むき出しの魂が心をえぐる『掃除婦のための手引書』
プレジデントオンライン / 2020年7月17日 11時15分
■売り物のようにさらけ出された記憶とエピソード
ルシア・ベルリン著、岸本佐知子訳『掃除婦のための手引き書』(講談社)。心を打つ稀な小説だった。作品を翻訳された岸本佐知子さんは本の帯文で、ルシアの文章を「魂から直接つかみとってきたような言葉」と表現している。
鉱山技師の娘、3回の結婚と離婚、4人の息子を育てたシングルマザー、高校教師、掃除婦、看護師、アルコール依存症。ルシアがたどってきた経歴を並べてみても、まるで青空市場のスイカにぶっきらぼうに付けられた値札のように聞こえてしまう。そうしたラベルは、本の中の彼女の繊細で頑固な魂の外周をただなぞるだけ。
かつて「帝国」の鉱山技師としてラテンアメリカの鉱山地を股にかけた父が、正気を失っては時折取り戻す様子を看取る娘。歳月が自らの心身に留めた痕を傍観しながら、コインランドリーの待ち時間に人生を凝縮させる中年の女。貧者に施しをする革命家かぶれの女教師を蔑みつつ付いていく若い娘。リハビリ施設から戻り、愛する息子たちが寝たあとにアルコールに手を伸ばそうとする母。宝石をおいたまま、ゴマを一瓶盗んでいく掃除婦。
売り物のようにさらけ出された記憶とエピソードは、痛々しさとともにほろ苦い笑いを読者にもたらす。人間のどうしようもなさや、彼女のむき出しの魂に触れて、私はふと頁を繰るのをやめて立ち止まってしまう。
■土埃の匂いまでを立ち昇らせる過剰さ
ルシアは人のことをじっと観察している。「セックス・アピール」を教えてくれた従姉のこと。ろっ骨を折ったジョッキー。物忘れの激しい老女の雇い主。自分と同じようにアルコール依存症だった母のこと。その観察眼は、禁断症状に襲われて震えながら酒に手を伸ばす自分にも向けられている。
自身や人に対する許しには、常に死の気配や記憶がまとわりついている。読者はその気配に呑まれ、ルシアの人生と、土地に刻まれた記憶に奥深く分け入っていく。
「最後にゴミ捨て場に行った日は風が吹いていた。砂がキラキラたなびいて、おかゆの上に降った。ゴミ山から立ち上がる人影は舞い上がる土埃をまとって、銀色の亡霊かダルウィーシュのようだった」
土埃の匂いまでを立ち昇らせるような過剰さと色にあふれた叙述は、おそらく彼女とともに生きていた人が普通に見ていた光景ではない。彼女の内面の矛盾と繊細さによる心象風景が、まるで心をえぐるかのように突き刺さるのは、自分がどこかでこういう言葉を求めていたからだと思う。
心臓をえぐりだして手に取って見せる彼女は、きっとまた微笑んでそれを胸にしまい、煙草を吹かすのだろう。
胸の中にしまわれている凝縮された人生の光景を共有することで、彼女は過剰な自分というものを何とか飼いならしていたのかもしれない。本当にセクシーな人だ、と思った。
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国際政治学者
1980年、神奈川県生まれ。神奈川県立湘南高校、東京大学農学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。著書に『21世紀の戦争と平和』(新潮社)、『日本の分断』(文春新書)など。
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(国際政治学者 三浦 瑠麗)
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