1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

「お金より夢だよ」72歳独身、住み込みの新聞配達員は幸せそうだった

プレジデントオンライン / 2020年5月3日 11時15分

朝日新聞新宿東ステーション(新聞配達員)/原田吉郎さん(72) - 撮影=永井浩

毎朝午前3時半に起き、どんな雨の日も休めない。その上給料は決して高くない。54年間、住み込みで新聞配達員をする原田吉郎さんは「それでも仕事をやめたいと思ったことは一度もない。大切なのはお金よりも夢」と笑う。連載ルポ「最年長社員」、第3回は「新宿タイガー」――。

■歌舞伎町で何度も出くわした「タイガーマスク」の正体

派手なタイガーマスクの姿で東京・新宿の街で新聞を配り始めて、48年。72歳の原田吉郎さんは今も朝3時半に起床し、朝夕刊を配る生活を続けている。

「お金よりも夢だよ、ワッハッハ」と笑う原田さんが私たちに投げかけるモノとは何か?

ピンクのアフロヘアのかつらとタイガーマスクのお面に花柄の衣装をまとい、電動自転車を漕ぐ。荷台には約300部の新聞が縛られ、前かごに入った古いカセットテープレコーダーからは高倉健の歌謡曲「唐獅子牡丹」が大音量で流れている。

午後3時を過ぎると、この派手な姿で新宿の街に夕刊を配りに行く。街ゆく人は思わず振り返る。いつごろからか原田さんは「新宿タイガー」と呼ばれるようになった。

流石に朝刊を配る早朝には曲を流さないが、衣装はそのままだ。若かったころの私も新宿で朝方まで飲んでは、何度もタイガーマスクに出くわした。

そのたびに「おかしなオッサンだなあ」と感じたことを思い出す。

昨年3月には「新宿タイガー」というタイトルで原田さんのドキュメンタリー映画がテアトル新宿などで上映された。

ナレーションは女優の寺島しのぶさんで、長年の知人である俳優の八嶋智人さんらが出演してくれた。「おかしなオッサン」ではあるが、なぜか人を引き付けるのだ。

■48年前、直感でマスク30枚を大人買い

原田さんがタイガーマスクの姿で新聞を配るようになったのは1972年9月だった。新宿歌舞伎町にある稲荷鬼王(いなりきおう)神社の祭りの屋台でセルロイド製のタイガーマスクのお面を買ったことがきっかけだ。

屋台で売っていた50枚のうち、30枚を買い占めた。一枚500円だったというから1万5000円をお面に払った。

かなり思い切った買い物である。この48年間、お面が壊れたら、修理をしながら大切にかぶってきた。今も当時に買った30枚のお面は数が少なくなったものの、まだ残っている。これからもタイガーマスクを続けられるという。

今回、何度も「なぜタイガーマスクになったのか?」と尋ねた。原田さんの答えはこうだった。「かなり無理があるのは分かっているが、直感だよ。タイガーマスクのお面を見て、これだ! と思ったんだ。ずっと大切にしてきたラブ・アンド・ピースのためだよ」

ピンクアフロのカツラで話す男性
撮影=永井浩

すんなりとは理解できない答えである。「48年前から虎になった。もう人間ではないからね。なぜかと言われても……」と煙に巻く。

人生の選択は必ずしも説明がつくことばかりではない。それは偶然と必然が入り混じったもので、他人にうまく伝えられないものだし、本人でさえも本当のところは分からないかもしれない。

原田さんの人生行路もその類だろう。その人生を振り返りながら選択の理由をこちらで勝手に想像するしかない。

■大学を中退して専業の新聞配達員になる

原田さんは1948年2月に長野県の旧波田村(現松本市)に生まれた。いわゆる団塊の世代である。

66年に地元の県立梓川高校を卒業するまで長野で暮らし、身体は頑丈だったという。大東文化大学に合格し、上京。読売新聞の奨学生として東京中野区江古田の新聞販売店に住み込んだ。

その頃は70年安保闘争を前にして各大学で学生運動が激しくなっていた。大学はバリケードで封鎖され、授業は休講ばかりである。朝夕の新聞配達と好きな映画鑑賞の日々を送った。

「権力や筋力とは無縁の人間」という原田さんは学生運動とも距離を置くノンポリ学生だった。次第に大学に通う意味が感じられなくなり、68年に大学を退学。専業の新聞配達員となる。

ピンクアフロのカツラで笑う男性
撮影=永井浩

新聞販売店に住み込めば、新聞配達だけでもそれなりに暮らしていける。「シネマと美女と夢とロマン」をずっと求め続けているという原田さんにとって、夕刊配達後に映画館に駆け込み、シネマの世界に浸る生活はかけがえのないものだった。

■中野から新宿へ、「新宿タイガー」の誕生

中野から新宿に移ったのは1972年。配達する新聞は読売から朝日に変わった。

ピンクアフロのカツラで話す男性
撮影=永井浩

最初に担当したのは新宿3丁目。新宿駅の東側、甲州街道と新宿通りに挟まれた繁華街である。甲州街道の北側には歌舞伎町がある。

そこは映画館、飲み屋、キャバクラ、風俗店、ライブハウス、紀伊国屋書店、伊勢丹……と硬軟織り混ざった雑多な街である。演劇や出版に関わる人たちが夜な夜な酒を飲み、口角泡を飛ばして議論していたゴールデン街もある。

原田さんが夕刊配達後に映画館に入り浸るのは変わらなかったが、映画の後はゴールデン街などの飲み屋でお酒を飲む楽しみを覚えた。

そこで多くの女優やタレント、演出家らと出会う。ちょうどそんなころに稲荷鬼王神社でタイガーマスクのお面に出会ったわけだ。

■「ラブ・アンド・ピース」と「シネマと美女と夢とロマン」

原田さんら「団塊の世代」は政治や経済、社会のあり様に異議申し立てをした世代である。反権力を声高に唱えたが、その多くが大学卒業後は企業に就職し、ビジネスの世界に入っていった。80年ごろの「ジャパン・アズ・No1」や80年代後半からの「バブル経済」へと向かう時代には「企業戦士」に変わっていった。

一方、原田さんは大学を2年でドロップアウトし、新聞配達員として新宿で働いた。新宿は猥雑さが充満する街であり、新宿西口に行けば超高層ビルが建つビジネス街でもある。表と裏や新旧という二面性を抱えた新宿だからこそ、彼我の差も身に染みる。

かつて「エコノミック・アニマル」とまで揶揄された日本企業で働く多くの同世代とは異なる人生を歩んでいた原田さんにとって、生きるためのアイデンティティーが必要だったのではなかったかと思う。

それが「ラブ・アンド・ピース」と「シネマと美女と夢とロマン」のために生きるという50年近くもぶれなかった価値観だったと言えないだろうか。そんな価値観へと人生の振り子を大きく振り切るにはタイガーマスクのお面は格好の小道具である。

■夕刊を配り終えたら虎のままゴールデン街へ

タイガーマスクの仮装をして仕事をするような人は滅多にいない。世俗とは隔絶した存在でいられる。その格好のままで飲み屋に行けば、お店のママもお客も喜んでくれる。

ゴールデン街に行けば、そこで出会った女優らの悩みを聞いては励ますことも多かった。そんな原田さんの姿がドキュメンタリー映画として上演されるようになったのだから、「新宿タイガー」になったことで人生の彩りが増えたことは確かである。

ピンクアフロのカツラにタイガーのお面をつけた人
撮影=永井浩

「そんなややこしい話ではない。目立とうと思ったわけではないよ。1972年にタイガーのマスクを見て、ビビッと感じただけよ。虎に生まれ変わろうとね」と原田さんは言い張るが、私のような凡人には少しややこしく考えないと、原田さんの人生行路は理解できないのである。

■最初はバカ、マヌケと罵られ、コーラ瓶で殴られたことも……

会社員ならば人と違うことをしながら仕事をすれば、社内で摩擦を起こすものだが、原田さんの場合も「最初はバカ、マヌケと罵られた」。72年当時に働いていた販売店の店主や75年から働いた販売店の店主である家光茂さんには「本当にお世話になった」という原田さん。

今働いている新聞販売店の代表は家光さんの娘である家光淳子さんである。

「寝坊なんてしないし、仕事はちゃんとやってきた。でも最初は家光会長も戸惑っただろうが、こっちはラブ・アンド・ピースだからね。お客さんのところに集金に行っても喜ばれるし、新宿タイガーはテレビや雑誌でも取り上げられたから、しばらくしたら許してくれた」

ピンクアフロのカツラにタイガーのお面をつけた人が新聞を持っている
撮影=永井浩

おそらく新聞販売店にとって原田さんはちゃんと仕事をこなすうえ、広告塔にもなってくれる貴重な存在だった。しだいに朝日新聞社のイベントにも呼ばれるようになる。

新聞業界にはかつて新聞休刊日に職場ごとに旅行や懇親会を催す慣習があった。「政治部の東京湾でのパーティに招待されてね。新宿タイガーは大したもんだったよ。ワッハッハ」。

もちろんいいことばかりではない。朝刊の配達時には、徹夜で飲み明かした酔っ払いに出くわす。コーラの瓶で頭を殴られたこともあった。

「暴力は嫌いだから、こちらは手を出さないよ。ひたすら我慢だね。相手の私に対する嫌悪感を私の心のうちに秘めて、パワーにしていったんだ」

■スマホはまるで「美女図鑑」

上京した1966年から数えれば54年間、新聞配達をしているが、「つらい」と思ったことはないという。お酒を飲んでいても早朝3時半に起きられるようにさっと引き上げる。

「頭は機械ではないのでたまには遅くまで起きて、一睡もせず新聞を配ることもあるよ」と笑う原田さん。それもまた楽しいらしい。  

ピンクアフロのカツラにタイガーのお面をつけて自転車に乗る人
撮影=永井浩

50歳を過ぎたころ、朝刊を配達しているときに左足の太腿が悲鳴を上げた。神経と筋肉が同時に断裂するという大けがをした。

「その日は足を引きずりながら夕刊を配ったが、近くの国立国際医療研究センターに運び込まれ、2カ月間の入院よ。ずっとリハビリ。大変だったのはそれぐらいだ」

原田さんのスマホには女性たちの写真が大量に入っている。夕刊を配り終え、映画を見た後、飲みに行き、店で会ったママや女優、女性客らの写真である。何枚かを拝見したが、ずいぶん若くて綺麗な人ばかりであった。

女性ばかりではない。劇作家の三谷幸喜や俳優の西田敏行らが駆け出しのころ、彼らと新宿で出会ったことも原田さんの自慢である。

最近会った女優の長澤まさみのファンとなり、自らを「長澤まさみ党」と今は名乗っている。「シネマと美女と夢とロマン」が口癖だけのことはある。

■「足腰が動かなくなるまで働く」

ずっと独身で今も販売店の4階の部屋に一人で住む。販売店の定年は65歳だったが、定年を延長してもらい、72歳まで社員として働いた。

この3月からは嘱託社員となった。それを機に新聞配達は卒業し、集金業務だけを続けることになった。

給料はどれぐらいだったのかと尋ねたが、「お金よりも夢」と笑うのみ。業界の平均的な年収は正社員ならば300万~400万円の水準だというから、ぜいたくはできないが夢は追いかけられたわけだ。

「僕には引退という言葉はないよ。足腰が動かなくなるまで働くよ」と原田さん。

朝日新聞のステーション前でピンクアフロのカツラにタイガーのお面をつけた人
撮影=永井浩

若いころの夢をあきらめ会社勤めをする人がいる。会社に入って、少しでも出世したいという儚い夢を抱く人もいる。多くの勤め人はそのいずれかか、せいぜい夢を趣味にして楽しむぐらいが関の山である。それに比べて原田さんの人生は、夢のために仕事をし、仕事をしながら夢にまで見た人たちと出会う人生である。これもまた一つの理想の生き方かもしれない。

連載ルポ「最年長社員」、第1シリーズは全5回です。5月1日から5日まで、5日連続で更新します。第2シリーズは6月に展開予定です。

----------

安井 孝之(やすい・たかゆき)
Gemba Lab代表、経済ジャーナリスト
1957年生まれ。早稲田大学理工学部卒業、東京工業大学大学院修了。日経ビジネス記者を経て88年朝日新聞社に入社。東京経済部次長を経て、2005年編集委員。17年Gemba Lab株式会社を設立。東洋大学非常勤講師。著書に『これからの優良企業』(PHP研究所)などがある。

----------

(Gemba Lab代表、経済ジャーナリスト 安井 孝之)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください