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「KFC創業者は65歳で起業した」遅咲き経営者4人の成功法則

プレジデントオンライン / 2020年9月15日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/davidhills

何度も挫折を繰り返して金も地位も失い、気がつけば人生のピークを過ぎたと言われそうな年齢に。だが、そこで諦めるかどうかで、人生は大きく変わる。「遅咲き経営者」として大成功を収めたケンタッキー・フライド・チキン、日清食品、フォード・モーター、ウォルマートの創業者に共通する成功法則とは――。

※本稿は、桑原晃弥『乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■車の流れが変わってレストランが潰れた

すでに自分の時代は終わってしまったのか。(中略)しかし、まだ自分にできることが残っているのではないか。(中略)どんな状況に置かれようと自分からあきらめることはしない。
(藤本隆一『カーネル・サンダース』文芸社文庫)

今でこそ60歳を過ぎても働く人は大勢いますが、今から70年近く前の1950年代に60歳を過ぎて人生の再出発をするのは決して容易なことではありませんでした。

ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者カーネル・サンダース(本名ハーランド・デーヴィッド・サンダース)も、もし自らが経営する国道沿いのレストラン「サンダース・カフェ」から離れた場所に高速道路さえできなかったら、60歳を過ぎてKFCを創業しようなどと考えることはありませんでした。

1930年にオープンしたサンダース・カフェは142席の人気レストランでしたが、高速道路ができて車が国道を通らなくなるとひとたまりもありませんでした。売り上げは大幅に減り、最終的には売却するほかはありませんでした。税金と未払い金を払うと、サンダースの手元にはほとんどお金が残りませんでした。

■「なにか自分にできることを見つけよう」

65歳ですべてを失ったサンダースは年金をもらいながら余生を送ることも考えますが、もらえるのは月に105ドルだけです。40もの仕事を経験し、挫折を味わったサンダースは「何か自分にできることを見つけて生涯働き続ける」と決意します。

見つけたのはレストランで最も人気のあった「フライドチキン」のつくり方(7つの島からとれた11種類のハーブとスパイスを使い、圧力鍋でつくる)を他のレストランに売るというビジネスモデルです。

■挑戦すると決めれば年齢は関係ない

最初に契約してくれたのは知り合いのピート・ハーマンですが、以後は各地のレストランに飛び込んではフライドチキンの素晴らしさを紹介するほかありませんでした。寝るのは車の中、食べるのは試作品のフライドチキンだけという生活でしたが、こうして1000軒を超えるレストランを訪ね歩いた結果、レストラン売却から5年後の1960年にはアメリカとカナダで400店ものフランチャイズ網を築き上げることができたのです。

自分のフライドチキンへの絶対の信頼と、60代も半ばで不可抗力により店を失ってもそこで自分の物語にピリオドを打たず、「自分にできることを生涯やり続ける」という決意こそが、世界中にKFCを広げる原動力となったのです。挑戦すると決めた人に、年齢は関係ありません。

■自宅以外の全財産を失った安藤百福

私は過ぎたことをいつまでも悔やまない。「失ったのは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身についた」。ある日そう考えると、また新たな勇気がわいてきた。
(安藤百福『魔法のラーメン発明物語』日本経済新聞社)

チキンラーメンやカップヌードルを開発した安藤百福さんもまた、遅咲きの成功者です。1910年生まれの安藤さんは義務教育を終えるとすぐに呉服屋を営む祖父の手伝いを始め、22歳で独立して台湾に「東洋莫大小(メリヤス)(メリヤス)」という会社を設立、大成功を収めています。終戦後は製塩業なども手がけました。

しかし、連合国軍総司令部(GHQ)に脱税の疑いをかけられたことで2年もの間、東京拘置所に収監されるという苦難を味わっています。手がけていた事業のすべてを整理しますが、そんな安藤さんのところに来たのが、新しくできる信用組合の理事長になってほしいという依頼でした。

金融業務は安藤さんにとっては未知の分野です。本来なら断るべきところを、「名前だけでも」といわれて理事長に就任しましたが、しばらくして破綻してしまい、安藤さんは自宅以外すべての財産を失うことになったのです。

■自宅庭の小さな小屋で試行錯誤を繰り返す

不慣れなことに安易に手を出せば、失敗しがちです。あとには「身を焦がすような後悔だけ」が残りますが、それまで幾度もの難局を乗り越えてきた安藤さんは「失ったのは財産だけ」と開き直り、戦後、闇市で大勢の人がラーメンを食べるために行列をつくっている姿を思い出し、ラーメンの開発に乗り出しました。

当時の安藤さんにはお金もなければ部下もいません。食品開発の経験もありませんでしたが、自宅の庭につくった小さな小屋に朝は5時から、夜は1時、2時までこもってひたすらに試行錯誤を繰り返しました。

失敗を繰り返しながらも、少しずつ前進している、という実感だけが支えでした。1年後、日本初の即席めん「チキンラーメン」の開発に成功、日清食品を創業します。48歳の時でした。苦労は報われて日本で爆発的にヒットしました。その後、安藤さんは60歳を過ぎてカップラーメンも開発します。

自らの判断で全財産を失ったことを契機に、世界の食文化に革命を起こした安藤さんですが、挑戦の道のりにおける本人の前進の実感は「少しずつ」でした。懸命に、夢中で取り組んでいる最中は、その道がどれほど大きな成果につながっているか、案外わからないものなのかもしれません。そう考えると、勇気がわきませんか?

■40歳からが本番だったヘンリー・フォード

この道に入り、フォード工場を発展させはじめたときは40歳になっていた。しかし、それまでは自分はずっと準備されていたのだ。
(ロバート・レイシー著、小菅正夫訳『フォード』〈上〉新潮文庫)

自動車産業の歴史の中で最大の功績者の1人が、フォード・モーターを創業したヘンリー・フォードです。フォードは大量生産方式を確立し、鉄鋼や繊維、ガラス、ゴムなどの素材一つひとつに至るまで、源流にさかのぼって最善を追求しています。

しかし、それを上回る功績は、自動車を買う顧客を育てたことです。フォード以前、自動車は高価であり、ほんの一握りのお金持ちしか乗ることはできませんでした。フォードは「大衆のための車」を主張、大量生産によって価格を段階的に引き下げただけでなく、工場で働く労働者の賃金も引き上げることで、大勢のアメリカ人が車を買える環境を整えたのです。もしフォードがいなければ、自動車が一般市民のものになる日はもっと遅かったのではといわれるほど、その功績は大きなものがあります。

1863年ミシガン州生まれのフォードは16歳でデトロイトで働き始め、機械工場などを経て1891年にトーマス・エジソンが経営するエジソン照明会社にエンジニアとして入ります。ドイツのカール・ベンツがオート三輪を開発したのはその数年前のことです。自動車に魅せられたフォードも仕事の傍ら自動車の製作に取り組むようになり、1896年にペダル式4輪車を完成させ、エジソンからも「ぜひその研究を続けたまえ」と励まされています。

■2度も事業に失敗しながら折れない心

その後、出資者を得てデトロイト自動車会社、ヘンリー・フォード・カンパニーを相次いで創業しますが、いずれも失敗します。理由はいろいろな説がありますが、一ついえるのは量産が難しかったことです。当時のフォードにはその準備ができていませんでした。

二つの会社を破綻させれば、たいていの人は次の挑戦を怖がるものですが、フォードの信条は「どんな経験もする価値がある」です。その信条通り、2度の挫折を経て1903年に設立した3度目の会社フォード・モーターではT型フォードの量産に成功、アメリカにモータリゼーションを起こしました。

手痛い失敗も含め、歩んだキャリアのすべてが成功への準備となるというのは、フォードの人生にもよく表れています。フォードのように、きつい時間を準備期間だととらえることができれば、逆境を乗り越える大きな力となるでしょう。

■5年育てた店を乗っ取られ、町を追われ

この時期は、私の実業家人生で最悪の時だった。(中略)すべてやるべきことはやったのに、町から追い出されるのだ。(中略)私はいつも、トラブルとは自分に突きつけられた挑戦状だと考えており、この時もそう考えた。
(サム・ウォルトン著、渥美俊一、桜井多恵子監訳『私のウォルマート商法』講談社+α文庫)

「世界一のお金持ち」といえばかつてはビル・ゲイツで、今はジェフ・ベゾスの名前が挙がりますが、「世界一のお金持ち一家」といえば、世界最大の小売業ウォルマートを創業したサム・ウォルトンの一族となるようです。

1918年に生まれたウォルトンが小売業の世界に入ったのは兵役を終えた1945年のことでした。義理の父親から借りた2万ドルと、妻と2人でためた5000ドルでアーカンソー州ニューポートのバラエティ・ストア、ベン・フランクリンを買い取り、生来の勤勉さと社交性を生かして店を繁盛させています。

最初はごく小さな店でしたが、5年後には年商25万ドル、純利益3万~4万ドルの店にしただけでなく、近隣6州のベン・フランクリンの中でトップ、バラエティ・ストアとしてはアーカンソー州1位の規模に成長させたのです。

ところが、その成功を横取りしようとしたのが店の地主です。ウォルトンが結んだ店の借地契約には契約更新の権利が含まれておらず、地主は契約更新を拒否したのです。狙いは繁盛する店を自分たちのものにすることでした。

5年間の苦労が水の泡となったウォルトンは「まさか自分がこんな目に遭うとは」と不運を嘆きますが、黙って町を出ていくほかはありませんでした。

■人口3000人の田舎町から再起に成功

しかし、いつまでもくよくよしているわけにはいきません。ウォルトンはアーカンソー州ベントンビルという人口3000人の田舎町に移り、再起をかけることになります。

失意のどん底を味わった起業家は、再起のためには倍のエネルギーを注ぐといわれますが、ウォルトンは最新のシステムであるセルフサービス方式を導入した新しい店をオープンし、これまで以上の成功を収めます。

ウォルトンは「ぜいたくにとらわれると、最も大事なこと、つまりお客さまに仕えることに集中できなくなる」といい続けることでウォルマートを成功に導き、亡くなった92年には売り上げ500億ドルを超える規模へと成長させたのです。

■遅咲き経営者の成功法則

ここまでお読みくださった方にはもうおわかりでしょうが、遅咲きにして世界に名を刻むような成功を収めた人というのは、とにかく前進をやめません。本稿で紹介した4名はみんな「ワケあり」で、大事な店をなくしたり、財産をなくしたり、2回も会社を潰したりしていますが、4人とも「だからやめた」という選択をしませんでした。年齢も、彼らを思いとどまらせる条件にはなりませんでした。

桑原晃弥『乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)
桑原晃弥『乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)

ケンタッキー・フライド・チキンも日清カップヌードルも、今も世界中で愛され、フォードの車は今も走り、ウォルマートはアマゾンとしのぎを削っています。その創業者ともなると、「偉大すぎて参考にならない」と思う人もいるかもしれませんが、ご覧いただいたように、誰もが最初から偉大だったわけではありません。思いがけず訪れた難局を乗り越える過程で、偉大な人物へ成長したというのが本当のところです。

人が成長するうえで勝利や成功は大きな自信となりますが、本当の意味で人を成長させてくれるのは、敗北や失敗であり苦難なのです。

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桑原 晃弥(くわばら・てるや)
経済・経営ジャーナリスト
1956年、広島県生まれ。慶應義塾大学卒。業界紙記者などを経てフリージャーナリストとして独立。著書に『世界最強の現場力を学ぶ トヨタのPDCA』(ビジネス教育出版社)『イーロン・マスクの言葉』(きずな出版)、『スティーブ・ジョブズ名語録』(PHP文庫)、『1分間バフェット』(SBクリエイティブ)、『伝説の7大投資家』(角川新書)など。

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(経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥)

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