一句を変えずに死守することにあったといえる。彼らを超越する力で、それを改正する圧力がかかったときには、いかにも彼らは無力であった。結果として憲法が大幅に改正されたのであれば、奇妙なことに今度はその新憲法を頑迷に保守することが自己目的化されていく。

また、憲法改正に消極的で、天皇主権の規定も残すことができると考えていた宮沢俊義が、憲法改正が確実となってしまった1946年半ばになると「8月革命説」を唱えて国民主権を訴えるのは興味深い。もしも本心から1945年8月のポツダム宣言受諾により天皇主権から国民主権への革命的転換が実現したと宮沢が信じていたとすれば、憲法改正においてより勇気ある提言を行うことができたはずである。むしろ「8月革命説」とは、戦前の天皇主権から戦後の国民主権へと「国体」が推移したと事後的に説明することで、彼らが連合国からの圧力によって憲法上の論理を転換したことを覆い隠す意義を持ったものというべきであろう。

■国際主義者だからできた「苦肉の策」

いずれにせよ、戦後初期に、幣原首相をはじめとして多くの政治指導者が頭を悩ませたのは、いかにして国内的及び国際的な批判を排して、天皇制を維持するかということであった。当時の日本の指導者層の間では、国際主義的な考えを持つ者も含めて、皇室を中心に国民が団結しなければ日本の秩序ある再建は望めないという認識が、広く共有されていた。
戦争放棄の理念を憲法に含めることは、天皇制を維持するためのやむを得ぬ苦肉の策であったのだ。それでもなお、戦前の国際舞台での経験からそのような戦争放棄の理念に積極的な意義を見いだすところに、幣原の本領が発揮されていたといえよう。

(*1)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文春文庫、2014年)p413。
(*2)西修『日本国憲法成立過程の研究』(成文堂、2004年)p1。
(*3)古関彰一『日本国憲法の誕生増補改訂版』(岩波現代文庫、2017年)p73。
(*4)同、p77─78。
(*5)服部龍二『増補版 幣原喜重郎─外交と民主主義』(吉田書店、2017年)p275。
(*6)同、p276。引用のカタカナはひらがなへと表記を変更している。
(*7)同、p277。
(*8)同。
(*9)同、p277─278
(*10)同、p278。
(*11)同、p279。

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細谷雄一(ほそや・ゆういち)
国際政治学者
1971年、千葉県生まれ。慶應義塾大学法学部教授。立教大学法学部卒業。英国バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。博士(法学)。北海道大学専任講師などを経て、現職。主な著書に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(サントリー学芸賞)、『倫理的な戦争』(読売・吉野作造賞)、『外交』、『国際秩序』、『安保論争』、『迷走するイギリス』、『戦後史の解放I 歴史認識とは何か』など。

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(国際政治学者 細谷 雄一 写真=共同通信イメージズ)

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