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当時としても"ちょいダサ"近藤真彦『スニーカーぶる~す』はなぜ売れた

プレジデントオンライン / 2020年12月17日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Olga Niekrasova

■いしだあゆみと和洋折衷の風

生涯で約3000もの曲を手掛けた作曲家・筒美京平は、音作りに徹した、いわばヒット曲職人です。とにかく売ることにひたすら主眼をおき、時代ごとの音楽潮流に前歯でバクバク噛みつき、奥歯で噛みしめ咀嚼して、日本人向けに加工する作業をやり続けました。

1960年代から始まる作曲人生の中で、『魅せられて』(ジュディ・オング)や『また逢う日まで』(尾崎紀世彦)などの歌謡曲から、アニメ『サザエさん』のテーマ曲や、auのCMソング『恋のダウンロード』(仲間由紀恵 with ダウンローズ)まで、「この曲も筒美京平なの?」と驚いてしまうような馴染みのある曲を多数作曲しています。

作曲家として初のオリコン1位を取った曲は、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)。リアルタイムでビートルズが活躍していた時代です。

横浜を題材にした曲ですが、当時の横浜は、それはもうオシャレの最先端。東京よりも横浜がイケてる時代で、活気あふれる伊勢佐木町があり、米軍住宅もあるなど、日本中が憧れるハイカラな街でした。同じ年に青江三奈の『伊勢佐木町ブルース』(作曲は鈴木庸一)も流行しましたね。

そんな横浜のオシャレな雰囲気を表現する『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、8ビートのロックなリズムに、金管楽器を使用したジャズ要素を加味。伴奏の雰囲気は洋楽です。ハイカラな演奏をバックに、いしだあゆみの歌が艶っぽい。「まちのあかりがン、とてもきれいねン」と日本の小唄みたいに歌っています。ズバリ、この曲のコンセプトは和と洋のコラボ。和洋折衷なんです。海外のいいところと日本のいいところを、いかに上手に結びつけるか。日本人相手に商売をする、筒美京平のビジネスマン的な本質が表れています。

このころの日本は高度経済成長期。キラキラした希望だらけの時代です。日本企業や商品がどんどん世界に進出して、日本の精密な技術力が海外にアダプテーションしていく。そういった“ジャパン・アズ・ナンバーワン”のBGMとしても、ビジネス的な示唆に富む曲です。

■岩崎宏美・郷ひろみにディスコ音楽を

和と洋のコラボなど、筒美京平は異種混合、ミックスする力に長けた人でした。1つの例として、岩崎宏美の『ロマンス』(75年)が挙げられます。自身が手掛けた曲の中でも、売り上げランキング第5位という大ヒット作。作詞は阿久悠です。

この曲で、筒美京平の類いまれなミックス力がいかんなく発揮されています。抜群に歌が上手い新人の岩崎宏美に、歌唱力がものをいうバラードではなく、ディスコミュージックを与えました。それがこの『ロマンス』。ディスコミュージックは、日本では78年にヒットした映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に使われていたような音楽で、バスドラムの四つ打ち、ドンドンドンドンというシンプルなリズムに乗せた曲調です。

このディスコと歌唱力に長けた少女とのマリアージュは、見事に大ヒットしました。ディスコなんて歌唱力はいらないのでは、と思われがちなジャンルですから、非常に面白い組み合わせですよね。

ここから学ぶことは、ビジネスにおける異種混合、イノベーションの大切さ。新しいアイデアは、既存のものとの組み合わせで生まれるとよく言われますが、何をどう組み合わせるかセンスが問われます。ものによっては、大ブレークを起こすポテンシャルを持っているのです。

同じく70年代でもう一曲。少々マニアックですが、郷ひろみ『恋の弱味』(76年)は隠れた名曲です。私に言わせれば、筒美京平の中でナンバーワンの曲で、読者の方にもぜひ聴いてほしい。

ディスコ調であるこの曲は、かわいらしいイメージのデビュー曲『男の子女の子』(72年)とは対照的に、郷ひろみ本来の男としてのカッコよさを本気で引き出した曲です。今では少しカッコ悪い概念にさえなってしまった「二枚目」とか「ハンサム」を、筒美京平は本気を出して表現しました。本来のカッコよさがちゃんと具現化され、「やるときは、やるぜ!」という作曲職人としての気概を感じます。

70年代を顧みると、男の「キザ」という概念がまだ残っていました。沢田研二の『カサブランカ・ダンディ』(79年・作曲は大野克夫)で、男がキザな時代を回顧しながらも、そういう時代が終わることを阿久悠が歌詞に書いています。『恋の弱味』はキザでカッコイイ男を表現した最高峰の名曲と言えます。

■近藤真彦はちょいダサで大成功

70年代は、和洋折衷をコンセプトに、最新洋楽の方法論をお茶の間に持ち込んだ筒美京平。オシャレでハイカラとかというイメージから、80年代以降は筒美京平が業界標準になっていきます。

筒美京平が名実ともに音楽シーンのど真ん中に君臨させたのが、近藤真彦のデビュー曲『スニーカーぶる〜す』(80年)。作詞は松本隆で、この筒美・松本ペアは『木綿のハンカチーフ』(75年・太田裕美)でもタッグを組みました。文学的でアーティスティックな曲を作っていた2人が『スニーカーぶる〜す』を作った。差別化を狙ったのではなく、マーケットのど真ん中を行くベタな曲です。これで筒美京平自身も名実ともに音楽シーンの中心に君臨しました。

16歳で歌手デビューしたマッチは、当時からしてもやや古めかしいイメージのアイドルでした。まるで昭和30年代日活映画の石原裕次郎の世界観を持ったアイドルが、80年代に蘇ってきたように。都会的でソフィスティケートされた田原俊彦に対して、古風でトラディショナルな日本男児のマッチ。彼の曲は、歌詞も含めて確信犯的にちょっとダサい世界観をつくっているはずです。

ここから70年代後半は不遇だったジャニーズの黄金時代がスタートします。同時に、筒美京平黄金時代も始まります。マッチだけでなく、田原俊彦『抱きしめてTONIGHT』(88年)、少年隊『仮面舞踏会』(85年)など、多数のジャニーズソングを作っていきます。

■キョンキョンの名曲は秋元康が作詞

80年代の音楽界には、若き才能あふれる秋元康という人物が登場しました。筒美京平は秋元康とコンビを組んで、ヒット曲を誕生させていきます。このコンビ一番の名曲は小泉今日子『夜明けのMEW』(86年)でしょう。切ないメロディに乗せられる歌詞がとにかく素晴らしい。秋元康の作品の中では、私はこれが一番好きですね。

筒美京平は、新しい才能が出てきても臆することなく、その才能を生かせる柔軟な音楽性を持ち合わせています。先に挙げた曲の作詞を見ていくと、『ブルー・ライト・ヨコハマ』は橋本淳、『ロマンス』は阿久悠、『スニーカーぶる〜す』は松本隆というベテランたち。この3人に続いて、80年代は秋元康という若者と手を組みました。

ビジネスシーンでは若い方がいろいろ出てきますが、筒美京平は新しい才能をどんどん歓迎していきます。10歳以上若い秋元康を歓迎するのは、ベテランとしてなかなかできることではありません。おニャン子クラブのプロデュースをするなど、秋元康はある意味、胡散臭さの象徴みたいな感じでしたが(笑)、でも、筒美京平にとっては、そんなの関係ない。彼は作曲職人。ヒット曲さえ作れればいいんです。

■ドン底の日本にオザケン・蘭々の声

90年代に入ると、筒美京平は第一線から退きます。しかしながら、当時流行していた「渋谷系」といわれる音楽ムーブメントから、「筒美京平がすごい」というリスペクトブームが起きます。

渋谷系サウンドの代表格である小沢健二と組んでヒットさせたのが『強い気持ち・強い愛』(95年)。これは小沢健二の声を気に入ったという筒美京平から、小沢健二に話を持ちかけたそうです。筒美京平はファニーボイスが好きで、郷ひろみや平山三紀や松本伊代など、個性的な声を持つさまざまな歌手と組んでいます。そして小沢健二もファニーボイスの持ち主。さらに筒美京平をリスペクトする歌手でもありました。こうして作詞小沢健二、作曲筒美京平がタッグを組んだヒット曲が生まれたのです。

この時代になると、すでに筒美京平は音楽シーンの最前線にはいません。しかし、曲のあちこちに筒美メロディと言いましょうか、70年代の筒美京平が持っていたハイカラなサウンドを、90年代に再現するリミックスが見られます。

95年という年は、バブルが崩壊直後の景気が冷え込んでいる時代。さらに阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起こったというどん底の時代です。日本中が暗い気持ちになっているときに、このポジティブなポップソングが街に鳴り響き、人気を博しました。小沢サウンドと筒美サウンドがうまく融合していると言えます。

小沢健二も、先ほどの秋元康と同じで、年代的には20歳以上離れています。そんな若手のミュージシャンに純粋に興味を持ち、筒美京平は自分からビジネスを持ちかけた。この好奇心は、ビジネスマンにとっては学ぶべきところがありますね。

さて同じく95年に発売された隠れた名曲があります。鈴木蘭々の『泣かないぞェ』です。彼女はテレビ番組『ポンキッキーズ』で共演していた安室奈美恵の陰に隠れてしまい、損した部分もあるのですが、非常に歌唱力があって得がたいシンガーでした。

曲調は、まさに70年代のソウルミュージックそのもの。もっと言えば70年代の筒美サウンドをそのまま再現しています。これも先に述べた、筒美京平リスペクトブームに乗ってのことです。最新の筒美京平ではなく、“あの頃の筒美京平”をリスペクトするスタッフの手が入っているはずです。筒美京平のように、昔とった杵柄を自信を持って現代に適応させていくこと。このあたりもビジネスマンとしても学びたい点です。

■長瀬智也のボーカルに込めた日本への思い

だんだんと音楽シーンでの存在感が薄まってきた筒美京平。作曲人生で、最後にヒットチャートの1位を取った曲は、TOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』(2003年)でした。作詞はなかにし礼ですが、これは筒美京平からのラストメッセージという感じがします。

あの青春がよみがえる!厳選・筒美京平ヒットソング

筒美京平が音楽業界の中心にいた時代は、日本の景気が良く、海外進出も積極的に行う“ジャパン・アズ・ナンバーワン”の時代でした。それからバブル崩壊を機に、日本の活力も、筒美の時代も、少しずつ衰退していきます。このころは“失われた20年”といわれる景気悪化に加え、01年にはアメリカで同時多発テロがあり、どんどんドツボにはまっていく時代でした。それでも「大志を抱け!」と、残された日本人を勇気づけてくれる強いメッセージ性を感じます。

この曲は東海道新幹線のCMソングとして、新幹線と共に力強く鳴り響きました。リリース日には東海道新幹線の品川駅が開業し、今でも新幹線(JR東海車両)の車内チャイムとして使用されています。「もう1度立ち上がれ」と、出張中のビジネスマンを奮い立たせてくれる曲です。

筒美京平の曲がヒットチャートの1位を獲得したのはこの曲が最後。TOKIOの長瀬智也のボーカルが素晴らしいんです。最後に良いシンガーと巡りあったなという感じがしますね。

時代を反映したヒット曲を作り続けた筒美京平は、日本の成長、成熟、そして衰退とともにありました。筒美京平の作曲人生は、日本の姿そのものです。多くの日本人の胸に青春のメロディを残し、その生涯を静かに閉じました。

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スージー鈴木(すーじーすずき)
音楽評論家
昭和歌謡から最新ヒット曲まで邦楽を中心に幅広い領域で、音楽性と時代性を考察。音楽にとどまらずテレビドラマ、映画や野球など数多くのコンテンツをカバーする。著書に『イントロの法則80’s』ほか。

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(音楽評論家 スージー鈴木 構成=東 香名子)

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