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実は渋沢栄一が紙幣になるのは"2度目"だった

プレジデントオンライン / 2019年10月18日 6時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/croquette

2024年度上期をめどに紙幣のデザインが変わる。1万円札の肖像画に選ばれたのは、「日本の資本主義の父」と呼ばれる実業家の渋沢栄一。歴史家の加来耕三氏は、「実は、渋沢はそれ以前にも一度紙幣の肖像に採用されたことがある」という——。

※本稿は、加来耕三『紙幣の日本史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■1963年発行の「千円券」では伊藤博文に負けたが…

平成が終わりに近づいた今年4月9日、来たる2024(令和6)年度上期に3種の新紙幣が発行されるとのニュースが報じられました。

新紙幣の筆頭、一万円券の肖像に決まったのは、日本の「資本主義の父」といわれ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京株式取引所(現・東京証券取引所)など500以上の企業や団体の設立・運営にあたった、明治・大正期を代表する実業家・渋沢栄一です。

渋沢は、1963年発行の千円券の肖像候補にも挙がっていましたが、そのときは伊藤博文に決まり、機会を逸していました。

しかし実のところ、渋沢はそれ以前に一度、紙幣の肖像に採用されていました。日本が大日本帝国と呼ばれた時代、時の大韓帝国を併合する前の朝鮮半島において、日本政府の監督下、事実上の中央銀行にあたる朝鮮銀行から、1902年、渋沢が描かれた十円紙幣が発行されていたのです。

■村への怒りから身分制度に目を向けた

そんな渋沢は、1840年2月13日、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)の豪農に生まれました。父・市郎右衛門は、この地の特産物である藍玉の製造と養蚕を兼営。米、麦なども手がける有数の富裕で、近隣村落の信望も厚く、村役人を任され苗字帯刀を許された人物でした。

ところが、こうした渋沢に転機が訪れます。17歳の頃、父の名代で村の代官所へ赴いたことがありました。世は幕末。村の領主・岡部藩安部家も積赤字に苦しみ、領内の豪農に御用金を課していました。豪農たちは、それを無条件で受け入れていたのです。

しかし、はじめて会合に出た渋沢には、何か釈然としないものが。渋沢が「父に伝えてから返答します」と答えると、代官は彼を見下げ、「百姓の小倅が」と嘲弄(ちょうろう)。腹立たしさが渋沢を襲いました。

そもそも御用金は年貢ではなく、いわば藩が無心しているものであり、返済されませんでした。それをなぜ高圧的に命じるのか。渋沢はその怒りを社会の仕組み=身分制度に向けます。1863年、国内における尊王攘夷ブームの最中、彼は同志と共に「高崎藩の城を攻略し、横浜を焼き討ちしよう」というとんでもないことを画策します。まさに無謀な計画でした。

■パリ博覧会で商人の社会的地位向上を決意

計画は事前に露見、渋沢は幕府のおたずね者となりましたが、その窮地を救ったのは、江戸留学時に面識のあった将軍家の家族で一橋家の用人・平岡円四郎でした。渋沢は算盤勘定ができるため、一橋家で平岡付きの用人となったのです。

一橋家の財政再建で手腕を発揮した渋沢は、1867年正月、将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実弟・昭武(あきたけ)のパリ万国博覧会列席に随行します。パリへ渡った渋沢は、生まれて初めて汽車に乗り、市中を散策して、西洋文明に触れました。

なかでも、銀行家が軍人と対等に会話を交わす場面には衝撃を受けたようです。日本では商人の地位は低く、彼らには己れの卑屈さに馴(な)れている一面がありました。さらには、当時の日本には「利は義に反する」といった儒教道徳が定着していて、経済を「卑しいもの」とする幕府は、御用金頼みで財政難をしのごうとしていました。

欧州文明を見聞した渋沢は、これからの日本はまず「殖産興業」をおこさなければならないと痛感していました。そのためにはまず、商人を卑しめる慣習を拭い去り、彼らが自信と誇りを持てるようにしなければならない。渋沢はそれに気づき、商人の社会的地位向上を目指していきます。

■数々の企業を設立したが自らの財には無関心

帰国した渋沢を待っていたのは、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、江戸から静岡に移住した慶喜たちの姿でした。しかし、人の運命とは不思議なもの。帰国後、新政府から静岡藩を与えられた旧幕臣らとその地へ移った渋沢は勘定組頭となり、藩と在地商人らによる「商法会所」を設立。商業と金融業を始めますが、これが縁で新政府に見出されます。

その後、政府の大蔵官僚を経た渋沢は、1873年、日本初の近代銀行である第一国立銀行が設立されると、総監役、そして頭取に就任します。ただ、この頃の国立銀行は国立銀行条例によって設立をみた金融機関であり、「国法によって創られた銀行」。国営・国有のものではなく、あくまで民間の銀行でした。また、条例の制定により、全国各地で国立銀行創設の気運も高まっていました。

近代企業を株式会社として設立することを強調した渋沢は、自ら先頭に立って経営に参画し、日本初の洋紙製造会社である抄紙会社(現・王子製紙)や、紡績会社(現・東洋紡)、海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)などを創設しました。しかし、彼は決して自身の財を築くようなことはしませんでした。それは彼が生涯、三井、三菱、住友といったような大財閥を形成しなかったことからも明らかでしょう。

■「経済と道徳は車の両輪のようなもの」

それよりも彼は、日本の近代産業を育成・発展させるため、『論語』を徳育の規範として「道徳経済合一説」を実践しなければならないと提唱しました。

営利の追求も資本の蓄積も、道義に適(かな)ったものでなくてはならない。仁愛と人情に基づいた企業活動を、民主的で合理的な経営のもとで行なえば、国は栄え、国民生活も豊かになる。そのためには教育が重要と考えた渋沢は、東京高等商業学校(現・一橋大学)、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)、岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)などの創設・発展にも尽力します。

加来耕三『紙幣の日本史』(KADOKAWA)

1909年、彼は70歳を迎えたのを機に、第一国立銀行などを除き、60にもおよぶ事業会社の役職を辞任します。さらに、1916年には金融業界からも引退。著作『論語と算盤』の出版はその年のことでした。社会・公共事業に専念しつつ、渋沢は道徳の重要性を説きました。

明治後期から大正にかけ、日本人の暮らしがこの時期ほど豊かになった時代はなかったでしょう。でも、心の豊かさはどうでしょうか。経済も同じです。企業は利潤を追求しますが、その根底に正しい道徳がなければ企業は不正の中に倒れ、存続できません。

各種国際親善事業を自ら先頭に立って推進しながら、衣食足りて礼節を知る、貧すれば鈍す——経済と道徳は車の両輪のようなものと語り続けた渋沢栄一。新一万円札の肖像に、彼こそ相応(ふさわ)しい人物といえるのではないでしょうか。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家・作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。奈良大学文学部研究員を経て、大学・企業の講師を務めながら著作活動を行う。著書に『幕末維新 まさかの深層―明治維新一五〇年は日本を救ったのか』(さくら舎)、『日本史に学ぶ一流の気くばり』〔クロスメディア・パブリッシング(インプレス)〕など。テレビ・ラジオ等の番組監修も多数。

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(歴史家・作家 加来 耕三)

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