1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

「ラグビーW杯日本招致」世界とのタフな交渉録

プレジデントオンライン / 2019年10月18日 11時15分

AFLO=写真

2019年9月20日に開幕したラグビーW杯日本大会。これまでラグビー伝統国でしか開催されてこなかった祭典は、なぜ日本にやってきたのか。世界とのタフな交渉にあたったメンバーたちの真実の物語。

■世界との交渉秘録

「おかしいじゃないですか――」

森喜朗は、怒気を含んだ日本語でシド・ミラー国際ラグビーフットボール評議会(IRB、現WR)会長に語りかけた。

同席していた眞下昇は、ややたじろぎ、森先生、何を言うつもりだろうかと、少しばかり案じた。傍らで通訳として臨席していた徳増浩司は、どのように訳して伝えるべきかと困惑しつつ、慎重に言葉を選んで英語を発した。

森は、遠慮せずにつづけた。

「仲間うちでだけボールを回し合っているようでは、ラグビーはいつまでたってもグローバルなスポーツにはなりませんよ」

誰がどう見てもイギリスを中心とする不公平かつ不平等であるIRBの運営に憤り、投票権の偏った構成を念頭に、ラガーマンらしい比喩で難じた。

■2011年大会W杯招致投票前夜

2005年11月17日、アイルランドの首都、ダブリン。IRBの理事会が開かれ、6年後の11年ラグビーワールドカップ(W杯)の開催国を決めるプレゼンテーション、そして投票が進められていた。名乗りを上げて最終候補として残ったのはニュージーランド(以下、NZ)、南アフリカ共和国、そして日本の3カ国である。

森 喜朗●1937年、石川県生まれ。早稲田大学商学部卒。日本ラグビー協会会長、ラグビーW杯2019組織員会副会長、日本ラグビー協会名誉会長などを歴任した。

日本ラグビー協会の幹部たちは、2年あまりをかけて、やっとここまで来たかという感慨と、圧倒的に不利な状況に追い込まれている悲壮感に、同時に浸っていた。

ラグビー強豪国の南アフリカは、来る10年サッカーW杯の開催国にすでに決まっており、スタジアムの建設も進んでいた。したがって、ラグビーW杯を開催できる環境も整っていると自信に満ちていて、ほかの理事国も高い関心を示していた。NZは、1987年に第1回W杯をオーストラリアと共催しており、単独での自国開催を熱望していた。国土は日本より狭く、人口は約500万人である。開催国としては南アフリカに劣ると見る関係者が少なくなかった。

しかしながら、南アフリカとNZの招致団には、世界的に知られたスター級の元選手がリーダー格にいて、プレゼンテーションでは日本を圧倒した。

眞下 昇●ラグビーW杯2019組織委員会エグゼクティブアドバイザー。1938年、東京都生まれ。トップレフリーとして活躍した後、日本ラグビー協会専務理事、副会長などを歴任。

日本の招致団は、元首相で日本ラグビー協会会長の森喜朗を筆頭に、元外務事務次官で駐イギリス日本大使の野上義二、協会専務理事でW杯招致実行委員会委員長の眞下昇らが幹部として居並んでいた。森が早稲田大学ラグビー部OBであることは、日本国内では広く知られている。野上は、都立日比谷高校ラグビー部時代に全国ベスト8に入っており、眞下は伝統校の群馬県立高崎高校、東京教育大学(現・筑波大学)、そして社会人時代とラグビーに打ち込み、現役引退後はレフリーとして国際試合でもホイッスルを吹いていた。

森や眞下らとともに2003年から各国を巡ってロビー活動をしてきた協会の国際部長で主要な通訳者でもあった徳増浩司も、期待と同時に危機感を抱いていた。

IRBの規定と要請に基づき、W杯日本大会が実現した場合の全48試合のスケジュール、グラウンドの整備、各国の選手やスタッフの移動手段、宿泊ホテル、入場料収入のシミュレーションなど、限られた日本ラグビー協会のスタッフたちとともに練り上げてきた。ここに至る終盤の5カ月ほどの間、徳増は、まともに休めたのが2日か3日かというほどであり、苦闘の日々を思い返していた。

■新たにアジアで、そして日本での展開へ

そして、日本は「A Fresh Horizon(新しい地平線)」というキャッチコピーを掲げて招致を訴えた。これまでの伝統国ばかりでの開催から、新たにアジアで、そして日本での展開へ、というメッセージが込められていた。日本国内でも、招致に賛同する署名を16万筆以上、集めていた。

徳増浩司●ラグビーW杯2019組織委員会事務総長特別補佐。1952年、和歌山県生まれ。17年にアジアラグビー協会会長を退任し、現在名誉会長を務める。

海外の関係者を眞下らとともに訪ねて、日本が招致活動に名乗りを上げるので、ぜひ賛同してほしいと、説得してきた。徳増は、国際基督教大学を卒業後、西日本新聞社勤務を経て、英ウェールズの大学に留学した経験があり、とくにラグビーの専門用語にも長けた語学力を駆使して通訳と交渉の最前線に立ってきた。各国の代表であるIRB理事たち一人ひとりを説得すると、アジア初の開催に賛意を示す者は少なくなかった。

だが、当時の日本代表チームは、欧州遠征でスコットランドに8-100、ウェールズに0-98などと惨敗を喫することばかりがつづいた。ホテルのバーで酒を酌み交わしながら、海外の関係者を説得していると、酔った相手から「100点とられて負けるような国にW杯は行かない」と痛烈な本音をぶつけられることもあった。徳増は、苦笑いを浮かべながら相手に頷きつつ、「悔しい思いが逆に闘志に変わった」と振り返る。

四季は美しい。治安がよく、物価は安いこと。夏季・冬季のオリンピック開催、韓国とのサッカーW杯共催というスポーツの世界イベントを成功させたという実績があること。平均15分に1本という間隔で新幹線が整然と列島を走っており、移動に要する時間と負担が少ないこと――。日本開催の利点を、そう訴えた。

(上)優勝チームに贈られるウェブエリスカップ。(中)2011年大会のプレゼンテーション前、IRB理事会室入り口での一枚。(下)2019年招致を後押ししてくれたIRBラパセ会長(当時)。(写真提供=徳増氏)

投票日が近づいてくると、立候補している南アフリカとNZの招致団の幹部たちは、深夜になっても、ホテルのバーで理事国の幹部をつかまえては、相手の目を見据えて、投票を訴えかけている。徳増たちも、投票日の前夜遅くまで、席を立つ関係者たちを引きとめては、グラス片手に熱く日本への投票を要請した。翌朝、疲労と睡眠不足で朦朧としながら、ホテルのロビーに下りると、開催を競う南アフリカとNZの幹部たちがまだ理事国の幹部たちをつかまえて説得していた。慌てて、その場に加わった。

3カ国が招致に立候補しているため、第1次投票によって2カ国に絞られ、決選投票によって開催国を決めるという手順で進んだ。

眞下は、前日、逗留先のホテルに、NZ招致団の幹部の訪問を受けた。NZの幹部は、「3カ国のうち、私の国が第1次投票で負けるだろう」と切り出した。南アフリカが本命視されていることはわかっていた。そうかといって、決選投票に日本が残るという確固たる見通しも立っていなかった。驚いている眞下に、NZの幹部は「私たちの国が第1次投票で負けたら、次はおまえの国に投票する」とつづけた。

日本の招致団は、南アフリカが優勢で、NZがやや劣勢であり、第1次投票で、南アフリカと日本に絞られることに希望をつないでいた。ロビー活動に勤しんでいるとき、「日本に投票する」と明言する理事国の代表もいた。しかし、実際にどれだけの票を得られるかは、各理事が投じ終えるまではわからない。仮に、南アフリカとの決選投票に持ち込めたとしても、開催国に勝ち上がることは容易ではないと日本側の誰もが見立てていた。

いきなりの番狂わせが第1次投票で起きる。最優勢と衆目の一致していた南アフリカが落選したのである。NZが同情票を集めたという実情も少なからず働いたと分析された。

ラグビーW杯は、そう長い歴史ではないとはいえ、一握りのラグビー伝統国に牛耳られてきた。87年の第1回大会以降、4年に1度、イングランド、南アフリカ、ウェールズ、オーストラリアと5大会がすべて、北半球と南半球で交互に譲り合うように開催されてきた。アジアはもちろん、北米でも南米でも開催されたことがなかった。限られた国々の間で、予定調和と大差のない“パス回し”が繰り返されていたのである。

日本は、ラグビーW杯、第1回大会が開かれて以来、欠かさず参加してきたが戦績は振るわなかった。前回の15年イングランド大会で強豪の南アフリカを破るというあの劇的な勝利をあげるまで、91年にジンバブエ戦で白星をあげているだけであった。

日本では1899(明治32)年に慶應義塾大学でラグビーが始まっており、日本ラグビー協会も1926(大正15)年に創立されている(2013年に公益財団法人化)。30(昭和5)年には日本代表が結成され、カナダに遠征してテストマッチにも参加している。

■歓喜と落胆のあいだで

時差についていうなら、ダブリンよりも日本のほうが時計の進みが8時間早い。したがって、現地の午後に投票結果が発表されるころ、日本は真夜中である。

宮崎春奈●ラグビーW杯2019組織委員会会場運営局メディアオペレーション部長。W杯を取材する国内外のメディアの取材環境を整える業務にあたる。

この当時は、まだ開催国発表の模様がオンタイムでインターネット中継されるようなことはなかった。そのため、現地の投票会場にいる徳増らが電話で、東京・北青山の秩父宮ラグビー場内にある協会の一室で待機する幹部や職員に逐一、経過を知らせた。メディアの記者たちが50人以上集まっていた。最有力候補と見られる南アフリカが第1次投票で落選したと知らされると、職員、記者たちからどよめくように歓声が上がった。

これは日本に決定しそうだと、にわかに熱を帯びていた。日本ラグビー協会の広報担当である宮崎春奈は、もしやの瞬間のためにと、シャンパンを買い込んできていた。紙コップでの乾杯でいいかと思ったが、それではせっかくの祝いのひとときに高揚感も味わえない。そう考え、協会スタッフとともに、レンタルのシャンパングラスを手配していた。

ダブリンの投票会場では、IRB会長のシド・ミラーが登壇し、「ネクスト・ワールドカップ……」と語り始めた。つづいて発せられた言葉に、座は一変した。

「ニュージーランド」

東京では、シャンパンの相伴に与ることなく、記者たちが引き上げていった。

当時29歳だった宮崎春奈はラグビー好きだった父の影響で、姉や友人たちと中学生のころから球場に足を運んでいた。学習院大学3年の冬から押しかけ同然に日本ラグビー協会でアルバイトを始め、卒業後はそのまま職員として就職していた。アイルランドへの留学を経て、現在は企業スポーツにかかわる民間企業に籍を置きながら、W杯2019組織委員会のメディアオペレーション部長として、取材陣のサポートやバックアップの指揮をとる。

■11年招致失敗で芽生えた新たな感情

森は、徳増に、IRB会長のシド・ミラーになんとしても面会の時間をとりつけられるように交渉しろと指示していた。

ハードな交渉の末、徳増は、森とシド・ミラーの会談のスケジュールをとりつけた。日本の招致団の事実上のトップである以上に、元プライム・ミニスター・オブ・ジャパンという森の国際社会における来歴は、圧倒的な存在感となって鳴り響いていた。

日本の招致団と相対したシド・ミラーは、元アイルランド代表であり、世界を代表する存在である。

「次はがんばってくれ――」

にこにこと笑みを浮かべつつ、また開催国の招致活動に挑んでくれと励ましたこの大立者に対して、森は少しも遠慮しなかった。森は、挨拶もそこそこに、決めていた覚悟を覆すことなく主張した。

「いわば旧大英帝国が結託すれば、簡単に過半数がとれてしまうではないですか。いまの時代に、こんなおかしな話がありますか」

国会議員として、日本の首相として、数多くの国際会議や国際交渉の場で一筋縄ではいかぬ相手と渡り合ってきた。その経験から、正論で語りかけた。シド・ミラーの顔が見る見るうちに激して紅潮していた。やきもきする日本代表団幹部をよそに、森はつづけた。

「国連では、経済大国である米国、中国も、小さな新興国も、すべての国が平等に1票ずつ持っています。なぜ、ラグビーの世界では、伝統国といわれる力のある国だけが2票を持って、それ以外の国は1票しかないんですか。これが民主主義の先導国であるイギリスのやることなんでしょうか。こんなことをしていたら、ラグビー界は必ず衰退しますよ」

ラグビーは、イギリスを中心に発展したスポーツである。

イギリスは、もともと由緒ある独立した王国が集まって発展してきたという歴史を露骨なほどにラグビーの国際社会で主張し、その地位を保ってきた。イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドという、イギリスを構成する4つの地域がおのおの国としての主権を譲らずに時を重ね、それがために著しく偏った歴史を連ねてきた。

とりわけ、イングランドは、19世紀から、盟主になろうと3つの地域と覇権争いを重ねてきた。4つの地域はまとまりやすい一方、イングランドを敵視して、3カ国でまとまるという傾向もときに見られた。

IRBの発足時のメンバー国である英4地域とオーストラリア、NZ、南アフリカ、フランスを創設協会といい、それぞれがIRBに2名ずつ理事を送り込んでいた。したがって、理事会での投票権も、この8カ国・地域で合わせて16票を有していた。

他方、創設協会以外のカナダ、イタリア、アルゼンチン、そして日本という4カ国に割り当てられている理事の椅子は各国1つであったから、投じられるのも各国1票に限られる。さらに、アジア、北米、南米、欧州、オセアニア、アフリカと、6つの地域協会が各1票を持っていた。これらを合わせると26票。つまり、創設協会だけで過半数を占めてきたのである。

■日本ラグビー協会の会長職も降りるつもりでいた

森は、シド・ミラーに対し、ひとしきり己の考えを話し終えると、「私はもうこれで、2度とW杯(の招致活動の場)には来ないでしょう」と宣するように述べ、席を立った。日本ラグビー協会の会長職も降りるつもりでいた。しかし、南アフリカ、NZという強豪国と3カ国で烈しい招致活動を展開し、決選投票へと進んで、わずか2票差で及ばなかったという惜しい結果は、捲土重来を期すべしという機運を少しずつ盛り上げていくことになった。

国内の事務手続きや資料づくり、海外でのロビー活動、幹部たちの交渉の通訳と、1人で何役もこなしてきた徳増は、日本ラグビー協会の職員としての日常に戻りながら、くたびれ果て、放心したような日々を送っていた。

徳増浩司の軌跡を描くとするなら、まさしく楕円のボールがグラウンドを中心に、その内外を縦横に行き交うさまのようである。

サラリーマンだった父の勤務地の都合で、子どものころは転校を繰り返していて、自らの拠り所となるようなものを明確には育めぬまま長じていった。

経済的な苦境に陥りながら、国際基督教大学を卒業して西日本新聞の記者となって2年目であった75年のことである。ウェールズ代表が来日し、全国高校ラグビー大会の会場として「聖地」と呼ばれる大阪・花園ラグビー場で日本代表と相まみえた一戦を、その場で見たのである。日本代表が一方的に負けたゲームであったが、ウェールズ代表メンバーが魔術師の集団のように見え、試合終了後、しばらく立ち上がれないほどの衝撃を受けた。

ラグビーの醍醐味を改めて体感し、同時にウェールズ代表の凄みを忘れられず、ついには安定した地元紙記者の職を捨て、学生時代同様に経済的な苦労を伴った末、ついに単身渡英するのである。いずれは教師になろうとも考えていた。やがて、かつて花園で見たウェールズ代表の主要選手を輩出していたカーディフ教育大学に学び、公認コーチの資格を得ることができた。

縁あって帰国後、設立されたばかりの茨城・つくば市にある私立の中高一貫校、茗渓学園に招かれ、英語教師兼中学ラグビー部監督に就いたのが80年、27歳のときのことである。

徳増は、82年に第1回が開催された東日本中学大会の決勝で、古豪の慶應普通部を下し、茗渓学園を創部3年目で初代チャンピオンに導く。88年には高等部の監督になる。そのシーズンでは強豪を相手に勝ち進みながらも、翌89年の決勝戦の当日である1月7日、昭和天皇の崩御によって、自粛ムードから試合は中止となり、相手校の大阪工大高との両校優勝という、どっちつかずの結果を受け入れざるをえなくなった。花園における「昭和最後の優勝校」という称号は、日本人特有の曖昧な判断から、2つの高校に冠されたのである。

学園から、英語教員に専念せよとの命を受け、自らの意思とは関係なく、ラグビー部員たちの指導から切り離される。ラグビーと無縁の日々は、徳増にとって、切なく、悩ましいものがあった。そして、10年間、勤務した茗渓学園を辞すると決めるのである。

新聞広告を元に職を求めて出版社に勤めたりした末、やはりラグビーにかかわる人生を送りたいと、日本ラグビー協会に手紙をしたためた。その手紙に目をとめたのが当時の協会専務理事、白井善三郎である。94年、まだ4人しか職員のいなかった日本ラグビー協会に徳増は採用された。しだいにW杯招致の機運が盛り上がり、その実務レベルの中心となっていくのである。

■「日本がリーダーになってくれないか」

目的をなくしたような日々が2カ月ほどつづいていた。

パキスタンで、32カ国からなるアジアラグビー協会(現・アジアラグビー)の理事会があり、理事の徳増は出席した。アジアラグビー協会で支援した日本のW杯招致活動が実を結ばなかったことを、徳増は、報告を兼ねて率直に詫びた。

「アジアのためにもと、一所懸命、招致活動をがんばったのですが、氷漬けになったような重いドアをこじ開けるのは難しかった。申し訳ありません――」

英4地域を中心とした伝統国の保守的なあり方への挑戦について、そのように表現した。

徳増がひとしきり挨拶をして席に着こうとすると、「ちょっと待ってくれ」という声が上がった。ブルネイの代表であった。

「もう1度、挑戦しないか。アジアのために、日本がリーダーになって、もう1度、招致活動をやってくれないか。私たちも応援する――」

同様の発言が相次いだ。徳増は、胸が熱くなってきた。

■招致開始から16年夢の祭典の先にあるもの

再起を期し、日本招致団では、次に15年大会の開催をめざす機運が高まっていく。

徳増は、年齢や肩書などで相手を見ることなく、フラットに接する。人づきあいを苦にする様子もない。しかし、海外の要人を相手とするロビー活動となると、並の人づきあいのレベルでは信頼関係を築くことはできない。まず、一面識もないIRB理事国の幹部に名刺を差し出して挨拶をしながら杯を傾け、次に会ったときには「コウジ」とファーストネームで呼ばれるような間柄になれなければ、困難な国際交渉を生き抜くことができるはずはない。

森は、シド・ミラーに正論をぶつけ、日本協会の会長を退くつもりでいた。だが自身の発言内容が伝えられ、広がり、ラグビー界を変えなければならないという声が国内外から上がり始めた。どうやら簡単に会長を辞めることはできないと森は意を決した。

眞下は、長年のつきあいのある海外のレフリー仲間を中心に、自らの愛称とともに「ノビ、ネクスト!」と励まされ、次こそ勝つぞ、と意気に燃えていた。そして、自ら先導してきたジャパンラグビートップリーグへの参加チームを06年に12から14へと増やして、力強い手応えを得ていた。

徳増は、アジアラグビー協会の理事会で各国代表からW杯招致活動への再挑戦を強く勧められ、痛感するところがあった。「私たちは強国ばかりを追いかけて、アジアの仲間を大事にしていなかった」と。

日本のラグビー界は、W杯招致活動にふたたび動きだす。2票の僅差で11年W杯の開催をNZに許す結果となっていたから、めざすのは、その4年後の15年W杯の招致である。

■創設協会のメンバー国を敵に回すことは避けたい

踏まえておくべき形勢事情もあった。最有力国と目されながら前回の第1次投票で脱落した南アフリカがまた必ず名乗りを上げるであろうと、みな予想した。1票にすがる日本として、2票ずつを握る創設協会のメンバー国を敵に回すことは避けたい。

加えて、北半球と南半球とで開催国を順番に決めてきたという、暗黙だが鉄則ともいえるW杯の歩みがあった。11年が南半球のNZであるなら、次の15年は北半球の国の開催で、したがって盟主をもって任じるイングランドになるであろうと容易に予想できた。

名乗りを上げたのは、予想どおりに再起を期す南アフリカ、盟主をもって任ずるイングランド、さらに、イタリア、そして日本。英4地域の間でも、盟主であると主張してきた居丈高なイングランドは、ほかの3国と同床異夢のような関係をつづけてきた。他方、11年W杯の開催を逃した南アフリカは、2票を有す創設協会の支持をとりつけるべく熾烈な戦いを挑んでくるのが明白であった。

オリンピック・パラリンピックもそうであるように、国際大会を主催するには有力な企業スポンサーを数多く味方につけなければならない。国家的なイベントを頻繁に主催していては経済力が保たない。北半球と南半球の限られた国の間だけで4年ごとにパス回しをしつづけることの限界は、創設協会メンバーの間でも語られるようになっていった。やがて、そろそろアジアで、経済大国として発展した日本で開催してもいいのではないかという声が聞かれる。

しかし、日本の招致団としては、また前回11年大会の決戦投票のような展開になることを恐れる声もあった。長く尾を引くような泥沼の票取り合戦になることを、IRBとしても望んではいなかった。そこで、15年、19年の両大会の開催国を同時に決めてはどうかという構想が持ち上がる。英4地域の間で、ときに厄介者扱いをされているイングランド、開催実績のないアジアから挑みつづける日本。やがて、IRB理事国の間で、両国が開催年を決めて共同で立候補すればいいのではないか、という意見が相次ぐようになる。

日本の招致団には、15年大会を勝ちとるべきではないかという強硬論が根強くあった。結局、宗主国をもって任ずるイングランドに先を譲り、日本は19年大会を得ることで協調を図ろうとの意見が大勢を占めるようになる。15年はイングランド、19年は日本とIRBの理事会で決定したのは09年のことである。前年9月に、世界中が経済危機に瀕するリーマン・ショックが起きていた。日本の19年開催を主張しつづけたという森は、「15年では経済が厳しかった。19年に決めてよかったのではないかと思います」と振り返る。

■この祭典を存分に楽しもう

熱狂的なW杯日本大会の招致活動の成功から10年あまりが過ぎ、当時の立役者たちはそれぞれに年を重ね、この祭典を存分に楽しもうと意気込んできた。40日以上にわたって繰り広げられる日々をおのおのの思いとともに堪能し、過ごすことになる。

徳増氏が2017年9月に設立した渋谷インターナショナルラグビークラブ。都内のインターナショナルスクールに通う子どもと、日本の子どもが英語でコミュニケーションをとりながらラグビーを楽しむ。これまでにないラグビースクールのあり方を模索している。

徳増は、東京で、渋谷インターナショナルラグビークラブという団体を設立し、主としてビビッドな英語によってのみコミュニケーションを図りながら子どもたちにラグビーを楽しませ、教えるという活動を18年から始めている。緑のグラウンドに立ち、子どもたちと闊達に触れ合うことこそ、ラグビーの、そして自らの原風景ではないのかと思えてならない。

何が正解なのかは誰にもわからない。あえていうなら、森喜朗と徳増浩司の目に映る光景に幾許の差異があろう。スポーツの祝典を母国へ招くことに、長く懸命に取り組んできた。いま、それが開花している。蹴球の祭典を、存分に楽しんだらいい。次の新たなる地平は、きっと見えてくる。(文中敬称略)

(樽谷 哲也 撮影=小野田陽一)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください