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「12倍の国力差」があるのに、「日米開戦やむなし」となった戦前の空気

プレジデントオンライン / 2020年4月23日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hirkophoto

戦前、アメリカの「国民総生産」は日本の12倍で、国力差は圧倒的だった。それなのに、なぜ日米戦争が起きたのか。名古屋大学名誉教授の川田稔氏は「キーパーソンとなったのが木戸幸一内大臣だ。木戸は戦争を避けるためには軍部を動かす必要があると考え、あえて陸軍を束ねる東条英機を首相にした。しかしその選択は裏目に出た」という——。

※本稿は、川田稔『木戸幸一』(文春新書)の一部を再構成したものです。

■東条内閣、すぐさま国策再検討に着手

東条首相は、組閣するや、陸軍省軍務局に指示して国策再検討項目を作成させ、陸海軍の協議をへて決定。1941年10月18日夕刻の初閣議後、関係閣僚に、それぞれ関係項目について検討を要請した。参謀本部と海軍軍令部も検討に入った。そして、10月23日から30日まで、連日のように大本営政府連絡会議で議論がおこなわれる。

参謀本部では、19日から検討を始め、21日には、「十月末日に至るも我が要求を貫徹し得ざる場合には、対米国交調整を断念し開戦を決意す」、との結論に達した。10月末日まで1週間あまりの外交交渉を認め、それ以後は実質的に交渉を打ち切るべきだとするものだった。

東郷茂徳外相はじめ外務省は、国策再検討の動向にかかわらず、対米交渉を続行すべきとの意見であり、武藤ら陸軍軍務局や海軍もほぼ同様だった。

ただ、武藤も、日米交渉において日中戦争解決条件の一定の限度は譲れないとの姿勢だった。一定の限度とは、内蒙・華北の資源確保とそのための駐兵を意味していた。

■「対米交渉条件」の緩和に向けた再検討

10月23日からの大本営政府連絡会議での国策再検討のポイントは、欧州戦局の見通し、対米英蘭戦作戦見通し、物的国力判断、対米交渉条件の緩和などだった。

欧州戦局の見通しについては、陸海軍情報部は、独英戦・独ソ戦ともに長期化するが、ドイツの優勢、長期不敗は揺るがないと判断していた。だが外務省は、ドイツが「苦境に立つ」こともありうるとの予測だった。

次に、対米英蘭戦の作戦見通しについて検討された。まず、米英蘭の間には共同防衛の了解があることは疑いなく、戦争相手を限定することは不可能との判断で一致した。そのうえで、開戦2年間は勝算はあるが、アメリカを軍事的に屈服させる手段はなく、3年目以降の帰趨(きすう)は「世界情勢の推移」(ドイツの対ソ・対英勝利)などによる、としていた。

物的国力判断については、南方資源の確保により戦争継続遂行は可能とされた。なお、日米の国力比較については、その大きな国力差は周知のこととされ、特に検討はされていない(当時アメリカの国民総生産は日本の約12倍で、そのことはある程度知られていた)。

■中国への駐兵問題を除き、アメリカの主張を受け入れる

対米交渉条件の緩和については、次のように合意された。

1、三国同盟の問題について、参戦決定は自主的におこなう。
2、ハル四原則については、アメリカ側の主張を認める。
3、通商無差別の問題は、特恵的な日中経済提携の主張はおこなわず、承認する。
4、中国における駐兵については、蒙疆・華北・海南島に限定する。駐兵期間は25年間。それ以外は2年以内に撤兵する。

この合意が、ほぼそのまま最終的対米提案の「甲案」となる。中国への駐兵問題以外は、実質的にアメリカ側の主張を受け入れたものだった。

これらのなかで、最も議論となったのは駐兵問題だった。東郷外相は、全面撤兵を主旨とし、前記特定地域にのみ5年間の限定的な駐兵を認めさせる案を示した。杉山参謀総長らは強硬に反対した。

そこで東条首相が、25年案を提議し、参謀本部側もやむなく受け入れた。東郷は、いったん期限を付けておけば、実際は交渉過程で処理できると判断していた。武藤軍務局長も、25年駐兵案に異議を唱えていない。実質的な交渉に入っていけば、最終的にはアメリカ側も駐兵を受け入れる可能性があると判断していたからと思われる。

大本営政府連絡会議最終日の11月1日、会議の結論として、戦争を決意、開戦は12月初旬、外交は12月1日午前0時まで、と決定された。

■東郷外相の「乙案」も承認される

その後、外交交渉の条件の検討に入り、東郷外相は、先の内容の甲案とともに、突然、それまで非公式にも議論されたことのない「乙案」を提案した。

その内容は、日本が南部仏印から撤退する代わりにアメリカは日本に石油を供給する。また両国は蘭印におけるに必要な物資獲得に相互に協力する、との暫定的な協定案だった。

この乙案に杉山参謀総長・塚田攻(おさむ)参謀次長は激しく反発した。だが、武藤は、休憩中に、東条も交え、杉山・塚田を説得した。

乙案を拒否すれば、外相辞職・政変となることも考えられる。その場合には次期内閣は非戦となる公算多く、開戦決意までには、さらに日数を要すことになる、と。武藤は連絡会議幹事として常時出席していた。

杉山らは、日中戦争解決を妨害しないとの趣旨の文言を入れることを条件に、この説得を受入れ、乙案は承認された。

■嶋田海相、突然の大転換

こうした動きのなかで、大きな変化が生じた。それは海軍の大転換である。数日間の会議の終盤(10月30日)、嶋田海相は、沢本頼雄海軍次官や岡敬純軍務局長ら海軍省幹部にこう語った。

数日来の空気より総合すれば、大勢を動かすことは難しい。ゆえに、「このさい戦争の決意をなし」、今後の外交は大義名分が立つように進め、国民一般が正義の戦いだと納得するよう導く必要がある、と。戦争決意を示したのである。

これは重大な発言だった。嶋田は会議前には、外交はぜひ実行したい。できるだけ戦争は避けたい、と語っていた。沢本次官は、嶋田の開戦決意に対して、「大局上戦争を避くるを可とする」、と同意しなかった。岡軍務局長もまた日米開戦には慎重な姿勢だった。

だが、嶋田は、このさい海相(自分)一人が戦争に反対したために時期を失したとなっては申し訳がない、として沢本らを押し切った。これにより、一貫して開戦に慎重姿勢をとってきた海軍省が、開戦容認に転換したのである。

■陸海軍ともに「日米開戦やむなし」が大勢に

永野修身軍令部総長ら軍令部首脳は、原則的に海相や政府が決定すれば、それに従うとのスタンスだった。ただ、問題は和戦の決定時期が切迫していることで、ずるずると外交を続け、時機を逸してから戦争をせよといわれても、責任を取れないと言明していた。

軍令部内部でも、伊藤整一次長は、緒戦はともかく2年目以後は「説明の如き国家資源では自信なし」として日米戦争回避の考えだった。福留繁作戦部長も、日米開戦には慎重姿勢だったが、それに代わる説得的な選択枝を提起できず苦悶していた。

海軍は、次官、軍務局長、軍令部次長、作戦部長ともに慎重姿勢のなかで、嶋田海相が、開戦やむなしとの判断を示したのである。

この嶋田海相の態度変更は重大な意味をもっていた。東条内閣下で御前会議決定が再検討されることになったが、その背景には海軍側の慎重姿勢があったからである。だが、嶋田海相の姿勢転換によって海軍が開戦容認となり(永野軍令部総長も追認)、大本営政府連絡会議は、陸海軍ともに、日米開戦やむなしとの大勢となった。

■裏目に出た昭和天皇「最側近」の選択

これにより木戸が期待した、海軍の不同意姿勢継続による戦争回避の可能性は消失し、日本の対米開戦意志は事実上決定したといえる。全く木戸の予期しない事態だった。

川田稔『木戸幸一』(文春新書)
川田稔『木戸幸一』(文春新書)

では、なぜ嶋田は突然態度を変えたのだろうか。これについては次のような見解が有力である。この3日前、嶋田は、皇族で海軍長老の伏見宮前軍令部総長から、「すみやかに開戦せざれば戦機を失す」との勧告を受けており、それが直接の原因ではないかとの見方である。嶋田は長らく伏見宮の強い信任をうけ、軍令部内で異例の昇進を遂げていた。

もしそうだとするなら、皇族である伏見宮がなぜそのような判断をもったのかが疑問になる。その点については、現在のところ解明が進んでいない。

この嶋田海相の変節による海軍の態度変更は、木戸の戦争回避のもくろみを完全に狂わせた。木戸は、海軍が対米開戦の「決意」を示さないことを前提に、9月6日の御前会議決定を白紙還元し、東条内閣により対米開戦回避を実現しようとした。

しかし、その海軍が態度を変え、対米戦への決意を示したのである。

木戸の選択は、まさに裏目に出たといえよう。木戸から見て、残された戦争回避の可能性は、アメリカが甲案か乙案のいずれかを受け入れる場合のみとなった。

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川田 稔(かわだ・みのる)
名古屋大学名誉教授
1947年高知県生まれ。1978年、名古屋大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。専門は政治外交史、政治思想史。名古屋大学大学院教授などを経て現職。

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(名古屋大学名誉教授 川田 稔)

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