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"拗ね者"本田靖春を読まずに戦後を語るな

プレジデントオンライン / 2018年12月19日 9時15分

後藤正治(著)『拗ね者たらん 本田靖春 人と作品』(講談社)

■読売新聞の花形社会部記者だったが、37歳で退社

ノンフィクション作家の本田靖春さんが亡くなって14年がたつ。

本田さんの『不当逮捕』『疵(きず)』『誘拐』『私戦』『私の中の朝鮮人』『我、拗(す)ね者として生涯を閉ず』などは今でも多くの読者に読み継がれている。

本田さんと袖すり合った編集者の一人として、うれしいことである。

私は今でも、考えあぐねた時、本田さんの形見の万年筆を取りだして原稿用紙に書いてみることがある。ペン先が本田さんの言葉を引き出してくれるような気がするからだ。

読売新聞の花形社会部記者だった本田さんが、当時の社主・正力松太郎の動静を紙面を使って毎日のように報じることに異を唱え、読売を退社したのは1971年、37歳の時だった。

私は彼の一回り下である。講談社に入社して2年目、25歳だった。月刊「現代」の先輩から本田さんを紹介された。

このところ認知症気味で記憶は定かではないが、巨人軍の内幕もののまとめ原稿を依頼したと記憶している。署名記事ではない。

■前妻がこしらえた多額の借金を背負っていた

簡単な打ち合わせをして別れた。だがその夜、本田さんから自宅に電話が入り、自分は読売を辞めた時、いくつか誓ったことがある、その一つに、巨人軍については絶対書くまいというのがあるので勘弁してもらえないかというのである。

私の父親は記者ではないが、戦前から読売に勤めていて熱狂的な巨人ファン、私も長嶋大好き人間だった。それもあって、ここは引くわけにはいかないと押し問答を1時間以上繰り返し、何とか引き受けてもらった。

不幸なことに、これが本田さんがフリーになって初めて書いた原稿になってしまった。後に知るのだが、この時期、前妻がこしらえた多額の借金を背負い、仕事を選んではいられない事情があったのだ。

こうして始まった本田さんとの付き合いは、濃淡はあっても、2004年12月4日に71歳で亡くなるまで続くことになる。

本田さんと一緒に仕事をしたのは1回だけだが、よく呑みには行った。四ツ谷や新宿の淀橋警察(現・新宿警察)裏手の飲み屋やスナックが多かった。

■本田さんの全作品を丁寧に読み込み、取材を重ねた労作

本田さんの酒の飲み方をひと言でいうと、とてつもなく楽しい酒だった。興が乗ると渥美清の寅さん顔負けの啖呵売を熱演してくれたり、得意のフランク永井の『公園の手品師』などを本家よりうまいのではないかと思う低音、アカペラで歌ってくれた。

当時よく、「僕の夢はね、NHKホールでリサイタルをすること」だったが、それがまんざら口から出任せではないと思わせるものがあった。

この頃はノンフィクションという言葉は使っていなかったが、その後、柳田邦男氏(NHK)、立花隆氏(文藝春秋)、児玉隆也氏(光文社)、沢木耕太郎氏などが次々作品を発表していく中で、ノンフィクションという言葉が定着し、本田さんたちが第一世代といわれる。

佐野眞一氏や猪瀬直樹氏たちが第二世代。その世代の牽引者で、『遠いリング』や『清冽』『天人』などの優れたノンフィクションを世に出してきた後藤正治氏が、このほど『拗ね者たらん 本田靖春 人と作品』を講談社から出した。

本田さんの全作品を丁寧に読み込み、その作品と関わった多くの編集者たちにインタビューした労作である。

本田さんが読売を辞め、フリーの物書きとしてからの足跡が、ほぼ年代順に並べられている。読んでいるうちに、本田さんとの思い出がよみがえり、瞼を熱くすることが何度かあった。

■「滑らかで艶のある文章を書く」天性の才

私は入社2年目に本田さんと出会い、中堅編集者時代を経て、「フライデー」「週刊現代」編集長をやり、その後、子会社に放逐され、本田さんの亡くなった2年後の06年に退職する。本田さんを思い出すということは、自分のサラリーマン人生を振り返ることにもなるのである。

本田さんの才能をいち早く見出したのは、「文藝春秋」編集長の田中健五氏だった。本の中で田中氏はこういっている。

「当時は無名ではあったけれども一読して上手いなぁと思ったのは本田さんと児玉隆也さんでしたね」

児玉氏は光文社「女性自身」の敏腕編集者で、「文藝春秋」で田中角栄総理(当時)の愛人について書いた「淋しき越山会の女王」で一躍有名になった。

本田さんの書く文章は平易で、読む者の心に染み入ってくる。だいぶ前になるが、本田さんに「文章修業をしたことはあるのか」と聞いたことがある。まったくないといったが、母親から「文章の末尾に、気を付けなさい」といわれたことがある。それは守っているそうだ。

後藤氏も書いているように、「滑らかで艶のある文章を書く」のは、天性のものなのだろう。

■心温まる話があったとすれば、「心温まる」とは書くな

この本は、ノンフィクションを書こうと思っている人にとって、第一級の入門書にもなっている。

ノンフィクションについて本田さんはこう書いている。

「そもそもノンフィクションは書き手の『主観』のもとに成立する。仮に、十人のノンフィクション作家が同一の仕事に取り組んだとすれば、十通りの作品が生まれる。事実の取捨選択からして『人生観ないしは社会観、ひいては世界観、歴史観といった主観に基づいて』」行われるからだ。言い換えるならば、「一編のノンフィクションは出来事に仮託した書き手の存在証明ということになるのであろう」

また、元大阪読売新聞の名物社会部長だった黒田清さんが始めたジャーナリスト養成講座「マスコミ丼」に来た人間に対して、こうアドバイスをしている。

「お前さんの書くものは平均点以上だ。ただ形容詞が多い。まずは名詞と動詞だけで書くことを心がけてみたらどうか。心温まる話があったとすれば、『心温まる』とは書かずにその事実だけ取り出して書いてみる。そうすれば、読者もまた本当に心温まる話だよなと思ってくれるもんだ」

■記者における「言論の自由」は、いい立てるものではない

本田さんは、あまりジャーナリズムについて真っ向から語ることは多くなかったが、『体験的新聞紙学』の中にこんな一節がある。

「記者における『言論の自由』は、いい立てるものではない。日常の中で、つねに、反覆して、自分の生身に問わなければならないものだ」

「文藝春秋」で「現代家系論」の連載が始まり、「現代」でも「日本ネオ官僚論」を始める。

「潮」でも連載を始めるなど活躍の場を広げていく本田さんを見ていて、当時の私の正直な気持ちをいうと、文藝春秋側の人になった、そう思っていた。

私は4年目に「週刊現代」へ移った。事件やトルコ(今のソープランド)の取材に追い回され、本田さんとは飲み屋で出会うくらいになっていた。会えば楽しく飲み明かしたが、ちょっぴり寂しい気がしていたのも事実である。

その当時、先輩からこんな話を聞いた。「週刊現代」の川鍋孝文編集長(後の日刊ゲンダイ社長)が本田さんに、新聞でいえば社説のようなものを巻頭で連載してくれないかと頼んだというのである。

もちろん週刊誌だから新聞のようではないが、川鍋編集長は週刊誌の顔を作ろうとしたのであろう。発想は悪くないが、いい方が悪かった。

何ページでもあげるから、それに専念して他には書かないでくれ。ついては、これだけ補償すると、とんでもない額を提示したというのである。

■伝説のヤクザ・花形敬を取り上げた名作『疵』

本田さんは、カネでオレを縛ろうとするのかと反発し、当然ながらその話を即座に断った。以来、講談社から足が遠のいたというのである。

このことについて、本田さんにいつか聞こうと思っていたが、機会を逸してしまった。

その後の活躍は“快進撃”といっていいだろう。77年に『誘拐』『私戦』、80年に『村が消えた』、83年に『不当逮捕』『疵』、86年に『警察(さつ)回り』、87年に『「戦後」美空ひばりとその時代』を出している。

この中で『不当逮捕』が本田さんの代表作だといわれているが、読者が多いのは、伝説のヤクザ・花形敬を取り上げた『疵』かもしれない。

この中に、上野の警察回り時代から一緒だった「内外タイムス」の平岩正昭という人物が登場する。千歳中学(旧制)の平岩が一期生、花形が五期生、本田さんが七期生。本の中では花形よりもヤクザの資質を持っていたと書かれている平岩さんとは、本田さんの紹介で知り合い、以後、可愛がってもらって、よく呑み歩いた。

平岩さんの父親は元アナーキストだった。一代で財を築き、社会党のパトロンだともいわれていた。世田谷・岡本に1万坪の土地を持つ大地主の長男だったが、父親と折り合いが悪く、戦争中、中国の北京大学に留学する。

敗戦から2年後、帰国して、朝日新聞を蹴って夕刊紙へ入った。長身痩躯、顔は高倉健をもっとニヒルにしたような二枚目で、剣道の達人。

『疵』が「オール読物」に載った時、平岩さんは笑いながら、「ひどいなポンちゃんは」といっていた。

■30年以上の付き合いだったが、仕事をしたのは2つだけ

もう一人、本田さんですぐ浮かぶのは黒田清さんである。大阪読売を辞めて独立してから、東京の朝のワイドショーに出ることも多くなった。

前日に来て、夜、本田さんと3人で、新宿西口裏のスナックでよく呑み、歌った。朝方まで騒いでホテルに戻り、朝、チャンネルをひねると黒田さんが出ていた。

その頃から体調が悪くなった本田さんを、黒田さんは心の底から案じていた。また調子が悪いようで入院していると伝えると、「何かあったら必ず連絡してくれ」といっていた。

その黒田さんのほうが本田さんより早く逝ってしまったのだから、世の中分からないものである。

30年以上の付き合いになるのに、本田さんと仕事をしたのは先に書いた初仕事と、「現代」に連載してもらった『「戦後」美空ひばりとその時代』だけである。

なぜなのかと、よく聞かれたが、私には、好きな人とは仕事をしないという傾向があるようだ。雑誌屋家業が長いと、長年親しく付き合っていても、1本の記事で関係が終わることがよくある。

■戦後を代表する人間を通して「昭和」を書く

自分が好きな書き手と仕事をすると、嫌なことの一つもいわなければならない時がある。原稿催促のために、きつい言葉を吐くこともある。そうならないためには、仕事を一緒にしない、相手の懐に入り込み過ぎない、適度な距離感を持って付き合うことが習い性になってしまっているのだろう。

だから私は、小説誌の編集者にはなれなかった。作家ととことん付き合い、懐に飛び込むという芸当ができないのだ。

物書きから、「お前は冷たい」といわれたことが何度かあるが、人間関係に臆病なのだろう。本田さんとよく酒を呑んだが、酒席でも素面でも、仕事の話をしたことはなかった。

本田さんに原稿依頼をしようと思ったのは、その頃、本田さんが文藝春秋の持つ“体質”に違和感を持ち始め、講談社に戻ってきてくれたと感じたことが背景にあったような気がする。

昭和の終わりが見えてきて、戦後を代表する人物を通して敗戦後の昭和という時代を書いてもらいたい、それには本田さんしかしないと考えたのは、至極当然であった。

■「お兄さん、ずいぶんおでこが広いわね」

だが、企画意図には頷いてくれたものの、私が選んだ人選、美空ひばり、長嶋茂雄、石原裕次郎はお気に召さなかった。巨人ぎらいだから長嶋はダメ。裕次郎の映画は見たことがない。美空の歌にははっきりいって共感するものがない。

そこで相談だが、フランク永井じゃダメかなときた。今度はこちらがウンとはいえない。そんな問答をしているうちに、ようやく、美空でやってみるかといってくれた時は、正直、ホッとした。

美空の取材のアポは、意外に簡単にとれた。本田さんと一緒に青葉台の美空の家に行くと、2階のらせん階段から彼女が降りてきた。股関節が痛いようで手すりにつかまり歩はのろかったが、第一声はきつかった。

「お兄さん、ずいぶんおでこが広いわね」

私に向かって、そういった。大きなお世話だろう。

取材はおおむね順調だった。歌舞伎町のコマ劇場の楽屋にも何度かお邪魔した。伝法で寂しがり屋の彼女は、酒が離せないようだった。腰が痛むのだろう、楽屋では横になっていることが多かったが、舞台ではみじんもそんな様子は感じさせなかった。

■「可能性の時代の子として美空ひばりはいた」

巡業先で入院して、再起不能と騒がれたが、一度は不死鳥のようによみがえった。ホテル・ニューオータニだったと記憶しているが、そこで行われた関係者だけの復活コンサートにも呼んでもらった。

彼女が亡くなったのは、本が出て2年後。52歳だった。

本田さんのノンフィクションの基本は私的ノンフィクションである。縦糸が美空で、横糸に本田さんの戦後が織り込まれている。だが、美空に対する思い入れが薄い分だけ、本田さんのノンフィクション群の中では、成功作とはいえないかもしれない。

だが、戦争が終わり、当時の人々がどういう想いでいたのかを、見事に綴った文章がある。これだけで私は、この本をつくった価値があったとひそかに思っている。

「人々は飢えていた。私の場合は、住む家がなく、納屋の暮らしから戦後の生活が始まった。着るものがなく、履く靴がなく、鞄がなく、教科書がなく、エンピツがなく、ノートもなかった。

しかし、人々は桎梏から解放されて自由であった。新しい社会を建設する希望に満ちていた。そうした可能性の時代の子として美空ひばりはいた」

■「目が見えないといっている」と電話があった

本田さんは「戦後に授けられた民主主義を墨守したまま人生を終えたいと考えている」といっていた。本田さんが考える戦後とは60年安保闘争までを指す。戦後と民主主義にこだわり続けた人だった。

早智夫人から、本田さんの糖尿病は50代初めの頃から発症していたと聞いたことがある。酒はもちろんだが、肉が大好きで、野菜はまったく食べない。取材がある時以外は家で執筆三昧では、糖尿病にいいわけはない。

本田さんが元気な頃、新橋にあるステーキ屋「麤皮(あらがわ)」へご一緒したことがあった。何ともうれしそうに、NY仕込みのマナーでステーキを食べていたのを思い出す。

記憶が確かではないが、92年だったと思う。夫人から、主人が目が見えないといっていると電話があった。糖尿病が悪化してきたのかもしれない。

そこで、阿佐ヶ谷にある病院「K」に少し前までいて、千葉県・流山に自分の医院を開業し、「老稚園」と称して老人医療に力を入れている庭瀬康二さんに連絡をした。阿佐ヶ谷なら、本田さんの住まいとそう遠くない。私もカミさんも、そこで人間ドックを受け、カミさんの両親も何度か入院したことがある。

庭瀬さんは胃がんの名医で、寺山修司などの主治医も務めた人である。庭瀬さんは、「わかった。すぐに手配する」といってくれた。だが、結果的には、それが裏目にでた。眼の手術をした医師がミスを犯し、右目を失明させてしまったのである。

■糖尿病が悪化し、体力も気力も失われていった

申し訳ないと頭を下げる私に、本田さんは怒りをぶつけることはなかったが、件の医師を告訴することも考えたという。今思い出しても慙愧に堪えない。

その後、糖尿病センターのある東京女子医大へ入院して、治療を受けることになり、この病との長い壮絶な闘いが始まる。

私が「週刊現代」編集長だった95年新年合併号から、本田さんのノンフィクション「岐路」の連載が始まる。これは元々「小説現代」に連載する予定だったものだが、誌面の都合上、小田島雅和編集長が、「本田さんの競馬ノンフィクションだ。お前のところでやってくれないか」と持って来たものである。

私は即座にOKした。「岐路」は、読売を辞めて4カ月ほどたち、前妻のつくった借金を抱えて鬱々としていた本田さんが、ダービーでヒカルイマイが、後方一気に差し切るのを見るシーンから始まる。

私は昔、本田さんの家で、前の奥さんと一度会ったことがある。楚々(そそ)とした美人だったと記憶しているが、何を話したかは覚えていない。

取材はほとんど終わっていて、既に何本分か書いてあったと思う。本田さんにとって初めての競馬ノンフィクションだったが、連載は残念ながら半年足らずで休載になる。糖尿病が悪化し、体力も気力も失われていったからだった。

■作家一人救えないで、何が編集者だ、何が出版社だ

私は本田さんに、いつでも再開できるよう、目次の下に「筆者の都合により休載」と入れておきますから、あわてずに治療に専念してくださいといった。

だが、連載が再開されることはなかった。

書きにくいことだが、もう一つ問題があった。ノンフィクションを雑誌に連載している時は、原稿料や取材費が入るからいいが、本田さんクラスでも単行本で売れる部数は、小説などに比べるとはるかに少ない。

本田さんは、週に一回透析を受けなくてはいけない。当時は保険がきかなかったから、行き帰りのタクシー代を含めて、かなりの出費になる。

本田さんは笑い話に紛らわせて、透析代が払えずに病院から路上に放り出された患者の話をしたことがあった。だが、笑い事ではない。

私は、休載中も毎週、原稿料を支払い続けた。月刊「現代」の渡瀬昌彦編集長にも、いくらでもいいからとお願いをして、毎月、払ってもらった。

本田さんのような優れたノンフィクションの書き手を、こんな病気のために死なすわけにはいかない。何としてでも、もう一度ペンを握って書いてもらいたい。それが、私を含めた本田さんを慕う編集者たちの、切なる思いだった。

作家一人救えないで、何が編集者だ、何が出版社だ、そう思っていたのである。

■4年以上、通算46回の連載は亡くなる直前まで続いた

この本にも出てくるが、そうした中、本田さんを東京競馬場へ連れて行ったことがあった。馬主席から、車いすに座ってターフをじっと見ていた。声をかけられなかった。競馬との別れを惜しんでいたのだろう。

帰りのクルマの中で、本田さんは「ありがとう」といった。涙をこらえた。

本田靖春(著)『我、拗ね者として生涯を閉ず(上)』(講談社)

だが、肉体はボロボロになっても、本田さんの書くことへの執念は衰えることがなかった。2000年4月から、月刊「現代」で「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載が始まったのである。

担当者から知らされたとき、正直、驚いた。同時に、本田さんを慕う講談社の編集者たちがこぞって本田さんを支えてきたからこそ、この日が来た、そうも思った。

以来何度も中断するが、4年以上、亡くなる直前まで連載は続いた。ほとんど視力を失った右目に、バカでかい拡大鏡を使って一字一字、それこそ石に刻むように書いていくのだ。

「病魔は止むことなく本田を襲った。大量下血から大腸ガンの切除、壊疽(えそ)の進行による右足の切断、左足の切断、大腸ガンの再発……。四カ月、三カ月、二カ月、三カ月の休養をはさみつつ、本田は通算四十六回に及ぶ連載を書き続けた」(本書より)

■作家と編集者とは、一緒に人の家にドロボウに入るみたいなもの

壮絶などという言葉が陳腐に思える過酷な闘病中でも、本田さんのユーモアあふれる物いいは途切れることなく、見舞いに行ったわれわれを逆に元気づけてくれた。

「元木君、テレビで競馬中継を見ているんだけど、よく当たるんだよ」、そういって笑った。ネオユニヴァースがダービーを勝った瞬間を、病床ベッドに腰掛けて、2人で見たのが最後になった。

担当編集者のひとり、藤田康雄には、「作家と編集者ってどんな関係だと思う?」と聞いたそうだ。

「二人して一緒に人の家にドロボウに入るみたいなものじゃないのかな。そう思ってきたよ」。書き手と編集者は一蓮托生だというのであろう。

後藤氏が書いているように、担当編集者と本田さんとの仲は「〈会社〉や〈仕事〉としてのかかわりという域を超えた、ちょっと例を見ない交わりであった」と思う。

ノンフィクション作家として優れた仕事をした書き手はほかにもいるが、編集者たちから、これほど愛された人はいないと思う。

■知らない読者が読んでも、本田さんに会いたくなる

最後に、私事を書かせていただきたい。私の友人に中川六平という名物編集者がいた。彼が亡くなってから早5年がたつが、当時は「晶文社」に籍を置いていて、私のオフィスに遊びに来ては、呑み歩いた。その彼から「本田さんを書け」といわれたことがあった。

まあそのうちと、ずぼらな私だから、何も手を付けなかったが、そのうち六平がしびれを切らしたのだろう、便せん3、4枚にコンテを書いて、この通り書けと置いていった。書けば「晶文社」から出すというのである。

それは、おおまかにいうと、本田さんの作品評論を縦軸に、私と本田さんとのかかわりを横軸にしたものだった。

六平(2013年9月5日・享年63)が亡くなり、催促する人間がいなくなったため、そのままになってしまった。

後藤氏から本田さんのことを聞きたいと連絡があり、会って話しているうちに、失礼を承知でいえば、本田さんのことを書くのに最良の人を得たと思った。

本にまとまり、一読して、その思いをいっそう強くしたのである。

この本は、本田靖春を知らない読者が読んでも、彼の作品を読みたくなり、会いたくなると思う。

私も読みながら、本田さんの顔を、声を何度も思い出していた。読後、久しぶりに本田さんとじっくり話し合えたような、そんな気がした。

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦)

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