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長州力の「おもしろすぎるツイート」に現れる道化の側面

プレジデントオンライン / 2020年1月30日 9時15分

長州力のツイッター

子供の頃に熱中したスポーツは、人格形成に大きな影響を与えているのではないか。集団競技か、個人競技か。ポジション、プレースタイル、ライバルの有無……。ノンフィクション作家の田崎健太氏は、そんな仮説を立て、「SID(スポーツ・アイデンティティ)」という概念を提唱している。この連載では田崎氏の豊富な取材経験から、SIDの存在を考察していく。第5回は「プロレス」について——。

■「ばかたれー! 着いたら車を出して連絡を!」

長州力とは『真説・長州力』(集英社インターナショナル)を書き上げるまでの2年半以上、定期的に話を聞いた。その後も時折、会う仲である。

最近、彼のツイッターが話題になっている。とにかく、面白い。

こんなふうである。

明日は天気どうなるかな? 服はなんでもいいですか? 海に入れたらいいですがアンダーは一応入れておきますね!
ばかたれー! 着いたら車を出して連絡を! たのんまっせ

といった類いである。ツイッターというSNSは不特定多数への発信メディアである。特定の誰かに向けた書き込み、である。

彼の私生活での付き合いを覗(のぞ)き込んだようなツイートもある。

慎太郎いますか? 連絡ください!?
昨日は正男に声かけようと思ったけど大田区に行ってたんだな 山本が正男に会いたがってたよ!!

■文面、絵文字の使い方はLINEと同じ

慎太郎とは、長州の娘婿である。また、正男とは長州の盟友であるレフェリーのタイガー服部、山本は『KAMINOGE』の編集長の井上崇宏のことだ。その他、〈木藤先生〉〈栗ちゃん〉〈谷やん〉などぼくとも付き合いのある長州の親しい人物の名前が出ててくる。文面、絵文字の使い方は、ぼくのところにも、たまに送られてくるLINEと同じだ。ツイッターの説明に〈ツイートは本人、情報の告知などはリキプロスタッフがつぶやきます〉と書かれている通り、彼が書いたものだろう。

興味深いのは、型破りな使い方はしているが、問題が起こるようなことは書いていないことだ。長州は、ぼくたち、物書きを生業にしている人間に思いつかないような語彙の使い方をする。特に、嫌いだと思った人間の批評は実に辛辣(しんらつ)だ。しかし、このツイッターではそうした言葉は含まれていない。彼は何が話題になるか分かった上で道化を演じることができる。そして、危ない一線を「またがない」男である。

それは彼の「SID(スポーツ・アイデンティティ)」とも関係がある。

■子供の頃の夢はプロ野球選手

長州力こと吉田光雄は1951年に山口県徳山市(現・周南市)で生まれた。子供の頃の夢はプロ野球選手になることだった。小学校高学年のとき、町内会で作った野球チームで徳山市の大会に参加、2年連続で優勝している。ポジションはキャッチャーだった。

ただ、同時期に柔道も始めている。そして柔道で才能を認められ、中学では柔道部に入ることになった。その運動能力の高さを買われて桜ヶ丘高校レスリング部から誘いを受けることになった。

桜ヶ丘高校3年生のとき、インターハイ準優勝、国体で優勝という成績を残している。そして特待生として専修大学に進んだ。在学中に全日本学生レスリング選手権で優勝、72年のミュンヘンオリンピックにも出場している。そして大学卒業後の74年、新日本プロレスに入った。アントニオ猪木が新日本プロレスを旗揚げしたのは72年のことだ。ジャイアント馬場の全日本プロレスと対抗するために、長州のオリンピックレスラーという称号を強く欲していたのだ。

将来を嘱望されていた長州は入団直後の8月から国外修行に出かけている。ドイツ、アメリカ、カナダを連戦して帰国。しかし、レスラーとして人気が出なかった。

■アントニオ猪木は観客を“捕まえる”

プロレスは肉体を酷使するという意味では、スポーツの極致である。ただし、厳密な力量の差を測るという意味では競技ではない。いくら躯を鍛えようと、優れた技を連発しようが、観客を引き込むことができなければ失敗である。だから、難しい。

『真説・長州力』で書いたように、長州は燻(くすぶ)っていた時期について、客を捕まえることができなかったのだと話した。

田崎 健太『真説・長州力』(集英社インターナショナル)

「みんなは“乗せる”、と言うかもしれない。でもぼくは“捕まえる”。(対戦)相手はいますし、それに合わせてコンディションを作って集中をしますけれど、実際に闘う相手は客ですね。客を捕まえることができない選手は、そんなに長くできないですね」

長州はセコンドについて、リングのそばからアントニオ猪木の動きに眼を凝らした。猪木は指先の動き一つで、観客を熱狂させることができた。まずはリングサイドの客を“捕まえる”。そうすればさざ波のように広がって行くというのだ。

「大きな石だとドボーンって早く波が終わってしまう。ポーンと投げて輪を静かに大きくしていく、そんなような感覚ですね。それは大きな会場でも小さな会場でも関係ないんですよ。その点で猪木さんは天才でしたね。完全に(観客に対する)指揮者でした」

頭で理解することと、躯で表現することは違う。悩んでいた長州に無理矢理、火を付けたのはこの猪木だった。

■「噛ませ犬」事件まで7年間燻り続けた理由

82年10月、メキシコ修行から帰国した長州は猪木と藤波辰巳と組んで、3対3の6人タッグマッチに出場した。その試合中、長州が藤波を平手打ちし、仲間割れを起こす。試合中に味方同士が殴り合いを始めるというのは、前代未聞だった。長州を猪木がけしかけたのだ。人気レスラーになっていた藤波に対して長州が「俺はお前の噛(か)ませ犬ではない」と言ったとされる、「噛ませ犬」事件である(リングの上では噛ませ犬という言葉を長州は使っていない)。

この噛ませ犬事件で長州は、プロレスラーの勘所を掴(つか)み、一躍人気レスラーとなった。長州が新日本プロレスに入って7年後のことだった。

なぜ彼は7年間も燻り続けたのか。

彼の歩みにSIDという補助線を引いてみると見えてくるものがある。

前述のように彼の夢はプロ野球選手になることだった。今も熱心な広島カープのファンである。柔道に進んだのは、運動能力を高く評価されたことに加えて、野球道具を気楽に買ってもらえるような環境でなかったからだ。そして高校では誘われるままにレスリング部に入ることになった。意外かもしれないが、末っ子の長州は流されやすい一面がある。

レスリング部の彼の恩師である江本孝允はアマチュアレスリング時代の長州をこう評した。

「力が強くてバランスがいい。高校時代からフェイントを掛けて相手を崩すのが上手(うま)かった」

■団体戦で負けた選手を責めることはない

江本が長州に関して最も記憶に残っているのは高校3年生のインターハイの山口県予選の団体戦だ。

団体戦は、7階級の各校総当たりのリーグ戦で行われた。代表を争う柳井商工には69キロ級に中国大会で優勝している手島という選手がいた。69キロ級を制することができれば、4勝となり、桜ヶ丘の勝利となる。江本は長州を彼にぶつけることを考えた。江本は長州を呼んでこう言った。

「お前が(体重を)69キロに落としたら、(県大会で)団体(代表)を獲れるぞ。お前が手島とやれ。お前ならば勝てる」

長州は「分かりました」と頷(うなず)いた。

一切、口答えはなかったと江本は振り返る。

「個人(戦)では確実に行ける。キャプテンだったですから。みんなと行きたいというのがあったんでしょう。あの当時、減量といっても今と違って、ただ食べないで練習するだけ。きつかったと思います」

ところが――。

団体戦の試合は軽量級から始まる。2試合目の55キロ級で、勝利を計算していた桜ヶ丘の選手が敗れた。長州は69キロ級でフォール勝ちしたが、桜ヶ丘は3勝4敗で柳川商工に敗れた。試合後、長州は黙って俯(うつむ)き、負けた選手を責めることはなかったという。

■恩師が絶賛した「集団を取り仕切る力」

専修大学レスリング部監督の鈴木啓三の長州の評価も良く似ていた。まずは飛び抜けた身体的能力を褒めた。

「高校時代から彼はスピードのある、投げが強い選手だった。投げはもう抜群だったね。将来必ずチャンピオンになる。見たらすぐわかるよ」

何より気に入ったのは、年上の選手と相対しても臆さないところだった。

「高校生だから(年上相手に)負けてもしょうがない、大学生だから全日本のチャンピオンに負けてもしょうがない、という気持ちがちょっとでも浮かぶともう駄目さ。彼はそうじゃなかった」

長州は江本の出身校である日本体育大学に進むことが濃厚だった。それでもどうしても来てほしいと熱心に誘い、専修大学に入学することになったのだ。

最も印象に残っているのは、長州が大学4年生で主将を務めていた時代のことだと鈴木は言った。運動部の代表が集められた会合で、理事長を前に「レスリング部が最初に春のリーグ戦で優勝します」と長州は宣言したのだ。専修大学レスリング部は長州が入学した年にリーグ戦で優勝している。それ以降、優勝から遠ざかっていた。

「丁度、専修大学の体育会が40周年だった。それで最初に俺たちのチームが優勝しますって言った。五月の初め頃だったはず。キャプテンが決まる3年(生)の終わり頃には心の準備ができていたんだろうね。それからもう厳しかったよ。彼がキャプテンのときが(専修大学レスリング部で)一番厳しいトレーニングしていた。もう、無茶苦茶やるからね」

俺、見ないふりをしていたものと、笑った。

「みんな吉田先輩が怖くて逃げられない。でも自分が先頭を切って、実践しているんだ。だから誰も文句が言えない。だからぼくはあの時が一番楽だった。彼が優勝を宣言した以上、優勝するだろうなって。それできちっと優勝した。ああいう学生はもう出てこないなぁ。性格も良くて勤勉、真面目ないい選手はいるよ。でもあいつは、ちょっと違うんだ。スケールが大きいもん」

鈴木が高く評価していたのは、やはり集団を取り仕切る長州の姿だった。

■「プロレスの人間とは話が合わない」

長州は新日本プロレスに入った後も専修大学レスリング部の練習に顔を出している。卒業式で総長賞をもらいながら、卒業に必要な単位を取得できなかったのだ。授業に出席した後、レスリング部の道場で汗を流すこともあった。当時を知る専修大学レスリング部関係者は「プロレスの人間とは話が合わない」と長州がこぼしていたと教えてくれた。

長州は寝技、関節技の練習に全く興味を示さなかった。それどころか嫌悪感を持っていた節もある。そこには長州の肉体に対する強い自信があった。

「スタンドからやっていたら、誰もぼくからテイクダウンは取れなかったでしょうね。当時、20代のバリバリでしたから。ぼくの後輩だってみんな勝てたんじゃないかなと」

テイクダウンとは、レスリング用語でタックルで相手を倒すことだ。立った状態から始めれば、誰にも負けない。だから寝技や関節技は必要ない。そう冷ややかに見ていたのだ。

本来、プロレスとは鍛え上げた肉体、あるいは目を見張るような常人離れした躯を持った男たちによる“ショー”である。ただし、舐(な)められてはならない。時にプロレスはショーであると絡んでくる一般人を力で叩(たた)きつぶすことも必要である。またリング上で相手が不意に“仕掛けてくる”こともある。衆目の中で顔を潰されれば、レスラーとしての価値は下がってしまう。そのため、レスラーは自分を護るために寝技、関節技を磨くのだ。

ただし、プロレスは、勝敗はあくまでも参考程度であり、最も大切なのは金の払う観客を呼べるかどうか、だ。関節技が強くとも、観客を惹きつけることができなければ、永遠に前座止まりである。寝技、関節技の強さはスポットライトの浴びないプロレスの日陰の部分であるとも言える。

■自らを厳しく律し、同士を鼓舞する

さらに新日本プロレスの特殊な事情もあった。

新日本プロレスはジャイアント馬場の全日本プロレスと競合関係にあった。2メートルを超える長身に恵まれた馬場は、アメリカでも華々しい実績があった。アメリカのプロレス団体と良好な関係を築いており、人気の外国人レスラーを招聘(しょうへい)することができた。そして、こうした外国人レスラーを新日本プロレスのリングに上がれないようにしていた。

そもそも、プロレス入門前、読売ジャイアンツの投手であった馬場、ほとんど他の競技の実績がないブラジル移民の猪木、2人のSIDは全く違う。2人の師である力道山は馬場の能力を高く買い、猪木には厳しく当たった。いつか凌(しの)いでやろうと猪木は馬場を上目遣いで見ていたことだろう。馬場への対抗策上、モハメッド・アリとの異種格闘技戦に代表されるようにプロレスにもかかわらず、「強さ」を全面に押し出した。そのため、複雑なものになった。

アマチュアレスリングは力の多寡による勝敗が全てである。勝利とという目標のために、直線的な努力が必要となる。個人競技ではあるが、高校大学という学校スポーツにおいては、集団競技的な要素がある。自らを厳しく律し、同士を鼓舞する。そこに長州はやり甲斐(がい)を感じていたはずだ。

ところがプロレスに入ってみると事情が違った。

■プロレスの汚さに失望

長州は入門直後の話をしてくれたことがある。先輩レスラーが「グラウンドになれ」と指示した。グラウンドとはグラウンドポジションを意味する。長州はマットに膝をついて、しゃがみ込もうとした。

その瞬間だった。片足が動かず、前につんのめった。振り返ると、先輩レスラーの木戸修が涼しい顔をして踵(かかと)を踏んでいた。

プロレスというのは、こういう汚いことをするのだと嫌な気持ちになったという。

「木戸さんがどうこうじゃないんです。新人に対する洗礼? そういうものだったのかもしれませんね」

これまでの長州の生き方とは全く違っていた。個としてリングで自らを売っていかなければならないプロレスラーの生きざまは受け入れがたいものだった。

長州は在日朝鮮人であるという出自はあるものの、猪木のような劣等感はない。そして、何よりアスリートとしての実績があった。猪木が醸し出していた、新日本プロレスの空気に戸惑ったのは当然だろう。

ただし――。

プロレスラーとはリングの上では激しく躯、感情をぶつけながらも、実はしっかりと手を握っている。彼らは観客に対して勝敗という秘密を共有した男たちだ。その意味で集団競技的な面がある。

■「Vシネマの準主役ぐらいはできるんじゃないか」

総合格闘技とプロレスラーは似て非なるものだ。前者は寡黙、もしくは口数が多い場合は自分の興味のあることをまくし立てる人間が多い。取材者してはありがたいことだ。一方、実績のあるプロレスラーは、何を発言すれば聞き手が喜ぶのか、良く理解している。話の内容は面白くなるように“洗練”されており、逆にやりにくいときもある。同じプロレスラーたちを使って笑いを取ることも上手く、単純な個人競技ではないことを実感する。

藤波辰巳との「噛ませ犬」騒動の後、長州はプロレスの集団競技としての面白さに気がついたのではないかと考えるとその後の行動に合点がいく。

 そして、この時期、言葉を操り始めている。83年4月、藤波に買ってヘビー級のベルトを巻いた後、彼はこう言った。「俺の人生にも、一度くらい幸せな日があってもいいだろう」。彼のキャラクターにぴったりと合った言葉だ。

動画配信サービス「FRESH! by AbemaTV」の生番組「長州力のアレトーーーーク!」で司会を務めたプロレスラーの長州力=2016年6月5日、東京都内(写真=時事通信フォト)

その後、彼は兄貴分であるマサ斎藤と共に「維新軍団」を率いることになる。

84年にはジャパンプロレスというプロレス団体を立ち上げている。その後、新日本プロレスに戻る。そして、現場のレスラーを仕切る、「現場監督」として東京ドーム興業などの大規模興業を次々と成功させた。自らは引退しながらも、睨(にら)みを利かせながらレスラーたちを操ったのだ。

2002年、アントニオ猪木と決裂し、新日本プロレスを退社。WJという新団体を立ち上げた際、長州は移籍してきたレスラーたちに一人あたま500万円の移籍金を支払っている。これはプロレス界において異例である。自分に付いてきた人間に少しでも報いたいと思ったからだ。残念ながらこのWJは2004年に経営破綻。それでも側近の若手レスラーのため、2009年まで道場の運営を続けた。

2019年、長州はレスラーとして二度目の引退をしている。その引退ツアーの一つ、山口県山口市での興業にぼくは同行した。打ち上げで長州は、中堅レスラーを呼び寄せると「お前、いい顔しているな」と笑みを浮かべて言った。そしてこう続けた。

「Vシネマの準主役ぐらいはできるんじゃないか。人生考え直したほうがいい」

つまり、場数を踏んでいる割にプロレスが良くないという意味だ。その中堅レスラーは何も返すことができず、赤面して下を向いていた。

長州と彼とは何の関係もない。プロレス界の後輩に苦言を呈しても迷惑だと思われるだけだ。それを承知で厳しい言葉を掛けるのは、団体競技のSIDを持つ長州の愛情だろう。そして、こうした言葉を彼はツイッターでは決してつぶやかない。それが実に長州らしい。(続く)

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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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