スバル"究極の車"が日本人にウケなかった理由

プレジデントオンライン / 2019年12月13日 9時15分

1966年に発売された「スバル1000」 - 提供=SUBARU

富士重工(現SUBARU)が作った車の中でも特に評価が高い「スバル1000」。国内初の先進技術を搭載していたが販売不振が続き、わずか5年で市場から姿を消した。アルファ・ロメオさえ真似したとされる名車は、なぜトヨタに勝てなかったのか——。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■辛口評論家すら絶賛した世界的な先進技術

これまで富士重工(現SUBARU)が作ったなかで、極めつきの名車とされているのが「スバル1000」(1966年発売)だ。

後にアルファロメオが作ったベストセラーの小型車アルファスッドに影響を与えたとされるもので、スバルユーザーの間では「日本自動車史上ナンバーワン」「神話の域にいる車」と言われた。

自動車評論家の徳大寺有恒は著書『間違いだらけのクルマ選び』のなかで、数ある大衆車に辛口の評価をしているのが、スバル1000だけは絶賛されている。それくらい高い評価を受けた車だった。

設計担当はスバル360で名を上げた百瀬晋六と配下の「百瀬学校」のチームである。彼らは富士重工初の小型車に当時、世界的にも先進とされた技術を「これでもか」と詰め込んだ。

■シトロエンやルノーも用いた国産車初の「FF方式」

先進技術のひとつとして採用したのがFFでありフロントエンジン、フロントドライブという方式だった。いずれも次のような機構である。

「駆動方式は、当時の国産車としては画期的なフロント・エンジン/フロント・ドライブのFF方式を採用していました。それまで、純粋な国産車で、FF方式を採用した乗用車は一台もなく、海外でもシトロエンやルノー、サーブなどの限られたメーカーのみが生産していました」(『スバコミ』ファンサイト)

また、後継車にも採用されている水平対向エンジンはこうなっている。

「水平対向エンジンの特徴は、小型軽量であることと、スロットル・レスポンスの良さにあります。言い換えれば、極めてスポーティな特性を持っていると言えます。また、シリンダーの中を往復するピストンの動きが左右対称となるために、動的なバランスが取りやすく、従って振動が少なくなる利点があります。振動を抑えることは、乗り心地が良くなるばかりではなく、エンジンの耐久性も向上することになります」(同サイト)

次いで、レースカーにも採用されたインボードブレーキ、そして、先進的なデュアルラジエーターシステムについても同サイトは丁寧に説明している。

■もっとも驚いたのは車内の広さ

インボードブレーキ
「センターピボット・ステアリング方式の採用によって、タイヤの接地面の抵抗を最小限に止め、操舵反力が軽減された。同時にハンドルの操舵角度も大きくとることができた。
バネ下重量が軽減されて、タイヤの接地性がよくなり、加速、乗り心地、走行安定性が良くなった。ブレーキがホイールから離れているので、泥や水が入りにくい」
デュアルラジエーターシステム
「デュアルラジェータ方式のスバル1000には、一般的に採用されている、冷却ファンがありませんでした。その構造はメインとサブの二つのラジェーターと、リザーバータンク、サブラジェーター用の小型電動ファンから成り立っている密封加圧式の冷却システムで、状態に応じて三段階の効率的な冷却を行うことができました。また、この方式が国産車に採用されたのはスバル1000が最初でした」

いずれも世界水準を超えた技術だった。そして、ユーザーがもっとも驚いたのは居住性、つまり車内の広さである。

FR車の場合、フロントのエンジンが作った駆動力をリアにつなげるために、車の中央にプロペラシャフトを通す突起ができる。

現在の車はほぼFF車だから、プロペラシャフトのある風景を忘れた人が多いかもしれないが、リアシートに3人が乗る場合、中央の人間は足を置くスペースがなくなるのである。

それを解決したのがスバル1000で、FF車がその後の大衆車の標準となるのは、この車が出たからだろう。

■先進過ぎて理解が得られず、修理屋さんには嫌われ

わたしは大学に入った年、18歳でこの車を手に入れた。運転席に座ると、車内が「やけに広い」と感じたことを覚えている。

当時、車格が上のトヨタのコロナと同じかもしくはそれ以上の広さだったというから、広く感じたのも無理はなかった。

そして、車体が軽かったからスピードも出た。長い坂道を下っていると、どんどんスピードが出てきて、車体が押しつぶされているのではなく、浮上する感覚があった。そのまま空に飛びあがってしまうんじゃないかとも思ったくらいだ。運転する車ではなく、飛行機のように操縦する車がスバル1000だった。

それほどの名車だったけれど、しかし……、実際は思ったほどは売れなかった。

誰もが自家用車を手に入れるモータリゼーションの時代でもあったし、スバル360から乗り換えようとした客もいたので、決して惨敗ではなかった。

しかし、売れ行きではカローラ、サニーとは比較にならなかったのである。1967年、カローラが年間に16万台売れていたのに比べ、スバル1000は3万台から4万台といったところだった。

自動車評論家の徳大寺は『間違いだらけのクルマ選び』で、わざわざ1章分を費やして「スバル1000が売れなかったことが歴史を変えた」と記述している。

「スバル1000は、いくらほめてもほめ足りない素晴らしいクルマであった。しかし、このきわめて理想主義的な、名門中の名門であるアルファ・ロメオでさえ真似(まね)したクルマは、あえなく三振ではないにしても、レフトフライぐらいに終わってしまった。多くのユーザーはスバルの先進性を理解できなかったし、また街の修理屋さんはこの面倒なクルマを、えらく嫌ったのである。かくしてスバル1000は登場してから五年後の一九七一年、あのみにくいレオーネ(注:後継車種)へとモデルチェンジされていくことになる」

■「カローラより高い」ことが最大のネックだった

ここにあるように、売れなかった理由は当時、FFに慣れていなかったカーユーザーにとっては運転のフィーリングが、FR車とは微妙に違ったことが大きかった。

また、いくつもの先進技術はよかったけれど、修理に手間がかかったのである。修理工場にとってみればクラッチの交換でもエンジンをいちいち車から外すという、ひと手間が必要で、作業員はスバル1000がやってくると顔をしかめたという話もある。

そして何よりも値段だ。

カローラ、サニーよりも少し高かった。先進技術にかかった費用、そして、トヨタ、日産よりも部品代が高価になってしまったことで、車両価格は上がった。

スバル1000は高性能だけれども、それを高価格でしか販売できなかった。トヨタだったら、それこそお得意のトヨタ生産方式を活用して、少しでも価格を下げるのだが、富士重工にはそういった生産ノウハウがなかったのである。

具体的にはスバル1000の発売当時の価格は62万円。一方、トヨタカローラ(初代)のそれは52万5000円。10万円違うのならば、人は新規の技術よりもやはり価格で車を選ぶ。

百瀬は「あんな車は許せない」と怒った。

徳大寺も書いているが、名車スバル1000はわずか5年の命だった。売れないと判断した経営トップはスバル1000のデザインを通俗的にして、値段も安めに設定したレオーネという車にシフトするのである。

■「みんなと一緒」だからこそ売れたのだ

あるOBは言った。

「スバル1000からレオーネに変わった時、百瀬さんはかんかんに怒っていました。『レオーネは堕落だ。あんな車は許せない』。もうチーフデザイナーを退いていましたけれど、百瀬さんは富士重工が他社の車と変わらないものを出すことを認めたくなかったんだと思います」

提供=SUBARU
スバル1000の後継車として発売された「レオーネ」 - 提供=SUBARU

スバル1000よりも20年以上前、百瀬が叩きこまれた戦闘機の設計とはつねに先進技術を盛り込むことだった。

見た目よりも、スピード、旋回性能、機体の軽さなどを追求して、ライバルの飛行機を圧倒する。そうしないと撃墜されてしまうからだ。

百瀬はスバル360、スバル1000でも先進技術を盛り込むことを当然考えていた。彼にとって「いいクルマ」とは他の会社のクルマを圧倒するような技術の粋を集めたものだったのである。だからこそ、ふたつの名車が誕生した。

しかし、時代は流れていた。

モータリゼーションの時代のユーザーが欲しいクルマとは、性能が飛び抜けたものではなく、「売れている車」だった。

カローラ、サニーならばどこにでもある。みんなが認める車で、故障してもすぐに部品が交換できる。みんなが乗っていて、しかも、便利。

通俗的ではあっても、横並びではあっても、安心感があった。「みんなと一緒」だからこそ売れたのだ。

■「アメリカの自動車会社が進出してきたら吹っ飛んでしまう」

スバル1000が出た1966年。日本の自動車生産台数はアメリカ、西ドイツに次いで、世界第3位の台数になった。

2年後には日本のGNPは西ドイツを抜いて、世界第2位となる。共産主義のソ連をのぞいて、敗戦国だった日本はアメリカに次いで経済力のある国にまで成長した。

同年の自動車生産台数は約206万台。これもまたアメリカに次ぐ数字だった。そうなると「敗戦国だから」と国内のマーケットを閉鎖しておくことなどとてもできない。

なんといっても第二次大戦に勝利したイギリス、フランスの経済を凌駕しているのだから、海外の車に高関税をかけたり、非関税障壁を設けることなど許されないのだった。

すでに1965年には完成自動車の輸入は完全に自由化されており、73年には資本の完全自由化が決まった。78年には乗用車の関税はゼロになっている。

1960年代の後半から日本の自動車業界は海外メーカーと同じ条件で競争していたのだった。

自由化以前、自動車業界関係者は「アメリカの自動車会社が進出してきたら、日本の自動車会社は吹っ飛んでしまう」と信じていた。なんとか互角に戦うことができるのはトヨタ、日産二社だけとも言われていたのである。

富士重工も含む中堅以下の自動車会社は外資の軍門に下るか、もしくはトヨタ、日産の傘下に入るしかないと覚悟を決めていたところもある。そこで、中堅以下の自動車会社は提携に動いた。

■絶対に三菱とは組めなかった事情

1966年、プリンス自動車は日産と合併、事実上は吸収合併である。プリンスはブリヂストンのグループで、スカイラインは同社が生んだ傑作車だ。

同社の技術部門で、特にエンジンを統括した中川良一は中島飛行機出身で、戦時中には傑作といわれた航空機エンジン「誉」の設計主任をしている。

つまり、プリンスは富士重工にとっては同じ中島飛行機から派生した会社だったのである。そのプリンスは日産に吸収された。

同じ年、トヨタは日野自動車と業務提携、翌67年にはダイハツ工業とも同種の契約を結ぶ。

66年12月、富士重工も動いた。戦前からの名門企業で、トラックと乗用車を出していた、いすゞと業務提携を結んだのである。

ただ、この提携は長く続かなかった。2年後、いすゞが「三菱重工(1970年から三菱自動車)もグループに入れたい」と提案したことで、富士重工はいすゞとの提携をやめた。

なんといっても富士重工は三菱とは組むわけにはいかなかったのである。

自動車部門では軽自動車が競合した。また、航空機部門では防衛庁に納入する際の最大のライバルが三菱だった。加えて、バス部門、農業機械でも競り合う相手だ。そのうえ、所帯は三菱重工の方が圧倒的に大きかった。

提携が進み、「一緒になろう」となったら、間違いなく吸収される側が富士重工だったのである。

■「商品よりも販売力が弱い」選んだ相手は…

そのうえ、年配の社員たちにとって三菱は中島飛行機のライバルだ。三菱、中島と並び称されたけれど、三菱のゼロ戦に載ったエンジンは中島製であり、機体自体も過半を製造していたのは中島飛行機だ。

それなのに、戦後になって、三菱のなかに吸収されるのはプライドが許さなかったのである。こうしていすゞが出してきた三社の合同案に乗れない富士重工は提携を解消するしかなかった。

成り行き上、いすゞと三菱は提携をした。ただ、この提携もまた1年しか続かなかった。強くはない者同士が連合を組むのは簡単なことではない。強ければ余裕があるから相手の言うことを聞いて腹におさめることができる。

しかし、余裕がないものにとっては、ちょっとした相手のミスを許すことができないし、また、相手のちょっとした言葉遣いに神経質に反応してしまうのである。

結局、富士重工が選んだ道は業界ナンバー2、日産との業務提携だった。日産は軽自動車を作っていないし、航空機部門もない。なんといってもメインバンクは同じ興銀だ。興銀にとっても、三菱銀行が後ろに付いている三菱重工との縁組よりも、日産、富士重工の組み合わせが最上の策だったのである。

「もし、富士重工の車が売れなくなって、会社が傾けば日産が引き取ればいい」

興銀幹部はそこまで考えていたに違いない。

「商品力よりも販売力が弱かったから」

両社が業務提携した1968年は、乗用車は売れていたけれど、スバル360はそろそろ売れなくなっていた。

■販売力が上がらなかったセールスマンの差

また、スバル1000もカローラ、サニーに比べたら、とてもヒットしたとは言えない販売成績を続けていた。

富士重工にとってはモータリゼーションに乗って、もっともっと売らなくてはならない時期だったけれど、販売面の弱さが出てしまったのである。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

当時、富士重工の販売にいた人間は現場の弱さについてこう語る。

「ディーラーのセールスマンは給料の他に販売成績によって歩合が付きました。あの頃は富士重工だけでなく、どこの自動車会社も同じだった。

そうなると、優秀なセールスマンは売れる車を持っているディーラー、つまりカローラやサニーの販売店に行くわけです。

そこにいても、車を売れないセールスマンは今度、どこに行くかと言えば、三菱、富士重工、いすゞのディーラーに来るしかない。それでも、ディーラーではセールスマンの人数が足りないから、どこからか補充してこなければならない。

富士重工の場合は本社に入社した新入社員をディーラーに行かせて、そこで車を売らせる。だいたい、3年くらいはそんなことをさせました。

富士重工のような中堅以下の自動車会社が上位へ行けないようになっているのは商品力よりもむしろ販売力が弱かったからなのです」

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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