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「安くて便利」な買い物を続けると、あなたの存在も「安くて便利」に置き換わる

プレジデントオンライン / 2021年1月4日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Minerva Studio

仕事が楽しくないのは、なぜだろうか。独立研究者の山口周さんは「レストランを例に考えるとわかりやすい。シェフの最大の喜びはお客さんの笑顔だ。だが、多くの仕事は消費者の笑顔が見えなくなっている。『顔の見える関係』を取り戻さなければ、働く喜びも回復しない」という――。

※本稿は、山口周『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■効率のいい分業は、「労働の喜び」を毀損してしまう

金銭のことをファイナンス=Financeと言いますが、ここで用いている「ファイ=Fi」は「ファイナル=Final」の「ファイ=Fi」と同じ、ラテン語の「終わり」という意味です。お金を払うことで他者との関係性をチャラにして終わりにする、ということです。

価値を生み出す労働プロセスを細かく分けて分担すると個別作業の練度が高まって生産性が上昇します。いわゆる「分業」という概念をはじめて社会に紹介したのは、アダム・スミスの『国富論』です。

この本の冒頭において、スミスは、ピン工場の思考実験を用いて分業がいかに生産性を高めるかを説明しています。そして実際にはスミスの予見通り、この生産様式が普及したことで生産性は飛躍的に向上し、それが産業革命へと接続されていったわけですが、スミスは同時にまた、この生産様式の普及によって、労働から得られる喜びは著しく毀損されてしまうだろうということも、よくわかっていました。

スミスは同著のなかで、分業によって、自分の能力以下の仕事を果てしなくやらされることになった労働者は「愚かになり、無知になり、精神が麻痺してしまう。彼らは理性的な能力も、感情的な能力も失い、ついには肉体的な活力さえも腐らせてしまう」(『国富論』第五編第一章より)と書き残しています。

スミスの「感情的な能力を失う」という指摘はそのまま、前節において紹介したチクセントミハイの「ほとんどの人が自分の感情について無感覚になっている」という言葉を思い起こさせます。

■重要な課題は「労働の喜び」の回復

このような状態はまた、企業組織の競争力を毀損させる要因にもなっています。今日、多くの企業ではモチベーションがもっとも重要な経営資源になっていますが、物質的不足が解消し、これ以上、報酬を増加させても生活水準や幸福感はさして増進しないということが誰の目にも明らかになってしまっている以上、これは当たり前のことでしょう。

私たちが迎えつつある高原社会では、物質的不足よりもむしろ、精神的孤立あるいは精神的飢餓が大きな課題となっています。このような社会にあっては「生産者」と「消費者」の接触面積を拡大し、両者を「顔の見える関係」にすることで、「労働の喜び」を回復していくことが重要な課題となるでしょう。

もし、このような関係性を、社会の多くの場で回復することができれば、それはまた同時に「消費者にとっての喜び」をも増大させることになります。

■生産者と消費者の「顔の見える関係」づくりをする

どういうことでしょうか? 先述した通り、生産者と消費者が顔の見える関係にあれば、生産者は、自分の生み出したモノ・コトによって喜ぶ消費者を見て、喜びを感じます。しかし、それだけではありません。実はこの時同時に、喜ぶ生産者を見ることはまた、消費者にとっての喜びでもあるからです。そしてそのような関係性にある生産者と消費者を見ることは、枠外にいる他者にとってもまた喜びでしょう。喜びがエコーのように反射していくのです。

現在の分断社会において、このような関係性がもっともわかりやすく成立しているのがレストランと常連客の関係です。シェフにとって、自分の労働から得られる最大の喜びは、支払われる代金などではなく、テーブルで顧客が交わす「美味しい!」という声であり、花のように咲く笑顔でしょう。

そしてまた常連客にとっては「美味しい!」と伝えた時に見られるシェフが見せる喜びがまた、同時に自分にとっての消費の喜びとなっているのです。最終的にはもちろん、顧客は代金を支払ってその場の取引を閉じるわけですが、そこで支払われている代金は「等価交換によって関係をチャラにする」というよりは、むしろ「感謝のしるし」として、あるいはもっといえば多分に「贈与」のニュアンスを含んだものになります。

料理
写真=iStock.com/gilaxia
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gilaxia

■「等価交換」という言葉は矛盾している

哲学・思想の世界ではよく「贈与」と「交換」とを対になる概念として整理・考察します。これは言語ゲームとしてはなかなか刺激的で面白いのですが、先ほどの考察からもわかる通り、社会におけるやりとりを考えてみれば両者には連続的なグラデーションがあってそれほどきれいに分けられるものではありません。

そもそも「等価交換」という言葉からして概念が矛盾しています。取引に必ずなんらかのコストがかかる以上、「等価」であれば交換するインセンティブがないからです。「交換」は「交換されるモノ」に「価値の差分」がなければ発動しません。

主体者が獲得する「価値」は、モノによって得られる効用によって合理化されることもあれば、交換という「行為そのものから得られる喜び」という効用によって合理化されることもあります。そして、生産者にとっては、消費者から与えられる経済的報酬と精神的報酬が、次の生産に向けた資源となって、活動を駆動することになります。

■バリューチェーンからバリューサイクルへ

このようなシステムを、先述したバリューチェーンとの対比で表現すれば、それはバリューサイクルとなります。顧客である消費者が受け取る効用が、そのまま生産者にとっての次の生産の資源となる無限のサイクルです。

お金
写真=iStock.com/ma-no
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ma-no

これを図式化したのが図表1の右側にあるチャートです。先述したバリューチェーンが「購買・消費」の先に何もないデッドエンドであるのに対して、こちらは「購買・消費」がまた新たな「労働・生産」にエネルギーを与えるオープンエンドのシステムとなっていることがわかるでしょう。これをバリューチェーンに変わるものとしてバリューサイクルと名付けたいと思います。

バリューサイクルでは、もはや消費者は、これまでのそれとは異なり、単に「消費する人」ではあり得ません。彼らはいわば「労働者・生産者」に対して、労働・生産のための経済的・精神的エネルギーを提供する「資源=リソース」となるのです。

【図表1】価値創造システムの変革
画像=『ビジネスの未来』

■「消費」はアーティストとパトロンの関係に近づく

このような「生産者」と「消費者」の関係を、すでに19世紀において構想していたのが、先ほども取り上げたカール・マルクスでした。マルクスは、初期の草稿ノートに次のように記しています。

私の生産物を君が享受あるいは使用することのうちに、私は直接につぎのような喜びを持つであろう。すなわち、私の労働によって、ある人間的な欲求を満足させるとともに人間的な本質を対象化したと。

マルクス・エンゲルス『Marx Engels Gesamtausgabe(MEGA)』より

このような社会においては「消費」あるいは「購買」は、私たちが現在考えるようなネガティブなものではなく、言うなれば「贈与」や「応援」に近いものになるでしょう。その関係はちょうど、アーティストとパトロンの関係に喩えられるものに近くなります。

つまり、社会になんらかの価値を生み出そうとして活動する人々がいる一方で、片方に、その人々の活動を支援するために、彼らの生み出した価値に対してできるだけ「大きな」対価を、半ば贈与という感覚も伴いながら提供しようとする関係性です。

■自分が稼いだお金は、本当に自由に使っていいのか?

ここで浮かび上がってくるのが「責任ある消費」という概念です。どういうことでしょうか。

私たちが生きている資本主義の世界では、自分たちが労働を通じて獲得したお金を、どのようにして使おうが自由だということに、建前上はなっています。「自分が稼いだお金は自分が自由に使っていい」ということで、おそらく多くの人は「そりゃあそうだろう」と思うはずです。

しかし、ではあらためて伺ってみたいのですが、その「自由」はどのようにして認められているのでしょうか。これはなかなか一筋縄ではいかない問題で、これまで多くの哲学者がこの問いに対する答えを示そうとしていますが、率直にいってどれもうまくいっていません。

たとえば18世紀イギリスの啓蒙思想家、ジョン・ロックの考え方はシンプルに、誰でも自分の身体は自分の所有物だといえる、そして労働はその身体を通じて行われる、したがって労働の結果生み出された価値はその人のモノであり、その価値と交換することで得られたお金もその人のモノである、したがってそのお金は自由に使って構わない……とまあ、かなり端折りましたがそういうロジックで、これはマルクスも同じです。いわゆる「労働価値説」という考え方ですね。一読して「何か変だぞ?」と思う人がほとんどでしょう。

■「自分でつくり出したモノは自分のモノ」という誤解

このロジックのどこに問題があるか。違和感の起点は、最初の命題、つまり「自分の身体は自分の所有物だ」という一文にあります。というのも、ロックは「自分で作り出したモノは自分のモノだ」という命題を証明しようとしているわけですが、その起点である「自分の身体は自分のモノ」という命題は何によっても支えられていない、宙ぶらりんの命題になってしまっているのです。

「自分でつくり出したモノは自分のモノ」であるなら、では「自分の身体」は自分がつくったのか? もちろん違いますね。自分の身体は、生物学的には両親から贈与されたものですし、遺伝子レベルで過去に遡及していけば単細胞生物から延々と続く無限の縁から贈与されているわけで、要するに「宇宙から与えられた」としか言いようがないものです。本来は贈与された身体を「自分のモノ」とすり替えて論理を積み上げているのでおかしなことになってしまっているわけです。

木
写真=iStock.com/lewisking
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lewisking

私たちの存在は「死者」と「自然」から贈与されています。贈与されたモノは贈与し返さないといけません。私たちもまたいずれ「死者」あるいは「自然」として未来に生きる私たちの子孫に対して贈与する義務を負っているからです。つまり、私のいう「責任消費」というのは、贈与された私たちの存在を未来の子孫に対して贈与し返しましょう、ということなのです。しかし、多くの人々は、私たちが「贈与された」ということを忘れてしまいがちです。

■「消費・購買」から「贈与・応援」へ

この「祖先から贈与された感覚」を失ってしまった人のことを、20世紀前半に活躍したスペインの哲学者、オルテガは「慢心した坊ちゃん=大衆」と名づけました。

オルテガによれば「大衆」には二つの心理的特性があります。それは「生活の便宜への無制限な欲求」と「生活の便宜を可能にした過去の努力、他者の努力への忘恩」です。つまり、大衆とは「被贈与」の感覚、「思いがけず贈与されてしまった」ことへの後ろめたさを感じなくなってしまった人たちのことなのです。

一方で、今日の日本に目を転ずれば、さまざまに享受している社会や他者からの貢献を「当然の権利」のように平然と受け取っておきながら、いざ不足や不服を感じるとすぐに激昂して声を荒げる大人が後を立ちません。このような人たちは、自分が過去・現在・未来に生きる人々との関係性のなかにしか自分の生があり得ないのだということを忘れてしまっているのです。無限の成長を求める高度圧力社会が生み出した鬼っ子というしかありません。

これからやってくる高原社会では労働と創造が一体化していくことになります。そのような社会においてはまた同時に、これまでの「消費」や「購買」は、より「贈与」や「応援」に近い活動になっていくことでしょう。そのような社会にあって「被贈与の感覚」を守り、育んでいくことは非常に重要です。

■「応援したい相手」にお金を払おう

しかし、このような指摘に対して「贈与が大事だということはわかったけれども、では具体的にどのようにすれば良いのか?」と思う人もいるかもしれません。なに、難しく考える必要はありません。大事なことは一点だけ、それはできるだけ「応援したい相手にお金を払う」ということを心がけるということです。

いま、私たちの社会には素晴らしい文化や工芸がたくさん残っていますね。しかし、こういった素晴らしい遺産は、ただ放っておいたら自然と残った、というわけではありません。実態はむしろ真逆というべきで、こういった文化遺産は、「これを後世に残していかなければいけない」という意思をもった先人たちによる継続的な支援と努力があってはじめて、いまの私たちにも豊かさを与えてくれているのです。

これは以前、銅や錻力の茶筒で有名な開化堂の六代目当主である八木隆裕さんから伺った話なのですが、高度経済成長期の時期にあらゆるものが機械化され、「手作りなんて古い」という価値観が支配的になった際、大変な手間隙をかけて作製される伝統的な茶筒には強い逆風が吹き、経営的に非常に苦しい状況に陥りました。

その際に京都のお茶屋さんたちから「お前のとこは余計なことは考えず、ひたすら良いものを作っておれ、ワシのところが買うから」といって買い続けてくれたおかげで開化堂は存続できた、というのですね。このお話は大変わかりやすく「応援経済が社会の文化的豊かさを育む」ということを示してくれていると思います。

■わたしたちの消費活動が、次世代の社会をつくる

私たちは日常生活の中で、特に意識することもなく、モノやサービスを購入するわけですが、この購入は一種の選挙として機能し、購入する人が意識することなく、どのようなモノやコトが、次の世代に譲り渡されていくかを決定することになります。

山口周『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)
山口周『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)

私たちが、単に「安いから」とか「便利だから」ということでお金を払い続ければ、やがて社会は「安い」「便利」というだけでしかないものによって埋め尽くされてしまうでしょう。もしあなたがそのような社会を望まないのだとすれば、まずは自分の経済活動から考え直さなければなりません。

だからこそ、「責任ある消費」という考えが重要になってくるのです。なぜ「責任」なのかというと、私たちの消費活動によって、どのような組織や事業が次世代へと譲り渡されていくか、が決まってしまうからです。私たちが、自分たちの消費活動になんらの社会的責任を意識せず、費用対効果の最大化ばかりを考えれば、社会の多様性は失われ、もっとも効率的に「役に立つモノ」を提供する事業者が社会に残るでしょう。

そのような大企業が社会を牛耳ることに批判的な人も多いのですが、彼らは別に権力者と結託してあのような支配的地位を獲得したわけではありません。彼らがあのような大きな権力を持つに至ったのは、なんのことはない、私たちがその事業者から多くのモノやコトを購入しているからです。

これはつまり、何を言っているかというと、これをひっくり返せば、市場原理をハックすれば、私たちが残したいモノやコトをしっかりと次世代に譲渡していくことが可能だということです。

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山口 周(やまぐち・しゅう)
独立研究者・著述家/パブリックスピーカー
1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。神奈川県葉山町在住。著書に『ニュータイプの時代』など多数。

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(独立研究者・著述家/パブリックスピーカー 山口 周)

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