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負けを認められず「負債2億円」まで事業を続けた社長夫婦の末路

プレジデントオンライン / 2020年4月17日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fizkes

会社経営にはリスクがつきものだ。一度経営が傾けば、あっという間に追い込まれてしまう。ピーク時には8店舗のガソリンスタンドを経営し、3年間で18億円の売上があったという元経営者の葛西憲司さん(55歳・仮名)は、「負債総額が約2億円になってようやく破綻処理を決意したが、もう遅かった」という――。

※本稿は増田明利『今日、借金を背負った』(彩図社)の一部を再編集したものです。

■「認知症にでもならない限り記憶から消えることはない」

葛西憲司さん(55歳・仮名)

出身地/埼玉県 現住所/東京都練馬区
職業/物流会社契約社員 月収/20万円 妻の月収/17万円 家賃/5万4000円
主な借金/銀行、信用金庫、信用組合で1億7000万円 事業者ローン500万円
買掛金、リース代、公租公課未払いを合わせると約2億円
他に親族より180万円
借金の残高/自己破産・免責で消滅。親族からの支援金のみ
月々の返済額/妹、義兄に4万円

「もう2年近くも前のことなんですが、今でも当時のことは時系列で覚えています。老人になって認知症にでもならない限り記憶から消えることはないでしょうね」

こう話す葛西さんは約2年前に経営していた会社を倒産させてしまったという過去を持つ。今は身辺整理も終わり落ち着きを取り戻しているが、際限なく借入れ金が膨らんでいき、倒産に向かって坂道を転げ落ちていく当時の出来事は詳細に、そして鮮明に覚えている。

「本当に毎日が苦痛でした。資金繰りに追われ気が休まるときがなかった。手形や小切手が落ちない夢を見て飛び起きたりしましたからね。まさに生き地獄だった」

葛西さんが社長として経営していたのは燃料販売会社。埼玉県の幹線道路沿いで数店舗のガソリンスタンドを展開していた。

■父から受け継いだ会社を8店舗まで拡大

創業者は葛西さんの父親で会社設立は1971年(昭和46年)。設立当時は1店舗だけで運営していたが世の中はモータリゼーションが始まった頃で、これにうまく乗っかり店舗数を拡大していったという。

「父が亡くなってわたしが跡目を継いだのは1999年(平成11年)でした。その時点で5店舗あったのですがスケールメリットを活かしたいと思い、廃業する同業他社があると経営権を譲り受け、最大で8店舗まで拡大させました」

店舗は川越街道沿いとその周辺道路にバランスよく配置していたので商圏が重複することはなく、どのスタンドも一定水準以上の売上げをキープしていた。ピークは2001年からの3年間で売上げ高は約18億円を計上していた。

「しかし、出ていくものも多かったんです。自動洗車機は4~5年で交換しなければなりませんし、他のスタンドと差別化するためにお客さん用の休憩スペースを各スタンドに設置したり、カー用品の販売も始めたので仕入れ代も必要になった」

冬場は暖房用の灯油を配送するトラックも必要。車両の維持費やメンテナンス費も大きかった。それでも赤字になることはなく、利益もそれなりに確保できていた。

「運転資金にも困ることはありませんでした。展開していたスタンドの半分は自社の土地で1カ所当たりの広さも70坪以上ありました。幹線道路沿いにまとまった土地を持っているのは強みだった」

■不景気の波で経営が苦しくなり始めた

金融機関は土地を持っていれば融資を渋ることはなく、借入れ金で古くなった設備の更新もできた。少なくとも2000年代の前半までは何の問題もなかった。

「様子が変わってきたのは2007年に入ってからです。世の中の不景気度合いと比例して販売量が落ち始めました。同業他社との競争も激化しましたね。ガソリンにしろ軽油にしろ、どう考えても仕入れ値より安い値段を付けるところが現われて」

ガソリン1ℓ135円のときに1、2km手前にあるスタンドが133円にしたら、対抗上同額にするか更に安くしなければ客は来てくれない。消耗戦に突入してしまった。

「世の中も不景気だったから大口の得意先だった運送会社が規模を縮小したり、廃業するところもあり売上げが下降の一途をたどりました」

暖房用の灯油も昔と比べると販売量が大きく減っていた。そのことも経営状態の悪化に拍車をかけた。

■法改正で多大な出費を強いられる

「8店舗あったスタンドは閉鎖したり売却したりで半分の4店舗まで縮小させ、何とか生き残りを模索したのですが、業績は下げ止まらなかった。とどめは2010年の消防法改正です。地下に埋めてあるガソリンや灯油を保管するタンクの規制が強化されたんです。これが激痛でした」

設置後40~50年経過したタンクは油漏れを防ぐため内部を繊維強化プラスチックで加工するか、地下に電極を埋め込み電流を流すことでタンクの腐食を防止する対策が義務化されたのだ。これに掛かる費用が膨大な金額だった。

「スタンドの地下にはレギュラーガソリン、ハイオクガソリン、軽油、灯油と4つのタンクがあるんです。それを規制に適合するようにすると1カ所で600万円近い費用が必要なんです」

工事期間は約2週間で、この期間は営業できないから日銭が入ってこない。

「営業していた4カ所すべての工事費が約2500万円、建物もかなり古くなっていたから塗装替えもやりまして。合計すると2700万円も必要だった」

金融機関から多額の借入れをして工事費に充てたが同業他社との競争は厳しくなる一方だった。販売量は回復せず、更に原油高によるガソリン、軽油価格の上昇で客の買い控えもあり収益は一段と悪化。借入れ金はみるみるうちに膨らんでいった。

「震災があった2011年に赤字転落してしまい、その後も好転せず欠損計上が続いていました。経営再建を模索したのですが収益改善の見通しは立てられなかった」

■破産処理を決めたときの負債総額は約2億円だった

赤字になると金融機関の態度が急に厳しくなる。月末には融資担当者が来て帳簿や伝票類をチェックされるし、「ここが無駄」「これはやめろ」とガンガンやられる。

2015年から借入れ金の返済が重荷になり、金融機関には一部返済猶予してもらっていたのだが「もう待てない」と最後通告を突き付けられた。そのときある銀行から言われたのは、「おたくは金融円滑法があったから生き延びてきただけ。とっくの昔に倒産していても不思議じゃないんだ」という冷徹な捨て台詞だった。

「新たな資金繰りの方策はなく、ガソリンなどの仕入れも不可能になるのは時間の問題だと思いました。これらの事情を勘案し法的に処理することを選択したわけです」

万策尽きた葛西さんが破綻処理を決意したのは2017年5月。親類の伝で紹介してもらった弁護士が処理を引き受けてくれた。

「借入れ金の総額は1億7000万円ぐらいになっていました。スタンドの土地と建物は自前のものですが、すべて銀行、信金が抵当権を設定していました」

借入れ金の他にも買掛金がいくつかあり、リース品の代金未払いもあった。従業員の社会保険料の未納分などもあり、それらをすべて合わせると負債の総額は約2億円。この他に葛西さん個人が借りた事業者ローンが約500万円。目眩がしそうな金額だ。

■「最も辛かったのは社員たちに事実を告げるとき」

救いは危ない筋からの借入れがなかったこと。どこでどうやって調べたのか、経営状態が悪くなり始めた頃から手形金融の誘いが来ていた。金利は法定限度ギリギリだったから、そんなものに手を出していたら身の破滅だった。

「弁護士さんには破産が最も適切な処理だと言われました」

そうはいっても倒産処理だって費用が掛かる。裁判所に納める予納金は法人分が200万円、葛西さん個人の破産と免責申立に80万円。これに弁護士費用を合わせると400万円も用意しなければならなかった。

更に倒産となると社員は解雇することになる。その場合は解雇手当として1カ月分の給料を支払う義務がある。

「正社員はもう7人しか残っていませんでした。あとはアルバイトが8人いたのですが合計で270万円必要でした。事務手数料や諸々の実費も用意すると都合700万円が倒産処理に要する費用ということでした」

もう会社の金庫は空っぽ、個人的な資産もあらかた吐き出していたが、妻名義で所有する車2台を中古業者に売って220万円を調達。更に郵便局の簡易保険も解約し300万円を捻出。不足の180万円は葛西さんの妹と奥さんのお兄さんに頭を下げて貸してもらった。事情が事情だけに「仕方ない」ということで助けてもらえたのは不幸中の幸いだった。

「最も辛かったのは社員たちに事実を告げるときだった。処理を依頼した弁護士さんと顧問税理士さんが同席してくれ、事の経緯を丁寧に、ありのまま話しました」

社員もアルバイト従業員も薄々察知していたようで、混乱もなく淡々としていたらしい。

■債権者集会では罵声は飛ばず、むしろ同情された

同席していた弁護士と税理士から最後の給料と解雇手当は今日中に振り込む。後日、離職票を書留郵便で送るので失業手続きをとってほしい。正社員の退職金は国の立替払制度を利用すれば支払われるので手続きするように。会社は破綻処理に入るので社長は当事者能力を失うなどの話があり、最後に雇用保険に関する解説をして20分程度で終了した。

「社員への説明が終わったら弁護士が債権者にFAXを流し、本店事務所の入り口に事業を停止して破綻処理に入った。法人の破産申し立てをするということと、代理人弁護士の事務所所在地を記した貼り紙をしてその日は終わりでした」

弁護士から強く言われたのは、債権者が訪れたとしても対応せずこちらへ連絡するようにとだけ告げること、携帯電話が鳴っても出ないようにすることなどだった。

「3週間後に債権者集会と財産状況報告会があったのですが出席したのはたった6人でした。弁護士がいろいろ話している横でわたしは神妙に頭を下げていただけだったけど、混乱したり罵声が飛んだりするようなことはなかった」

むしろ終わった後に「これからどうするんですか?」と聞かれたり、「おたくも大変だな」と同情されるほどだった。

「スタンド内でカー用品やカーアクセサリーの販売もやっていまして。仕入先の担当者が来ていたのですが、損失処理をするのでそれでお終いですと言われただけ。他の人たちも実に倒産慣れしているというか、淡々としていました。不謹慎ですが拍子抜けしましたね」

■宅配会社の契約社員としてなんとか就職

金融機関には担保に差し出していたスタンドの土地、建物を差し押さえられたし、自宅マンションも売却して負債の弁済に充当することにした。

「これで弁済できたのは負債の6割程度でした」

もう弁済原資はないからこれ以上の弁済は不可能。3カ月後には会社の倒産処理(法人の破産)は終了した。法人の倒産処理と同時に葛西さん個人の破産と債務免責も決定。これで葛西さんはすべての債務から解放された。

「法的な処理が完了したあとは都内に転居しました。やはり元々の街やその近くで暮らしていくのは辛かったですね」

仕事を探すにしても埼玉県より東京都の方が見つけやすいと考えた。

「引っ越し先を探すのは大変でした。何しろ無職で定収はなし、蓄えもほとんどゼロ。これでは不動産屋に行っても入居審査が通らない。何とかなったのは福祉用物件(主に生活保護者用)だけでした。息子が保証人になってくれたけど、家賃保証会社に払う保証料は普通の人より5割増しぐらいの金額を要求されましたね」

郊外とはいえ4LDKでオートロックのマンションから2Kの風呂なしアパートに急降下だが、これで住まいと住所は確保できた。社会人2年生の息子は会社の独身寮に転居したので夫婦2人で暮らすには十分だった。

「職探しは大変でしたね、身辺整理が完了したとき54歳だったでしょ。年齢不問になっているところでも不採用でした」

葛西さんは甲種危険物取扱者と1級ボイラー技士の資格を持っているが、これを活かせる仕事は得られなかった。

「自分も経営者だったから分かります。国家資格を持っていても、わざわざ年齢の高い人を採用しようとは思いませんよ。まして元社長なんて使い難いだろうし」

得られた職は派遣での倉庫内仕分け作業。奥さんは和食レストランのお運びさんのパート。これで4カ月食い繋いだ。

「今は、わたしは宅配会社の契約社員に採用してもらえまして、地域センターで集荷と配送を担当しています。妻もビル管理会社の契約社員になり、新宿のオフィスビルでクリーニングスタッフとして働いている」

葛西さんも奥さんも50代半ばだから贅沢なんて言っていられない。1年ごとの契約社員だが、とりあえず社会保険に加入できたのはありがたいと思っている。

「現在の収入ですか? 月収でわたしが約20万円で妻が17万円ぐらいですね。2人合わせた手取りは30万円ほど、普通に暮らしていけますよ」

■親戚に毎月2万円ずつ借金返済をしている

金融機関などからの借金は消滅したが、破綻処理に不足で親族に融通してもらったものは返し続けている。

「妹も義兄も催促なしのあるとき払いでよいと言ってくれているのですが、こちらの誠意として毎月2万円ずつ返しています」

妹から借りたのは100万円で義兄に助けてもらったのは80万円。毎月計4万円返しているが、返し終わるのには3年9カ月かかる。

「もう3分の1は返しているからあと2年半。これだけは欠かさずきちんとやらないと。普通、こういうことがあると身内でも疎遠になってしまったり、絶縁状態になってしまったりすることが多いけど、わたしの場合はそういうことはなかった。何かと気に掛けてくれるので感謝しているんですよ」

■元従業員とは音信不通に

気掛かりなのは最後まで残っていた元従業員たちのこと。

「こちらの生活が一段落してから連絡してみたのですが電話が通じなかったり、封書は宛先人不明で返送されてきたりしました。辛酸を舐めているのか、新しい生活を始められたのか。やっぱり気になりますよ」

自分自身もそうだが、会社が倒産しなければ不安な思いや嫌な思いをしなくて済んだ。金銭的な困窮も回避できたはず。そう思うと申し訳ないとしか言えない。

親から引き継いだ会社は雲散霧消、個人的な資産はすべて消失。破産者だから社会的信用も失墜した。従業員たちの人生にも汚点を付けてしまったという負い目は一生消えることはないと思っている。

「だけどね、ホッとしたところもあるんですよ。従業員や取引関係の人たちに多大な迷惑を掛けたけど長年背負い続けていた重たい荷物を下ろすことができたから。会社が潰れて良かったわけじゃないけど、もう苦しまなくていいという思いもあるんだ」

■「もっと早くに負けを認めていたらな」

最後は冷静な判断ができ、法的にもきれいさっぱり清算できた。世の中には法的処理の費用が工面できずに放置逃亡する経営者も多いと聞く。それに比べたらリセットできたのは上出来だと思う。

増田明利『今日、借金を背負った』(彩図社)
増田明利『今日、借金を背負った』(彩図社)

「社長失格の自分がこんなこと言ったら怒られるかもしれませんが、どうしてあんなに頑張ってしまったのかと思うこともあります。赤字決算が3年続いたところで自主廃業するという手もあったと思うんです。借入れ金の担保をすべて処分すれば若干のプラスになる可能性が高かった。それを従業員たちの再就職支援に回せることもできただろうし、わたし個人もすべての資産をゼロにしないで済んでいたかもしれない。冷静じゃいられなかったけど、もっと早くに負けを認めていたらなと後悔する部分はあります」

今の生活も不安が大きい。この先、またマイホームを手に入れるのは不可能だからずっとアパート暮らし、高齢者になったときに部屋を貸してもらえるか分からない。老後に備えた蓄えもほとんどない。契約社員の仕事もいつまで使ってもらえるか分からない。今のところは夫婦とも生活習慣病や慢性疾患は抱えていないが、重い病気になったときに医療費や入院費を払えるか……。考えると暗くなるばかりだ。

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増田 明利(ますだ・あきとし)
ライター
1961年生まれ。都立中野工業高校卒業。ルポライターとして取材活動を続けながら、現在は不動産管理会社に勤務。2003年よりホームレス支援者、NPO関係者との交流を持ち、長引く不況の現実や深刻な格差社会の現状を知り、声なき彼らの代弁者たらんと取材活動を行う。著書に『今日、ホームレスになった』(彩図社)など多数。

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(ライター 増田 明利)

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