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スーツで富士登山、東京マラソン、モンブラン登頂…老舗スーツ店の4代目がYouTuber社長になった理由

プレジデントオンライン / 2024年4月7日 12時15分

オーダースーツ店の4代目社長・佐田展隆さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部

スーツ姿での登山やスキーをウリにするYouTuber社長がいる。オーダースーツ店の4代目社長・佐田展隆さんは、2013年にチャンネル「さだ社長」を開設し、自社製のスーツを着て富士山に登ったり、フルマラソンを完走したりする動画を投稿し続けている。佐田さんはなぜYouTuberになったのか。フリーライターの宮﨑まきこさんが取材した――。

■スーツでスキージャンプを飛ぶ謎の男

動画は、長野県飯山のスキージャンプ台の前に立つ、スーツ姿の男性の挨拶から始まる。

「本日は、オーダースーツSADAのスーツの耐久性と運動性を確認するために、スキージャンプを飛びにまいりました」

しわ一つないスーツにネクタイを締めた男性が、青いヘルメットをかぶり、右脇にスキー板を抱えているという、強烈な違和感。

ミディアムヒル45メートル地点に設置されたスタートバーに座り、男性はレーンにスキー板を乗せる。カメラが映すスーツの背中越しに、着地点がはるか遠くに見えた。高所恐怖症でない人でさえ、目をそらしたくなる高さだ。

「ジャンプ行きまーす!」

彼は片手を上げ、迷いもせずにバーから手を放した。両腕を後方へ水平に伸ばして腰をかがめ、坂を滑っていく。そしてスキー板をV字型に開く美しいフォームでジャンプ。……数秒後、着地に失敗してスーツ姿のまま豪快に転倒し、坂を滑り落ちていった。しかし視聴者が息をのむ暇もなく立ち上がり、笑顔で決め台詞を吐く。

「SADAのオーダースーツは、スキージャンプで転倒しても、大丈夫!」

1923年から100年続く「オーダースーツSADA」の4代目社長、佐田展隆(のぶたか)さん(49)の個人YouTubeチャンネルには、佐田さんが富士登山や東京マラソン、そしてモンブラン登頂まで、スーツ姿で挑戦する動画がアップロードされている。スキージャンプ動画の再生回数は、12万回を超えている。

実はこの社長、負債25億円の企業を二度もV字回復させ、2023年には年商35億円を超える企業にまで成長させた張本人なのだ。

スキージャンプ動画のキャプチャ
YouTubeチャンネル「さだ社長」より
ジャンプへの意気込みを語る佐田さん - YouTubeチャンネル「さだ社長」より

■社員に突き上げられて始めたYouTube

YouTube活動を始めたきっかけは、アメリカのミキサーメーカーBlendtec社の動画を見たことだった。社長自らが出演してスマートフォンやゴルフボールなどをミキサーで粉砕する動画は大きな話題を集め、特にiPadを粉砕した動画は2000万回近く再生されている。

2013年、広告費をかけずになんとか「オーダースーツSADA」を知ってもらおうと模索していたとき、社員から提案されたのがYouTubeだった。

「私はYouTubeで広告なんて、思いつきもしませんでした。でも社員から『社長が自社商品でおもしろいことをやるとバズるらしい』と言われましてね。『社長がやらないと意味がないんです』と」

YouTubeなら、誰でも無料で動画をあげられる。動画がバズれば大きな宣伝効果になるだろう。そこで出た案が、「オーダースーツで富士登山」だった。

「当時、富士山が世界遺産に登録されて話題になっていました。私自身山登りが趣味で、日本百名山のうち日本アルプスの山はすべて踏破しています。『富士山なんて、サンダルでも登れる山だ』なんて言ってたのを逆手に取られましてね、革靴を履かされて、ビジネスバッグまで持たされちゃいましたよ」と、冗談めかして笑う。

YouTubeチャンネル「さだ社長」より
スキー板を担いで富士山の山頂に登った。足元にあるのが「日本最高峰富士山剣ヶ峰」の石碑

■「ほら、ガチャピンも飛んでますよ」

2013年富士登山から始まった挑戦は、徐々にエスカレートしていく。大学時代スキー・ノルディック複合の選手だったと知る社員から、今度はこんな提案が出た。

「社長、スーツでスキージャンプ飛んでくださいよ」

大学卒業以来15年間飛んでいないからと渋ると、社員から「ほら、ガチャピンも飛んでますよ」と動画を見せられた。普段から体力自慢、運動能力の高さを自慢しているだけに、後には引けない。

「まあ、ガチャピンが飛んでるなら、大丈夫か」

東京マラソンでは抽選には落ちたものの、チャリティ募金をして自費でエントリー。スーツに革靴で42.195kmを走るという暴挙にチャレンジした。マラソン用のクッション性の高いシューズで走っても足の負担は避けられないというのに、固い革靴で走って大丈夫だったのか。

「骨と筋は大丈夫でしたよ」

「スーツで挑戦動画」はエスカレートし、遂にヨーロッパアルプス最高峰、モンブランのスーツ登山へ。さすがにこれは無理だろうと現地に確認してみると……。

「現地の方が、昔の人はみんなスーツにネクタイで登ってたって言うんです。やはりスーツは相手に対する最上級の敬意なんですね」

YouTubeチャンネル「さだ社長」より
フランスとイタリアの国境にあるヨーロッパ最高峰のモンブラン(標高4810m)。ガイドの指示のもと、風が穏やかになったタイミングでジャンパーを脱ぎ、スーツ姿で動画の撮影に臨んだ - YouTubeチャンネル「さだ社長」より

フルマラソンを完走しても、モンブランに登頂しても、スキーで豪快な転倒を見せた後でさえ、佐田さんは言う。

「見てください。このままビジネスミーティングに行けるクオリティを保っていると、思いませんか?」

どんなに無茶な挑戦の後でも律儀に自社製品を宣伝する彼の真面目さが受け、2023年6月にはテレビ朝日系バラエティ番組「激レアさんを連れてきた」でも紹介された。

ビジネスミーティングの場所を間違え続ける男・佐田展隆は、どんな人生を歩んできたのか。

YouTubeチャンネル「さだ社長」より
高さ223mからバンジージャンプをする佐田さん。場所は中国・マカオの「スカイパーク・マカオタワー」(高さ338m) - YouTubeチャンネル「さだ社長」より

■社会人5年目で訪れた転機

1974年、佐田さんは曾祖父の時代から続くスーツメーカーの長男として生まれた。幼いころから祖父の膝の上でその教えを受けて育った。戦争で満州へ渡り、命からがら帰国した祖父の教えは2つ、「思い立ったが吉日」そして「迷ったら茨の道をゆけ」。

小学校6年生になった1986年、祖父が勇退し、婿養子である父が経営を引き継いだ。父の久仁雄さんの代では百貨店「そごう」からの受注を開始し、会社は大きく売り上げを伸ばした。

祖父で2代目社長の茂司さん(左)と佐田さん
写真提供=佐田社長
祖父で2代目社長の茂司さん(左)と佐田さん。小さい時から祖父が大好きだった - 写真提供=佐田社長

父はよく仕事現場に連れて行ってくれた。大勢の社員を前に演説する父の姿は心に強烈に焼きつけられ、いつか父のようになりたいと願った。しかし、佐田さんには2人の弟がいる。父は3人のうち誰に跡目を継がせるかを明言せず、3人を競わせるように焚きつけた。

「父に後継者として選ばれたい一心でしたよ。長男でしたからね。父に振り向いてほしくて、父の大好きな司馬遼太郎の本を読破しましたし、父と同じ大学にも進学しました」

2浪の末に一橋大学経済学部に進学し、父と同じスキー部に入部した。1999年、大学を卒業した佐田さんは、大手繊維メーカー「東レ」に就職する。家業と同じ業界に就職したのは、父への意思表明だった。

「東レで十数年修行を積んで、実力をつけてから家業を継ぐつもりだったんです」

ところが、入社5年目の2003年、父から一本の電話を受ける。

「会社が大変だから、帰ってきてほしい。お前が帰ってきてくれないと、会社は倒産する」

■最初の仕事は連帯保証人になることだった…

「会社が大変だろうなということは、薄々感づいていました。売り上げの5割以上を占めていたそごうが倒産しましたからね。うちも連鎖倒産するんじゃないかって」

百貨店業界に逆風が吹いた時代だった。2000年2月長崎屋、同年7月にそごう、翌年9月にはマイカルが、立て続けに会社更生法や民事再生法の適用を申請した。特に最大手だったそごうの「倒産」ニュースは大きく報じられ、当然佐田さんの耳にも届いていた。

佐田社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
会社員生活は突然終わった。本当はもっと修行を積んで家業を継ぐつもりだった - 撮影=プレジデントオンライン編集部

しかし、当時東レもバブル崩壊の影響から抜け出せず、毎晩終電で帰るほどの激務が続いていた。同じ家に住みながらも、親子で家業について話ができる状況にはなかったのだ。

「父はよく考えてから決めろと言いましたが、考えるまでもなく、私の気持ちは決まっていました。会社が大変なときだからこそ、帰るんです。そのために私は生きてきたんですから」

父と子が、力を合わせて会社を立て直す。その使命感に武者震いした。

しかし、佐田さんを待っていた仕事は、無数の借用書に連帯保証人の判を押すことだった。

■会社を延命させるために…29歳で借金25億円を背負う

「若社長、ここにお名前と印鑑を」

全ての借入先を回り、連帯保証人の印鑑を押して回るのに1週間かかった。

「ようは、銀行側が貸し付けを継続する条件が、連帯保証人を一人増やすことだったんです」

当時弟たちは保証人になるには未熟で、長男の自分だけが連帯保証人として認められた。だから自分が選ばれたのだ。冷静になって会社の経営状況を調べて初めてことの重大性に気がついた。

年商は22億円なので、営業利益は4~5%程度で計算して、1億円ぐらいはあるだろう。対して負債は25億円。利息の返済だけでも年間1億円にのぼる。佐田さんが保証人に入ったおかげで銀行からは元本の返済猶予期間が延長されたため、しばらくは利息分だけ返済すればいいとしても、ギリギリなのには違いない。

しかし、バランスシートを見て絶望的な現実に気づく。この会社、3期連続8000万円の赤字を出しているのだ。どう考えても、会社が今まで回っていた方がおかしい。事実上倒産といっても過言ではない状態だった。

「29歳にして、総額25億円の連帯保証人になりました。自分は会社を立て直すために呼ばれたわけではなく、延命措置のために銀行に捧げられた人質だったんです」

佐田社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
父の経営は完全に行き詰っていた。無数の借用書に連帯保証人の判を押すことが佐田さんの最初の仕事になった - 撮影=プレジデントオンライン編集部

さすがになにか策があるはずだ。父を問い詰めたが「お前なんかにわかるか」の一点張りだった。尊敬していた父の姿が、目の前で崩れていった。

「冗談じゃない、これは僕の人生がかかった話だよね⁉ 沈みかけた舟に、僕を乗せてどうするの。僕を陸に置いてくれていたら、助けられたかもしれないのに!」

次第に頭に血が上っていき、父子は会社でも自宅でもつかみ合いのケンカを続けるようになる。何を言ってもまともに答えない父に怒りは収まらず、父に対する暴言もエスカレートしていった。

「人の人生を何だと思ってるんだ、このクソオヤジ!」

幼いころから父に憧れ、会社を継ぐことをずっと夢見てきたのに……。行き場のない怒りに、手に届くものを何でも壁にぶつけて壊した。家には終わりなく佐田さんの怒号が響く。同居していた祖母は不安げに見守り、母は震えながら泣いていた。

「展隆、やめて! お父さんも大変なんだから、わかってあげて……」

母のすがるような声も、リビングの隅ですすり泣く後ろ姿も、佐田さんの心には届かなかった。

■父との和解

1週間ほど、昼夜問わず感情をぶつけ続けるとさすがに疲れ、ふと冷静になる瞬間が訪れた。

「父に間違いを気づかせたいと思っていましたが、よく考えると気づかせたところで会社が倒産状態だという現実は変わらない。そのとき、あの世の祖父の顔が浮かんだんです」

「戦後の焼け野原から、俺が必死に立て直した会社を、お前たちは父子げんかの果てに潰したのか」と言われているような気がした。

「このままじゃ、天国の祖父に顔向けできない。でも今から会社を立て直すことは容易ではないでしょう。ならばダメならダメで、あっぱれなあがき方をしようじゃないか。あがき方があっぱれならば、祖父もよくやったと言ってくれるんじゃないかって思ったんです」

そうと決めたら父と話をしなくてはいけない。あっぱれなあがき方といっても、経験の浅い佐田さんにはアイデアが一つも思いつかなかった。

思い立ったが吉日、父と話をしようと自宅に戻ったが、いざとなると言葉が出ない。下を向いたまま黙り込む佐田さんに、父が一言、声をかけた。

「……なんだ、落ち着いたのか。思ったよりも早かったな」

冷静になって頭を下げに来る佐田さんを、父は待っていた。そして父も頭を下げた。

「お前の人生を潰してしまったことを、俺は謝らなければならない。しかし、婿養子である自分を社長として選んでくれた祖父に報いるためにも、俺は1%でも可能性があるのなら、息子の人生一つ二つ潰してでも、その1%に賭けなければならないんだ」

父もまた、極限まで追い詰められていたのだ。

■営業改革と北京工場のテコ入れ

父の切り札は、操業して間もない北京工場だった。北京郊外の農村地にあり、人件費は日本の5分の1。生産の中心を北京工場に移せば、原価は下がり、その分利益が上がるという目測だ。

しかし、メイドインチャイナのオーダースーツを受け入れるテーラーなど皆無だった時代だ。しかも、北京工場からの納品は頻繁に遅れるうえに、素人が見てわかるほど縫い目が曲がった不良品も多い。

「中国製オーダースーツをテーラーさんに認めてもらうには時間がかかります。まずは経営状況を見直して延命を図りつつ、並行して北京工場のクオリティを上げていかなければなりませんでした」

北京佐田雷蒙服装有限公司(北京工場)
写真提供=佐田社長
1990年、中国・北京市に北京佐田雷蒙服装有限公司(北京工場)を設立。2002年に北京市内通州区に拡大・移転した - 写真提供=佐田社長

営業の現場を見て愕然とした。営業担当が勝手に値段を下げて受注していたのだ。からくりはこうだ。工場の稼働率が上がれば、原価は下がる。そのため営業担当はとにかく着数を取って工場をフル稼働させることに執着した。すると彼らは客先で土下座をして着数を取ろうとする。土下座をされた客が何を要求するかといえば、値下げだ。

「スーツには閑散期と繁忙期があって、閑散期には20%~30%程度料金が下がります。また制服料金というのもあって、同じ型を使える制服はフルオーダーより工数がかからないので、100着以上発注してくれれば20%オフ、300着以上なら30%オフと、ディスカウント料金が設定されていました。それを営業が勝手に通年閑散期料金で、1着からでも制服100着料金でと、勝手に値下げをしていたんです。結果的に、仕事の6割ほどがディスカウント料金で取引されていました」

まずは自身が客先に出向いて事情を説明し、通常料金に戻してもらった。営業担当は「そんなことをしたら客が離れてしまう」と主張した。しかし実際に話してみると、「実はこんな価格で大丈夫かと心配していた」と、ほとんどの顧客が価格変更をあっさりと受け入れたという。

これだけでも半年で赤字・黒字がトントンになった。

■中国製が「低品質」だった理由は給与体制にあった

同時に北京工場の改革に取り掛かる。今まで日本から幹部が来ることもなかった北京工場は、完全に士気が緩んでいた。工場長は日本人だったが、現場の見回りもせず、出勤しないことさえ珍しくなかったという。佐田さんが何度注意しても変わらず、遂には辞表を出して辞めていった。

低品質の一因は、給与体制にもあった。着数によって賃金が計算される出来高方式なので、賃金を上げるためにはできるだけ速く仕上げればいい。誰もがスピードを重視し、縫製が雑になっていたのだ。

中国製オーダースーツを作る北京工場の様子
写真提供=佐田社長
中国製オーダースーツを作る北京工場の様子 - 写真提供=佐田社長

佐田さんは父にこの現状を報告し、宮城工場にいる製造部責任者に頼み込んで北京工場の工場長に就任してもらった。新工場長は中国人労働者に対し、「不良品を多く納入すれば、明日以降注文が減る。長く報酬を得たいなら、しっかり検品して不良品をすべて取り除くこと」と伝え、品質管理を徹底させた。工場の見回りも強化し、通訳を介して粘り強く指導したという。

結果、工場長の交代からたった1カ月で、北京工場から納品されるスーツの品質は、日本でも十分通用するレベルに向上したのだ。

■幹部社員の反発、笑顔で辞表を受け取った

しかし、急激な改革は社内に軋轢を生む。佐田さんのやり方に反対し、営業のトップ3人が同時に辞表を突きつけ、路線変更と謝罪を迫ったのだ。3人が辞めれば、3人に付いている客が全て引き抜かれてしまう。社員たちは佐田さんに頭を下げるよう、泣きながらすがったが、父だけは違った。

「彼らのやり方で今まではうまくいかなかった。お前のやり方でだめなら俺も諦めがつくが、やり方を戻して会社が潰れたら諦めがつかない。俺はお前に賭ける。笑顔で辞表を受け取ってこい!」

佐田さんは3人の辞表を、笑顔で受け取った。幹部たちのぎょっとした顔は、今でもよく覚えている。

会社は佐田さんが帰ってきた翌年には1億円の黒字、その次の年には1億7000万円の黒字をたたき出し、まさにV字回復を遂げた。

ここからオーダースーツSADAの快進撃が始まる……わけではなかった。

■3期連続8000万円の赤字が1年で黒字になったが…

「佐田が黒字化した」という噂が狭い業界内を駆け巡ると、仕入れ先から「サイトを詰めろ」の大合唱が始まった。サイトを詰める、つまり支払いを先延ばししていた売掛金をすぐにでも支払えという意味だ。父は金融機関だけでなく、あらゆる取引先に泣きつき、支払いを先延ばししてもらっていたのだ。取引先だけではない。従業員への給料も遅配を繰り返していた。

「もう無理だと思いましたね。利益が出たといってもすぐに支払いができる状況ではない。もはやここまででした」

インタビューに応じる佐田さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
業績を回復させても、会社は行き詰った。政府の支援策に一縷の望みをかけたが… - 撮影=プレジデントオンライン編集部

3期連続赤字8000万円を掘っていた企業を1年で黒字化できた。見事にあがき、華々しく散る。祖父もきっと、あっぱれだったと誉めてくれるだろう。

佐田父子が破産を決意したとき、意外な方面から援軍ののろしが上がった。メインの取引金融機関だった、商工中金神田支店の支店長だ。

「ここまで黒字化したんですから、破産してしまうのはもったいない。中小企業再生支援制度が使えるかもしれません」

「中小企業再生支援制度」。将来的に可能性のある会社なら、貸し付けしている金融機関が一定割合債権放棄することで生き残らせようという、当時の小泉内閣の企業支援策だった。

確かに当時の佐田はまだ借金が残っているもののバランスシートは黒字。借金を減額してもらうことで、生き残る可能性は大いにあった。一縷の望みをかけて、佐田さんは手続きに進んだ。

当初把握していた金融機関からの借り入れは約25億円。そのうち60%程度債権放棄してもらい、残りを会社で分割で返済していく再生計画を予定していた。しかし、専門家による詳細な調査が進むにつれて、仕入れ先への買掛金や従業員への未払い給料など、約7億円の隠れた債務が発覚する。

この時点で自力再生の道は閉ざされ、会社の経営権は商社系ファンドの手に渡ることが決まった。結局は金融機関が85%債権放棄し、未払い金はファンドが投入した出資金で返済。会社は運転資金の援助を受けつつ残債務4億円を返済していくことで、なんとか再生計画は認められた。

父は従業員の雇用だけは守ってほしいと訴え、自己破産を選択。同じく連帯保証人についていた佐田さんは、経営が軌道に乗るまでファンドに協力することを条件に、破産を免れた。

2007年、佐田さんは33歳、父は62歳、父子は会社と住み慣れた家を同時に失った。

■会社と自宅を手放し、築30年のアパート暮らしを始める

祖父が建てた杉並区善福寺の家を失い、一家は小金井市へ引っ越した。

父、母、そして祖母の3人は寝室2つに10畳のLDK、当時結婚したばかりだった佐田さん夫婦は、寝室1つと8畳のLDK。敷金礼金保証金なし、築30年ほどのアパートで、それぞれ新生活をスタートする。まだ年金受給前だった父は塾講師のアルバイト、母も託児所で慣れないパートの仕事を始めた。

祖母は心労がたたったのか、3カ月後に脳卒中で他界した。その数年後には母もガンが発覚し、闘病の末に他界するなど、佐田家にとってもっとも苦難の日々が続く。

「……自分のベストを尽くした結果だと、受け止めるしかありませんでした。落ち込んでいる暇もありませんし、とにかくちゃんと働いていかないと」

佐田社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
東京・杉並の閑静な住宅地に住んでいた佐田さん。家を失い、アパート暮らしの日々が始まった - 撮影=プレジデントオンライン編集部

佐田さんにも逆風が吹き荒れる。最初に就職したIT企業は、2008年のリーマンショックの影響で入社一年後に破綻、次に就職したコンサルファームも、2011年の東日本大震災で、入社二年後に倒産してしまう。それでも落ち込んでいる暇もなく、佐田さんは次の就職先を探し、2社から内定を得た。

これからまた働いて生活を立て直していこうと、家庭内も明るくなっていたそのとき、佐田さんは一本の電話を受ける。4年前に商社系ファンドの手に渡った会社の、元営業部長からだった。

電話を受けて長い間、受話器の向こうからはすすり泣きしか聞こえなかった。それでも相手が誰なのか、佐田さんにはわかった。長い長いすすり泣きのあと、彼は一言だけ言った。

「……若社長、大政奉還です」

■内定を蹴って潰れかけた会社に戻る

2007年に会社を譲り受けたはずのファンドは翌年のリーマンショックで潰れ、株式会社佐田は当時の取引先であったY社の100%子会社となっていた。しかし2011年の震災で宮城工場が被災し、佐田の売り上げは大きく下がってしまう。

すると「100%子会社に倒産されては、親会社も信用を失いかねない」と、経営を不安視したY社からも手を引かれてしまったという。社内の誰一人、社長の椅子に座ろうとしない状況で、佐田さんの名前が持ち上がった。

なぜ、内定を蹴ってまで潰れかけた会社に戻ったのか。そう尋ねると、佐田さんは熱っぽく語り始めた。

「このタイミングで私に声がかかるなんて、何かあると思いませんか? 祖父は口を酸っぱくして私に『迷ったら茨の道をゆけ』と繰り返しました。それが今なんじゃないかって。これは祖父の思し召しだとしか思えません。だって、『大政奉還』ですよ?」

今回はさすがに父も反対し、妻も「私をお義母さんやお祖母さんのようにする気か」と泣いて止めたという。しかし決意は揺るがなかった。

店舗に並ぶイタリア製の生地
撮影=プレジデントオンライン編集部
店舗に並ぶイタリア製の生地 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■「オーダースーツは終わった」と嘆く社員に示した活路

佐田さんが離れた2007年時点で24億円あった売り上げは、17億にまで落ち込み、完全に行き詰っていた。

売り上げの大部分を占めていたのは、百貨店やテーラーからの受注仕事だった。しかし、震災を機に廃業するテーラーが相次いだことや、大口の取引先だった親会社のY社と縁が切れたことによって、受注数は大幅に減少していた。

佐田さんの改革に熱意をもって取り組んでくれた経営幹部たちも、「百貨店の勢いは弱まり、オーダースーツの時代は終わった」「震災の影響が収まるまで、節約して持ちこたえるしかない」と、たった4年で無気力になっていた。

「節約なんて、とんでもない。企業は積極的な生産活動がなければ、いずれ傾いてしまうんです」

事態を打開すべく佐田さんが選んだ手段は、4年前に立ち上げた、メイドインチャイナのオーダースーツで小売りを始めることだった。北京工場をフル稼働させて、軸足を卸から直販に移すのだ。3店舗くらい店を出し、1店舗5000万円程度の売り上げが出れば家賃や人件費を払っても十分ペイできる。

しかし、この計画には全幹部が反対し、5人が辞表を出した。

「前回辞表を出したのは3人でしたが、同時に出されたからたいへんでした。今回は5人ですが、1カ月おきに出してくれたので助かりましたね」

■中国製オーダースーツで一発逆転を狙う

営業部長の辞表を受け取り、ナンバー2を引き上げ、1カ月程度佐田さんが貼り付いて指導する。もう大丈夫と手放すと次は経理部長から辞表、というように、同じことを5回繰り返した。

改革に反対した幹部の言い分ももっともだ。小売りは出店する時点で費用が出る。物件の保証金や販売員の賃金、また誘客するための広告費もバカにならない。そこを頼み込んで保証金を分割払いにしてもらい、販売員も社内の従業員をどうにか配置し、宣伝広告費もオープンセールで支払うからと頼み込んだ。

そして会社に戻ってから5カ月後の2011年10月14日、会社再建をかけた新宿店がオープンした。

「新宿駅前を選んだのは、乗降客数世界一の駅だからです。目の届く範囲に大手既製スーツ専門店もあるので、そこからこぼれた顧客も狙えるでしょう」

当時はフルオーダーといえば日本製、相場は10万円程度のところ、オープンセールと称して「中国製スーツにスペアスラックスをつけて1万9800円」を目玉商品に据えた。初回の3週間セールだけで250着ほどの注文があり、2回のオープンセールで合計約800万円の売り上げを記録。その後も順調に売り上げを伸ばし、2012年7月期の決算では前年度を1億円上回る、18億円の売り上げを達成した。

■中国製の誤解を解きたい、でも金がない…

今後、小売りを事業の主軸として会社を立て直すためには、会社の知名度と信用度を上げなければならない。

中国製にはどうしても、「安かろう、悪かろう」のイメージがつきまとう。取引先には実物を見るまでもないと門前払いされた。お試し価格1万9800円からと売り出しても、「嘘だ」「詐欺だ」と叩かれることもあった。

品質がよければ、誰だって価格は安い方がいいはずなのだ。うまくいけば、今まで価格を理由に既製スーツに流れていた客層をも取り込めるかもしれないのに。

「知名度・信用度を得たくても、大々的に広告を打つお金はありません。とにかく新聞やメディアへの売り込みから有名人への声かけなど、手段を選ばずやってみて、たどり着いたのがYouTubeだったんです」

YouTubeチャンネル「さだ社長」より
鳥取県にある大山。標高1709メートルの山頂までスーツを着て登った。もちろん、登山中はスーツの上にジャンパーを着ている

誰でも無料で動画をアップロードできるYouTubeで、中国製オーダースーツの品質を証明するコンテンツを作る。動画がバズれば、広告費用をかけることなく知名度と信用度を上げることができるかもしれない。

問題は、どうやって動画をバズらせるか。そこで社員から最初に上がった案が、「オーダースーツで富士登山」だったのだ。自分が出るのかと渋った佐田さんを、「社長がやるからこそおもしろい」と社員が後押し。常に社員に対して「チャレンジ・スピリット」の重要性を説いていただけに、やらないとは言えなかった。

こうしてスーツでチャレンジ企画がスタート。富士山、スキージャンプ、東京マラソンと無茶を重ねるうちに佐田さん本人に注目が集まるようになり、テレビ番組やWeb記事などで徐々に取り上げられるようになっていった。YouTubeを見てやってきた若者が店舗を訪れるようになり、客層も、新規の客も着実に増えていった。

YouTubeチャンネル「さだ社長」より
ニュージーランドにある「サザーランドの滝」に打たれて、スーツの耐久性を確かめた - YouTubeチャンネル「さだ社長」より

「目立ちたくてやっているんじゃないのですか?」と尋ねたら、佐田さんは即座に否定した。

「あんなこと、やりたいわけないじゃないですか! 僕はもともと人前に自分から出ていこうという性格ではないんです。でも、ここまでやって途中から人が変わったらおかしいでしょ? いつのまにかライフワークの一環になってしまいましたよ」

佐田さんはスーツチャレンジのために、毎日のトレーニングと体脂肪計測を欠かさず行っている。

オーダースーツ店に並べられたボタンの見本
撮影=プレジデントオンライン編集部
オーダースーツ店に並べられたボタンの見本 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■「スーツ離れ」の中で右肩上がりの成長を続ける企業に

YouTubeの効果もあり、オーダースーツSADAは順調に売り上げと店舗数(46店舗、2024年3月末時点)を伸ばした。100周年を迎えた2023年には、売上も前年同月比は全月150%から400%と、右肩上がりだ。

新型コロナウイルスのパンデミックを経て在宅ワークが定着し、スーツ業界全体が縮小傾向にあるなか、オーダースーツに限っては、どの会社も売り上げが伸びるという現象が起きている。いまでは既製スーツの大手メーカー、青山、AOKI、コナカらも次々と低価格なオーダースーツに力を入れるようになった。

「パンデミックは確かにスーツ業界にとっては大きな痛手となりました。しかし本来ビジネススーツがおもてなしアイテムだということを、人々が改めて認識する機会にもなりました。ビジネスの場では、ビジネススーツは最上級の『敬語』と同じ。自分と会う時間を作ってくれた相手に感謝と敬意を伝えるアイテムなんです」

この取材の一週間後にも、佐田さんは重要なビジネスミーティングに出席しなければならない。場所はニュージーランドの滝の中、相手に敬意を表すためにもスーツ着用は必須だ。

3時間の取材中常に背筋を伸ばして話をしてくれた佐田さんに、最後に一つ、聞いてみた。今、天国のお祖父さんに会ったとしたら、何と言われると思うかと。

「今だったら祖父は『よくやった』と褒めてくれるかもしれませんね。ただ、後進に事業を引き継ぐまでが、私の仕事ですから」

祖父の教えを守り、自ら選んできた「茨の道」。SADAのオーダースーツの耐久性と運動性を確認するために、これからも佐田さんはその道をゆく。

ビジネススーツは「相手に感謝と敬意を伝えるアイテム」と語る佐田さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
ビジネススーツは「相手に感謝と敬意を伝えるアイテム」と語る佐田さん。これからもSNSを通じてスーツの意味を若い世代に伝え続ける - 撮影=プレジデントオンライン編集部

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宮﨑 まきこ(みやざき・まきこ)
フリーライター
立命館大学法学部卒業。2008年より13年間法律事務所勤務後、フリーライターとして独立。静岡県在住。

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(フリーライター 宮﨑 まきこ)

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