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オウムが選挙に挑み、全員落選。皆殺しが始まる

プレジデントオンライン / 2019年9月2日 15時15分

オウム衆院選 宗教政党・真理党を結成し第39回衆議院議員総選挙へ向け、決起集会を行ったオウム真理教、中央ソファに座っているのが麻原彰晃教祖=1990年1月13日 - 写真=日刊スポーツ/アフロ

オウム真理教は、坂本堤弁護士一家殺害事件から3カ月後の1990年2月、衆議院選挙に信徒25人が立候補し、全員が落選した。教祖の麻原彰晃は「これは国家による陰謀だ」と主張し、教団の武装化へ急速に舵を切った——。

※本稿は、松井清人『異端者たちが時代をつくる』(プレジデント社)の第1章「『オウムの狂気』に挑んだ6年」の一部を再編集したものです。

■武装化するオウム

もはや捜査の手は伸びてこない、と高を括ったのだろう。麻原彰晃(本名:松本智津夫)の増長は留まるところをしらず、信徒たちは教祖への帰依を深めていった。

オウム武装化のきっかけは、坂本事件から3カ月後、1990(平成2)年2月に行われた衆議院選挙である。すでに述べたように、麻原を筆頭に信徒25人が「真理党」から立候補。若い女性信徒にゾウの帽子をかぶらせ、街宣車の上で踊らせると、マスコミは「オウムシスターズ」と名付けてもてはやした。

25人全員が落選すると、麻原は「これは国家による陰謀だ」と主張し、教団の武装化へ急速に舵を切る。このときから、教団施設内での化学兵器や自動小銃の製造が本格化していくのだ。

敵対相手と見なす個人への攻撃も、激しさを増していく。1993(平成5)年11月と12月の2回、東京・八王子の創価学会関連施設に向けて、完成したばかりのサリンを噴霧する。池田大作名誉会長を暗殺するためだった。その3カ月前の8月、山梨県上九一色村の教団施設に、サリン製造実験の「クシティガルバ棟」が建設されていたことがわかるのは、ずっとあとのことだった。

■教団を批判して狙われた人々

1994(平成6)年になると、オウムの攻撃はさらにエスカレートしていく。

5月9日、オウム信者のカウンセリング活動を行っていた滝本太郎弁護士が襲われる。

駐車場に止めてあった車のフロントガラスにサリンを流されたのだ。

〈帰り道、視界が暗くなるなどの症状は出たが、大事には至らなかった。滝本は、車に乗るとウォッシャー液で窓を洗う癖があった。〉(『全真相』)

そのため、サリンの大部分が加水分解され、事なきを得たのだろう。

滝本弁護士は、あわせて3回も殺されかけている。車のドアの取っ手にVXが塗られたときは、革手袋をしていたため難を逃れた。富士宮市内の旅館でオウムと交渉しているとき、オウム幹部に勧められて飲んだジュースのコップに、ボツリヌス菌が塗りつけてあったことも、のちに判明する。

教団を批判する漫画を描いた、漫画家の小林よしのりさんも、VXで狙われた。

■ジャーナリストの自宅に毒ガス

江川さんが標的にされたのは、9月20日未明のことである。事件発生からしばらく時間がたったころ、江川さんが当時住んでいた横浜市内のマンションから電話をかけてきて、

「どうもオウムに襲われたみたいです。新聞受けからホースみたいなものを突っ込まれて、部屋に何か撒(ま)かれたんです。白い煙がもうもうと出て、すごく目がちかちかして、喉が痛いんですよ」

淡々と言う。私は動転してしまい、

「すぐ警察に通報して! 救急車を呼んで病院に行かなきゃだめだ!」
「やっぱり警察に連絡したほうがいいですかね。どうせ何もしてくれないと思いますよ。でも、もう大丈夫だと思います。窓を全部開けて、煙を出したから」

江川さんは落ち着いたもので、口調もしっかりしている。私は「警察に連絡して、すぐ病院に行って」と繰り返して受話器を置いた。

あとでわかったことだが、事は重大だった。

殺害を指示したのは麻原で、新實、遠藤誠一、中川、端本の4人が、廊下に面したドアの新聞受けから、毒ガスのホスゲンを撒(ま)いたのだ。ドアノブがゆるんでいたことから、4人が侵入を試みたことも明らかになる。

江川さんは気丈にも、逃げる犯人を追いかけたようだ。

〈ドアを開け、外廊下に出てみると、黒っぽい服装に、頭をフルフェースのヘルメットのようなもので覆った男がマンションから走り出て、待っていた車の助手席に乗り込み、急発進で逃げるのが見えた。〉(『週刊文春』95年3月30日号)

しかし、私には何も言わなかった。それから1週間くらい、満足に声が出ない状態が続いたようだが、泣き言も恐怖心もまったく口にしない。おそらく、「自分が坂本弁護士をオウムに結び付けた。拉致された一家3人の恐怖を思ったら、自分の身に起こったことなど取るに足らない」という意識が強かったのだろう。

事件の前にも、脅迫電話が絶えないと洩らしたことはあるが、怯えるそぶりなど少しも見せなかった。

■首の後ろから注射器で猛毒

江川さん襲撃の3カ月ほど前、6月27日に松本サリン事件が起こる。死者8人、負傷者約140人。オウムによる無差別大量殺人の幕開けだったが、またしても捜査は迷走する。長野県警は、現場近くに住む、第一通報者の河野義行さんを誤認逮捕してしまうのだ。

警察の失態を嘲笑(あざわら)うように、オウムの暴走は加速していく。

1995(平成7)年1月1日、読売新聞の一面にスクープが躍った。上九一色村でサリンの残留物が検出されたというのだ。この“元旦スクープ”をきっかけに、警察もようやく重い腰を上げたのか、オウムに強制捜査に入るという情報が流れ始めた。

その直後の1月4日、私が連絡を取り合っていた「被害者の会」の永岡弘行会長が襲われる。

みぞれ交じりの雨が降っていたこの日、永岡さんは自宅マンションの駐車場で車のタイヤを交換し、昼食を済ませたあと、突然苦しみ出す。目の前が暗くてよく見えないと訴え、大量の汗をかいて、のけぞるように倒れ、救急車で大学病院へ運ばれた。脳幹梗塞という診断だったが、翌日の血液検査で有機リン中毒と判明する。

新實や井上嘉浩らと共謀した元自衛官の信徒が、タイヤを交換している永岡さんの首の後ろから、注射器で猛毒のVXをかけたのだ。VXの毒性は、サリンの100倍だという。

■嫌がらせの電話「地獄に落ちるぞ」

解毒剤を投与されて、永岡さんはかろうじて一命を取り留め、2週間ほどで退院。江川さんから電話をもらって、私は自宅へ駆け付けた。退院はしたものの、視力は十分に回復せず、握力がない、微熱が続くなど、後遺症は深刻だった。何よりも、事件当時の記憶が完全に欠落している。

例によって、警察は動かない。どころか、「農薬のスミチオンを飲んで自殺を図った」と勝手に判断し、マスコミにもリークする始末だ。そんな中傷にさらしておくわけにはいかないし、再度の襲撃も考えられる。家族にも身の危険があるから、江川さんの依頼もあって、私は都内のホテルに部屋を取り、しばらく一家をかくまうことにした。

オウム真理教「被害者の会」はその後、「家族の会」と名称を変えるが、永岡さんは、いまも後遺症に苦しめられながら、活動を続けている。

先陣を切って批判キャンペーンを始めた『サンデー毎日』は、オウムの凄(すさ)まじい攻撃を受けた。麻原自ら弟子を引き連れ、編集部に乗り込んだ。それでも連載が続くと、毎日新聞社に街宣車を横付けし、大音量で示威行動に出る。

牧太郎編集長の自宅には、「地獄に落ちるぞ」といった嫌がらせの電話が、朝から晩まで鳴りっ放し。最寄り駅までの道筋に立つ電柱には、「でっち上げはやめろ」と大書された、牧さんの写真入りのビラが貼られたという。毎日新聞の社屋に爆弾を仕掛けて吹き飛ばす計画を立て、実際に岡崎と早川が地下駐車場の下見まで実行していたことも、やがて明らかになる。

■“上祐の定期便”

ところが『週刊文春』に対しては、激しい抗議や嫌がらせ、直接的な攻撃はほとんどなかった。

厄介なことといえば、キャンペーンの担当デスクだった私に、オウムの上祐史浩外報部長が毎週、抗議の電話をかけてくることだった。決まって、『週刊文春』が発売される木曜日の夕方5時ごろ、内容はいつも同じだ。

「あなたは信教の自由ということがわかっていない」
「我々が事件に関与したという証拠があるんですか」
「これは宗教弾圧ですよ」
「いつまで記事を続けるんですか」

冷静かつ論理的ではあるが、速射砲のように畳み掛けてくる。私がひとこと言えば、何十倍も返ってくる。まさに「ああ言えば上祐」で、私はほとんど聞いていただけだ。

最後はいつも、

「もう告訴するしかないですね」
「訴える訴えないはそちらの判断ですから、私がとやかく言うことじゃない。確信があるから、記事は続けますよ」

というやり取りで終わる。そんな抗議の電話が、ほぼ毎週のように一時間から一時間半くらい。私はその電話を“上祐の定期便”と呼んでいた。

■オウムから8件の刑事告訴

自宅への嫌がらせは多少あった。夜中にかかってくる電話は、無言だったり、「ふっ、ふっ」と不気味な声だけ残して切れる。

ある日、深夜に帰宅すると、マンション一階の集合郵便受けに、ずらっとオウムのパンフレットが差し込んであった。まるで花束でも挿したように整然と並んでいる。

よく見ると、我が家のポストにだけ入っていない。

なるほど、我が家にだけ差し込んであったら、たいした効果も迫力もなかっただろう。よく考えるものだな、と感心したが、さすがにいい気持ちはしなかった。

オウム真理教に対する強制捜査が一段落し、麻原や主だった幹部が逮捕されたあと、私は検察庁に呼び出される。「あなたは全部で8件、オウムから刑事告訴されていました」と告げられ、仰天したが、当時は知る由もなかった。簡単な上申書を提出して一件落着となったのは、言うまでもない。

オウムの敵意や憎悪は、キャンペーンを牽引した江川さんに向けられ、小柄な彼女が一身に背負ってくれたのだろう。

■「地下鉄サリン事件」の予行演習

オウムの暴走は、もはや止めようがなかった。

①1994(平成6)年6月、すでに述べた松本サリン事件。
②同年7月、上九一色村で異臭騒ぎ。異臭が発生した現場近くの土壌から、サリンの原料にもなる有機リン系化合物が検出される。
③1995(平成7)年3月5日、京浜急行電車内で異臭事件。下り普通電車が横浜駅を発車した直後、乗客が異臭を感じ、目の痛みや咳を訴え、救急車で運ばれた。
④同年3月15日、東京・霞ケ関駅構内で不審なカバンを発見。中には噴霧器が三個入っていて、いずれも時限式かつ超音波振動式だった。

松井 清人『異端者たちが時代をつくる』プレジデント社

そして、同年3月20日、地下鉄サリン事件という未曽有の大惨事が起こる。

捜査当局は、②から④までの事件はすべて、「地下鉄サリン事件」の予行演習だったとみている。

長いあいだ謎とされていたのが、事件③だ。なぜオウムは、京浜急行という地味な路線を選んだのか? なぜ横浜発の普通電車なのか?

江川さんが、『週刊文春』3月30日号に書いている。

〈単なる偶然だろうか、この路線は普段私が利用しているものなのだ〉

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松井 清人(まつい・きよんど)
文藝春秋 前社長
1950年、東京都生まれ。東京教育大学(現・筑波大学)卒業後、74年文藝春秋入社。『諸君!』『週刊文春』、月刊誌『文藝春秋』の編集長、第一編集局長などを経て、2013年に専務。14年社長に就任し、18年に退任した。

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(文藝春秋 前社長 松井 清人)

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