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「ずっと働き続ける人生は苦しいのか」79歳のパート女性が出した答え

プレジデントオンライン / 2020年10月19日 9時15分

撮影=小野さやか

あなたの職場の「最年長社員」はどんな人だろうか。シダックスフードサービスの最年長パート社員である塩原りつ子さん(79)は、千葉県の一条会病院で調理補助をしている。多くの人がリタイアする年齢にもかかわらず、塩原さんが働き続けるのはなぜか。連載ルポ「最年長社員」、第11回は「病院給食調理補助」——。

※記事内の画像ではマスクを外していますが、通常はマスク着用の上、業務を行っています。

■コロナ禍で「エッセンシャルワーカー」になった

コロナウイルスの蔓延で、エッセンシャルワーカーという言葉がにわかに注目されるようになった。医療、介護、保育、小売り、物流、交通など、日常生活の維持に欠かせない仕事に従事する人々を指す言葉だという。

千葉県市川市にある一条会病院の厨房で調理補助業務に従事する塩原りつ子も、文字通りエッセンシャルワーカーの一員ということになるが、本人の言葉からは、さほどの悲壮感は伝ってこない。

「みなさん、とても気を遣って仕事をされています。私も病院からの指示をしっかりと守っているので、コロナにはかかりませんよ(笑)」

御年79歳。一条会病院の厨房業務を請け負っているシダックスには多くのパート社員がいるが、塩原はすべてのパート社員の中で、文句なしの最年長者である。

ちなみに、シダックスと言えばカラオケを思い浮かべる人が多いと思うが、1959年の創業時は、富士食品工業として富士フイルムの社員食堂の運営を請け負っていた。社員食堂や病院・介護施設などの食堂の運営は、シダックスにとって祖業と言っていい。

■「食事はまず、目で食べるもの」

塩原の勤務は現在、週に4日。入院患者がいる一条会病院では日に3度食事を提供する必要があり、塩原が担当するのは15時~20時の遅番。夕食の提供と後片づけが彼女の仕事だ。

「出勤すると、まず乾燥庫に収めてある食器類を取り出して振り分けます。温かいおかずと冷たいおかずがあるのでそれぞれを盛り付けた後、大皿といってメインディッシュの盛り付けをするんです」

盛り付けるのは約50食。疾病によってはメニューに制限があるから、間違いが起きないよう、栄養士と一緒に患者名と食事の内容を照合しながら配膳車に収めていく。

「糖尿さん、高血さん、膵臓さん、それにアレルギーの方もいますね。食事はまず、目で食べるものでしょう。だから私は、綺麗に盛り付けることを大切にしているんです。少しでも食べてほしいですからね」

18時からの夕食に間に合うよう、病室の前まで配膳車を押していく。19時になったら下膳。今度は配膳車を引き取りに行き、食器を洗浄し、乾燥庫に収め、厨房を清掃して1日の仕事が終わる。

■日曜日以外の週6日は、筋トレに行く

遅番のパートナーは、20代の栄養士の女性だ。調理自体は調理師がやるが、配膳と片づけの要員は塩原とこの栄養士のふたりしかいない。

「配膳車を押すのは体力がいりますよ。体力がないと綺麗な仕事はできませんね」

79歳といえば、世の中の基準では後期高齢者に括られる年齢だ。孫ほども年の離れた“相棒”と互角に仕事ができるのだろうか。

「厨房の仕事は動き回りますけど、若い人に迷惑をかけたくないから、もう一所懸命ですよ。どこか体が痛かったら動けなくて悲しいと思いますが、私は痛いところがひとつもない。だから、20代の人と一緒に動けるんです。ああしろこうしろなしに、あうんの呼吸でパッパと動けることが楽しくて、年齢なんて忘れちゃいます」

なんと塩原は日曜日以外の週6日、女性専門のフィットネスクラブ、カーブスに通って筋トレをやっているという。身長158センチのスリムな体型。カーブスにはすでに6年間通っている。

「カーブスでは褒められっぱなしです(笑)。同級生はもうみんなリタイアしちゃって、仕事をしているのは私ひとりですよ」

塩原が手を使い、体を使って働き続ける理由は、いったいどこにあるのだろうか。

塩原りつ子さん
撮影=小野さやか

※衛生上の観点から配膳車に食器を詰める作業は撮影できなかったが、作業の様子を再現してもらった。

■家業のブレーキ工場を手伝うため、大学進学を断念

1941年、塩原は千葉県の茂原市で生まれている。下に5人の弟妹がいる。一応、戦前生まれということになるが、防空壕に入ったことを覚えている程度で、身内に戦争の犠牲者はいなかった。高校を出ると文化服装学院に入り、卒業後は家業の手伝いに専念した。

「両親が自動車のブレーキを作る工場を経営していたんです。よく売れたから忙しかったですよ。社員が10人ぐらいいて、お昼ご飯の賄いもやっていました」

弟妹の中には大学に進学する者もいたが、塩原は親の仕事を手伝うために大学への進学は断念した。

「だから、自分の子供たちは大学に行かせて、教育関係の仕事に就かせたかったんです」

塩原の願い通り、3人の子供は全員大学に進学し、全員が教員になった。

結婚相手は、ブレーキの部品を仕入れに来ていた若者だった。両親が見初めて、塩原に結婚を勧めた。

「夫は通信機器なんかの部品を作る会社に勤めていて、75歳まで工場長をやっていました。5年前に亡くなりましたけれど、一所懸命に働く人でね、たくさん遺してくれたんですよ。だからもう、感謝しかないですね。いまでも週に3回はお墓参りしていますから」

■79歳になっても、手を動かして働き続ける理由

塩原の人生に大きな転機が訪れたのは1983年、夫の会社が携帯電話の部品の製作に乗り出した時である。大手の通信機器メーカーに納品する部品の製作をどうしても手伝ってほしいと、夫から頼み込まれた。それから約9年、塩原は自宅の一部を改装して作業場に作りかえ、友人15人を集めて夫の会社の仕事を請け負った。

「試作品がOKになると、部品の貼り付け作業が発生するんです。ちょうど内職仕事が少なくなった時代だったから、みなさん喜んでくれたんですよ」

部品が仕上がると梱包して、大手メーカー宛てに毎日発送する。その一切を塩原が取り仕切った。

「忙しかったですけれど、歩合制だったので、みなさん夢中で仕事をしてくれました」

実家のブレーキ工場の仕事と、この部品づくりの仕事。働き手の人数も似ているし、やたらと忙しかったという点でも似ている。仕事内容は正確にはわからないが、おそらく手を使い、体を使い、理屈ではなくあうんの呼吸で進んでいく仕事だったのではないか。

塩原りつ子さん
撮影=小野さやか

塩原は、一条会病院の厨房で若い人に伍して体を動かしながら働くことが楽しくて仕方ないと言うのだが、その感覚は、こうした過去の体験によって培われたものかもしれない。もしも、人間が何を「快」と感じるかが若い頃の体験によって規定されるものだとしたら、塩原が79歳という高齢になっても働き続ける理由は――経済的な理由でない以上――手を使い、体を使って忙しく立ち働くことが、彼女に「快」をもたらすものだからではないだろうか。

働き者の塩原は、働き者の両親の下に生まれ、働き者の夫と結婚し、夫亡き後も働き者である。

「3人の子供がみんな『よく働く親だ』って言ってくれて、いまは何でも子供たちがやってくれるんです。私はひとことで言って幸せ。幸せより他にないですね」

■仕事中にカッとなったことは、一度もない

夫の会社の仕事を請け負っていた時代、塩原が「胸を張って言える」ことがひとつあった。それは、15人のメンバーとの間でいざこざが一切起きなかったことだ。塩原はこれまでも、いま現在も、仕事仲間と言い争いをしたことが一度もないという。ついでに言えば、夫との関係もしごく円満だった。何か秘訣があるのだろうか。

「余計なことを言わずに、聞き役に回ってあげることですね。旦那さんのことでも何でも、私は聞いてあげるんです。ひとこと言ったためにモメるんじゃ嫌でしょう」

もちろん塩原とて、他の人の仕事のやり方が気になることもあるし、夫に対しても言いたいことがなかったわけではない。

「喧嘩になりそうだなと思ったら、自分の方が少し黙って(相手の怒りが)通り過ぎるのを待つんです。言いたいことは収まってから言う。こちらが静かに言えば、相手だって静かに返してきますからね。大切なのは、感情的にならないことですよ。私、仕事の上でカッとなったことって一度もないんですよ」

■「こういう親にはなりたくない」と思いながら育った

そういう姿勢をどうやって身に着けたのかと尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「実は、私の母親は気性が激しくてね、7人兄弟の末っ子だったこともあって、ずいぶんわがままな人だったんです。私はこういう親にはなりたくないって、ずっと思ってきたんですよ」

シダックスのパート社員に年齢制限はなく、塩原は「仕事をいつまで続けるかはマネージャーさん次第」だと言う。塩原にとって、いったい仕事とは何だろうか。

「仕事は、自分を人間的に成長させてくれるものですね。感情的にならずに、人の話も聞いてあげて、いつもスムーズに仕事を進められるようになって……。なかなかいいんじゃないかなと思っているんです」

傘寿を目前にした女性から「成長」という言葉を聞くとは思わなかったが、塩原の中には、自身が人格的な完成に近づいているという実感があるのかもしれない。

唯一の趣味は月に何度かデパートに出かけて行って思い切り買い物をし、食べたいものを食べることだ。

「筋トレをしているから、どんなお洋服でもよく似合うんですよ」

服も食事も高級なものを選ぶが、子や孫に、買った物を押し付けることはしないという。

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』 (朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』(朝日新聞出版)などがある。

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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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