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1960年代のベトナム戦争を契機に、〈沖縄の日本復帰〉が実現した“複雑な事情”とは【歴史】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年4月2日 11時15分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

1950年代以降、日本が高度経済成長の道をひた進むなか、世界では冷戦、ベトナム戦争と、多くの勢力争いが勃発。それは世界での日本の立場や国交に、どのような影響をあたえていったのでしょうか。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)の著者である山中裕典氏が、1950年代から1970年代にかけての日本と世界情勢について、わかりやすく解説します。

「55年体制」の成立

公職追放解除で、もと日本自由党総裁鳩山一郎が政界に復帰したのち、〔第5次吉田内閣〕造船疑獄事件が発生すると、鳩山は吉田との対抗姿勢を強め、鳩山のもとに結集した反吉田勢力が自由党から脱党しました。

そして、日本進歩党・民主党系の政党に合流して日本民主党が結成されました。吉田は総辞職を決意し、日本民主党が与党の〔鳩山一郎内閣〕が成立しました(1954)。

鳩山は、「自主憲法制定(改憲)・再軍備」方針を掲げました。日本国憲法がGHQ案をもとにしたことから、日本人の手で新憲法を作るという口実で憲法改正を主張したのです。これに対し、左派社会党右派社会党は「憲法改正反対(護憲)・再軍備反対(平和)」を唱えて鳩山と対立しました。

そして、解散・総選挙で(1955)、左右社会党は改憲の阻止に必要な3分の1の議席を確保しました。改正発議には衆参両院で議員の3分の2以上の賛成が必要なため、発議は不可能となったのです。日本社会党は、左右統一を果たしました。

一方、少数与党だった日本民主党は過半数に達せず、日本民主党と自由党保守合同を進め、自由民主党(1955)を結成しました。こうして、保守の自由民主党が過半数を確保して単独与党となり、革新の日本社会党を中心とする野党が3分の1を維持して対抗する、55年体制が成立したのです。この体制は次の〔石橋湛山内閣〕に受けつがれ、1993年まで続きました。

ソ連との国交回復

核兵器開発競争が激化する一方、東西対立が緩和される「雪どけ」が進みました。1953年、朝鮮休戦協定が結ばれ、冷戦構造を作り上げたソ連の指導者スターリンが死去しました。のち、ソ連は「東西平和共存」を表明しました。

第二次世界大戦後にアジア・アフリカ諸国の独立が進むと、東西両陣営のどちらとも距離を置く「第三勢力」が国際社会で影響力を持ち始めました。中国・インドを中心にアジア・アフリカ会議(1955)がインドネシアのバンドンで開かれ、反植民地主義・民族主権などの「平和十原則」が採択されました。

鳩山一郎内閣は、どのような外交上の成果を上げたのか?

〔鳩山一郎内閣〕は、これまでアメリカ一辺倒だった吉田外交のあり方を批判し、「自主外交」の方針を掲げてソ連との関係改善をめざしました。「雪どけ」の広がりによる冷戦の緩和もあって、日ソ共同宣言(1956)が調印され、日ソ間の戦争状態が終了して国交が回復しました。

そして、ソ連が日本の国際連合加盟を支持したため、日本は国際連合への加盟を実現しました(1956)。一方、平和条約を結んだ後に歯舞群島・色丹島が引渡されると規定され、平和条約を結ばない限りは「北方領土」問題が解決しないことになったのです。

安保条約の改定により、国内では「安保闘争」が始まる

〔岸信介内閣〕は「日米新時代」を唱え、アメリカと対等な立場の双務的な安保条約改定をめざし日米相互協力及および安全保障条約(新安保条約)(1960)に調印しました。アメリカの日本防衛義務が明記され、10年間の期限後の条約廃棄も可能にしました(廃棄通告が無ければ自動延長)。

また、日米行政協定を継承した日米地位協定も結ばれました。しかし、日米の共同行動も規定され、アメリカの軍事戦略に日本が巻き込まれる可能性があることから、革新勢力や市民・学生の団体が安保改定に反対しました。

60年安保闘争は、なぜ高揚したのか?

岸は革新勢力と全面対決する強引な政治手法をとったため、60年安保闘争が激化しました。条約の批准の際、政府・与党は警官隊を国会内に導入して反対議員を排除する非民主的な手法を使い、衆議院で強行採決しました。

これにより、「安保改定反対」を掲げていた運動は、「民主主義擁護・岸内閣打倒」を掲げた運動へと転じ、国会を包囲するデモが高揚しました。結局、参議院では審議されず、衆議院の優越により、新安保条約は30日後に自然成立しました。

経済政策優先への転換

〔池田勇人内閣〕は「寛容と忍耐」をスローガンに革新勢力との対決を避け、高度経済成長を促進するため、10年間で国民総生産と1人あたり国民所得を2倍にする国民所得倍増計画(1960)を発表しました。1964年には東海道新幹線が東京・新大阪間に開通し、東京オリンピックも開催されました。

また、政治的な敵対関係と経済的な互恵関係とを分ける「政経分離」方針で、中華人民共和国との間で準政府間貿易(LT貿易)も始めました。

1960年代以降、野党に見られた変化

安保改定をめぐる路線対立で、社会党から右派が脱党して民主社会党(のち民社党)を結成し、公明党も結成されるなど、野党の多党化が進みました。

キューバ危機、ベトナム戦争が勃発し、不穏な1960年代

核ミサイル配備をめぐり核戦争の寸前となったキューバ危機(1962)を機に、核実験が制限され、核兵器の他国への供与などを禁止した核兵器拡散防止条約(1968)が結ばれるなど、核兵器開発競争に歯止めがかかりました。

一方、社会主義の路線や冷戦のあり方をめぐり、中華人民共和国がソ連と敵対し中ソ対立)、国境紛争も発生するなど、「東側」に亀裂が走りました。

ベトナム戦争が日韓関係にもたらした影響とは?

日本は独立後に「西側」の韓国と国交樹立交渉を始めたものの、植民地支配の事後処理や漁業権などが問題化し、交渉は膠着しました。

ところが、1965年にアメリカがベトナム戦争に介入すると、事態は急展開しました。アメリカが支援した南ベトナムが反政府組織(南ベトナム解放民族戦線)との内戦で動揺すると、アメリカが社会主義国の北ベトナムを攻撃し(北爆開始 1965)、アジアの反共(資本主義・自由主義)陣営の結束を強化するため、日韓両国に交渉促進を働きかけたのです。

こうして、〔佐藤栄作内閣〕のもとで日韓基本条約(1965)が調印され、植民地支配の完全な終了を確認し、日本は韓国政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」と認めました。一方、北朝鮮とは国交不正常の状態が続いています。

「沖縄返還協定」が調印

住民が主体の祖国復帰運動は、北爆開始(1965)によって高揚しました。沖縄が米軍の出撃基地となり、米軍による基地用地の強制接収やアメリカ兵の犯罪増加で、基地反対闘争も加わったからです。一方、沖縄の米軍基地に配備された核兵器の存在が懸念され、〔佐藤栄作内閣〕は世論に配慮して非核三原則「持たず・作らず・持ち込ませず」を表明し、交渉にあたりました。

まず小笠原諸島返還され(1968)、次に沖縄返還協定(1971)が調印されて、沖縄の日本復帰が実現しました(1972)。しかし、協定には新安保条約の沖縄への適用が規定され、沖縄の米軍基地は使用され続けることになりました

米中関係が変化した1970年代

国際社会は中華人民共和国を正式な中国と認め、国際連合の総会決議で中華人民共和国が国連代表権を獲得し、中華民国(台湾)が国際連合から追放されました。一方、ベトナム戦争が泥沼化したアメリカは、北ベトナムを支援した中華人民共和国に接近して、和平を画策しました(ベトナム和平協定[1973])。これらを背景に、アメリカは米中接近に踏み出し、ニクソン大統領が訪中して(1972)、敵対関係を終了しました(米中国交正常化は1979年)。

中華人民共和国との国交正常化は、どのように達成されたのか?

〔田中角栄内閣〕では、田中首相が訪中して周恩来首相と会談し、日中共同声明(1972)が調印されました。日本が侵略戦争の「責任を痛感し、深く反省」し、「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府」と認めました。これにより、中華民国(台湾)との国交を断絶し、日華平和条約は破棄されました

田中は、産業の地方分散と高速交通網での接続という日本列島改造を打ち出しますが、公共事業の拡大で地価が高騰しました。また、第4次中東戦争によって第1次石油ショック(1973)が発生すると、中東の石油に依存していた日本では「狂乱物価」となりました(トイレットペーパー買占め騒動も発生)。

〔三木武夫内閣〕のとき、石油ショックで生じた世界的な不況に対し、経済問題を中心とする第1回先進国首脳会議(サミット)が開かれました(1975)。また、田中角栄前首相が、アメリカ航空機会社の売り込みをめぐる汚職で逮捕されるロッキード事件が発生しました。〔福田赳夫内閣〕では、日中平和友好条約(1978)が調印され、中華人民共和国と正式に国交を樹立しました。

山中 裕典

河合塾/東進ハイスクール・東進衛星予備校

講師

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