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「選挙で選ばれた政治家は正しい」そんなウソがまかり通るから、みんな選挙に行かなくなった

プレジデントオンライン / 2022年1月11日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

民主主義とは何であろうか。政治学者の藤井達夫さんは「多くの人が『民主主義=選挙』と誤解している。選挙は代表制度の手段にすぎず、中国にも存在する」という――。

※本稿は、藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

■「民主主義=選挙」という誤解

共有のものを私物化してしまう専制政治に対抗する民主主義。その理念は、絶対王政の時代のフランスにおいて復活する。ルソーは『社会契約論』において、古代人には馴染みのない「人民主権」という概念──主権という概念は中世ヨーロッパに誕生する──によって古代の民主主義の理念を蘇らせた。

人民主権とは、政治における最終的な決定権力は人民に属するという考え方である。より素朴にいえば、政治権力の源泉は人民にあるという考え方だ。それは、ルソーが国家という共有のものを人びとの約束によって作り出し、その下で自由を実現する政治のあり方を模索する中で編み出したものであった。

後に代表制度に接続され国民主権へと発展していくものの、この概念は現代の民主主義の根幹となってきた。もちろん、日本国憲法においてもそうである。ここから、権力の私物化を禁じ、専制政治を防ぐことで市民の自由を確保することを目指した民主主義の理念は近代以降も継承され、多くの民主主義国の憲法にいまでも息づいているといえる。

そもそも、民主主義の理念を検討する作業がなぜ必要になったか。それは何より、現在、中国モデルが民主主義のオルタナティブとしての存在感を増しつつあるからだ。さらに、自由を「二の次」とせざるをえない人びとから、能力主義・業績主義に慣れ親しんだエリートたちまで、民主主義諸国に暮らす人びとが少なからずこのオルタナティブに魅力を感じ始めているからでもある。

ところがそれだけではないのだ。現行の民主主義は中国モデルより優れており、それを擁護していかなければならないと考えている人たちの存在も問題になってくる。というのは、民主主義の側に立つ人たちに、近代の民主主義に対する根深い誤解があるからだ。つまり、民主主義を擁護する側が自分たちの民主主義をよく分かっていないのだ。これはかなり困った事態といえよう。

最もよくある誤解が、「民主主義は選挙だ」とするものだ。これがなぜ誤解かといえば、選挙は代表制度に特徴的な手続きだからだ。そして、民主主義と代表制度の間には、本来的な関係はないからだ。代表制度は中世封建社会の身分制議会や教会などで活用されてきたが、そこでの重要な手続きが選挙や多数決であった。このため、近代の民主主義には中世の代表制度に由来する政治上の慣行のいくつかが引き継がれることになった。

「民主主義は選挙だ」という誤解が生まれたのは、近代において民主主義の理念を実現するための手段として導入された代表制度が民主主義そのものだと見なされてきたからである。

しかし、なぜこうした取り違いが起きたのだろうか。これを十分に説明するのは、意外に難しい。確かなこととして一ついえるのは、代表制度が、ある時期は、民主主義の理念を実現する手段としてうまく機能したということだ。つまり、代表制度は、権力の私物化を防ぎ、反専制政治を実現する上で、一時的にせよ非常に効果的に機能したので、多くの人びとは代表制度を民主主義と同一視したというわけだ。

■代表制度が民主化されたプロセス

代表制民主主義とは、民主主義の理念を代表制度によって実現しようとする政治のあり方だ。しかし、代表制度は民主主義ならびにその理念と何ら本来的な関係がない。

そもそも代表制度は、封建社会という非民主主義的な社会においても活用された制度だ。だから、選挙によって選ばれた代表者たちから構成される議会があるなら、その国の政治は民主主義だというのは、端的に誤りといえる。これは私たちの常識的な知見からも明らかだ。例えば、中国にも選挙と議会がある。しかし、中国が権威主義国家であることに変わりはなく、私たちは民主主義国とは決して見なさない。

とはいえ、近代の民主主義は、代表制民主主義と呼ばれてきた。この事実は否定しがたい。代表制度が民主主義と結合し、その制度によって民主主義の理念を実現しようとした一連の試みが実際に存在してきたことは純然たる事実である。さらに、その試みがある程度、成功したことも確かだといえよう。

民主主義は、共有のものの私物化を禁じ、それによって専制政治を防ぐことを目的とする。では、どのような仕組みによって、代表制度はこれを実現しようとしたのか。言い換えれば、実際どのようにして代表制度は民主化されたのか。そして、その仕組みの下で、代表制度はどのような歴史をたどったのか。

■クジより選挙を選んだ近代民主主義

古代アテナイの市民たちは、権力の私物化を禁じ、反専制政治を実現するために、クジと輪番制という制度を採用した。それは、政治の専門化ないしエリート化こそ、それらの専制政治の元凶だということを彼らが経験していたからである。翻って言えば、民主主義の理念を実現するには、クジと輪番制によって政治権力を行使する上での平等を徹底することが最適だと知っていたからだ。

誰もが政治権力を直接行使できれば、権力の私物化は難しくなる。これに対して、近代の民主主義は、専制政治に対抗する手段として、平等性を担保するクジという手続きではなく、代表者を選ぶ選挙という手続きを重視した。それはなぜなのか。ここでは、正統性という言葉に注目してその理由を考えてみる。

あみだくじ
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

■「権力行使が正統に行われるのは同意がある場合のみ」

古代と近代の民主主義の差異の一つは、民主主義の理念を実現しようとする上で、前者が市民による政治権力の行使の平等性に依拠したのに対して、後者は、政治権力の行使に対する同意としての正統性に依拠した点にある。近代の民主主義が同意による権力の正統化に非常にこだわったわけを理解するには、その復活に大きく関わる近代市民革命の核心に何があったかを見る必要がある。

近代に民主主義を復活させた18世紀の二つの革命、すなわち、アメリカ独立革命とフランス革命、そしてそれらに先行した17世紀のイングランドでの二つの革命は一般に、市民革命と呼ばれる。これらの革命に共通する核心的なモットーは、ジョン・ロックの「本来、万人が自由平等独立であるから、何人も、自己の同意なしにこの状態を離れて他人の政治的権力に服従させられることはない」という有名な一文にある。

そこで言い表されているのは、「あらゆる権力の行使が唯一正統な形で行われるのは、それに従う者の同意がある場合のみである」という政治的正統性についての考えだ。

この考え方は、グロチウスやホッブズ、プーフェンドルフらに始まる近代自然法学派の下で社会契約論として発展してきた。

さらに、ルソーが政治権力の正統性に関する理解をさらに発展させる。彼は、唯一正統な権力の行使を人民の意志に基づかせることで、君主主権論に対抗する人民主権論を打ち立てたのだ。

このように、近代の民主主義の始まりには、神とその代理人である国王ではなく、国家を構成する人間たちの間の同意に政治権力の源泉と正統性を見出そうとする理論と実践が活発化していた。そしてフランスでの市民革命だ。そこで、人民主権論は何より、権力を私物化し専制政治を敷いた国王に対抗する正統性のイデオロギーとして理解され、新たな政治体制の構築のための根本原理として用いられた。

このように、近代の民主主義の始まりには、同意による権力の正統化の問題があったことが見て取れる。また、それゆえ、近代の民主主義は、古代の民主主義のようにたんなる統治の形態──一人の支配=君主政、少数の支配=貴族政、多数の支配=民主政──を意味するだけでなく、支配と被支配の関係を根拠づける規範──「誰が支配すべきか」「どうして服従すべきか」といった問いに対する回答になる──という意味を獲得することになったと説明できるのである。

■政治権力を脱人格化する

それでは、代表制度は、どのような仕組みで政治権力を人民ないし国民の名において権威づけ、それによって、反専制政治を実現しようとしたのだろうか。

代表制度における政治権力の正統化は、国民が選んだ代表者が議会を構成し、そこでの議論を経た多数決によって法律を制定し、その法律に従って政治を行うという形をとる。教科書にも載っているような馴染みのある話であるものの、これが民主的な代表制度において政治的正統性が産出される本来の手続きであることに間違いない。

ここで注目すべき点は三つある。一つは、議会における多数派が共有のものとしての国民の意思を代表するのであって、それゆえ多数決による決定が国民に共通した意思に基づく決定と見なされている点だ。そのためには、代表者は国民によって直接選ばれ、信任を得る必要がある。これが第二の点になる。

最後に、代表者たちから構成される議会で制定された非人格的な法律に従って政治が行われるという点である。ここに、不偏不党の法律による政治のコントロールという図式を見て取ることができる。すなわち、行政府に対する立法府の優越である。この最大の狙いは、政治権力を脱人格化することで、その私物化や恣意的な行使を未然に防ぐことにあった。

このような代表制度における政治権力の民主的な正統化は、しばしば議会主義と呼ばれてきた。日本国憲法では、第四一条での「国会は、国権の最高機関」という表現の中にそれを見出すこともできる。では、この議会主義は、どのように実現されるのか。この答えが、選挙によってというものだ。ここから、選挙こそ、代表制度と民主主義を繋ぐ制度上の結節点であり、この意味で、選挙は代表制民主主義を理解する上で鍵となる手続きだといえる。

繰り返しになるが、選挙それ自体が民主主義なのではない。民主主義の理念を実現する手段として存在する限りで、選挙は民主主義的であるに過ぎない。まず、歴史的に見て選挙は民主主義とは無関係なところで用いられてきた。例えば、ヨーロッパ世界において、それは古代から中世にかけてのキリスト教の教会の司教の選出において活用されてきた。

もちろん、そうした近代以前の選挙は、現在の私たちが行っているような、投票者一人ひとりの選好を数えるという形をとらない。そうではなくて、信徒共同体の結びつきを確認するために、満場一致の喝采という形をとっていた。また、理論的な観点から見ても、選挙はある種の貴族主義と結びついてきたといえる。

■選挙が民主的代表制度の機能を果たす条件

そもそも、民主的な代表制度の下で選挙が持つ基本的な機能は何か。それは、議会において国民に共有された意思に従い法律を制定し、それに基づいて政治を行う国民の代表者を選出することである。

しかし、近代において選挙が民主的な代表制度の手続きとしての機能を十分に果たすには、少なくとも次の二つの条件を満たす必要があった。一つは、平等に参政権が与えられること。もう一つが、選挙が定期的かつ頻繁に行われることである。

一つ目の参政権の平等という条件は、代表者を選出する投票権と代表者として選出される被選挙権との双方において、身分や財産、性別などによって差別されないことを意味する。この条件が選挙の民主主義化に必要な理由は、選挙で選出された代表者が、国民全体の代表者であり、それゆえ、その代表者たちが構成する議会での決定が国民に共有された意思の表明だとする想定ないし擬制を維持するのに不可欠だからである。

参政権の平等は、選挙の貴族主義的性格を緩和させると同時に、人民主権という近代民主主義の原理を代表制度の下で維持するために必要な条件だったのである。

もう一つの条件が、選挙の定期的で頻繁な実施である。民主主義の選挙の一つの機能には、代表者を選出するという実際的な機能がある。それは、代表者が政治権力を行使することを有権者が許可し、信任を与えるという機能として説明できる。

すなわち、委任の手続きとしての選挙だ。正統な政治権力の行使には被治者の同意と信任が不可欠だとした、絶対王政の時代の自然法学派の思想家たちでさえ、その多くが、そうした同意の表明は一度で十分であるとした。このため、彼らが定期的な信任の確認を求めることはなかった。

選挙ポスター
写真=iStock.com/maroke
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/maroke

これに対して、近代の民主主義の下では、信任を付与する委任手続きとしての選挙が定期的かつ頻繁に行われる必要がある。裏を返せば、代表者は、定期的かつ頻繁に有権者の審判を受ける必要があるということだ。これは、中世の命令委任から自由委任へ変化したことに関わる。とはいえ、定期的かつ頻繁な選挙は、代表者が政治権力を私物化しないよう有権者がコントロールせねばならないという民主主義の理念から要請される条件でもあることを忘れてはならない。

もちろん、これら二つの条件だけで、代表制度が民主主義の理念を実現できるわけではない。ロバート・ダールによれば、それらに加えて次のような条件を整える必要がある。表現の自由が保障されること。多様な情報源──新聞、雑誌、ネット──へのアクセスが可能であること。また、政党やその他の市民社会の団体が存在することなどだ。こうした条件がきわめて重要であることはいうまでもないが、選挙を民主主義に相応しいものにする上で、先の二つの条件はより根本的である。

■比例代表制と小選挙区制

ところで、「参政権の平等」と「定期的で頻繁な選挙」という二つの条件に関しては特筆すべき別の点がある。それは、二つの条件のどれを重視するかによって、選挙についての全く異なる理解を引き出すことができるということだ。

参政権の平等という条件を重視する立場からすると、選挙は、国民全体を代表する多数派の利害関心や意思の表明として理解され、その利害関心や意思によって代表者の政治権力の行使は正統化される。別のいい方をすれば、選挙によって表明された国民に共通な意思に従った政治を行わせることで、代表者による権力の私物化や専制を防ぐ。これは、正統性に関する実質的な理解と呼ぶことができるだろう。

定期的で頻繁な選挙という条件を重視する立場からすると、選挙は国民の利害関心や意思の表明というよりは、政治権力を行使してきた代表者の業績に照らして賞罰を与える機会として理解される。賞を与えるか罰を与えるかをめぐっての国民の審判によって、政治権力の行使が正統化されるのだ。

換言すれば、この審判によって、特定の集団や代表者による権力の私物化や専制を防ぐ。これは、正統性に関する手続き的な理解と呼ぶことができる。

藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書)
藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書)

この相違から望ましい選挙制度も異なってくる。前者を重視する立場は、有権者の投票がより正確に議席数に反映される比例代表制を望ましいとする傾向にある。他方、後者を重視する立場は、死票が多く得票数と議席数が不釣り合いとなるが、政権交代が起きやすい(賞罰を与えやすい)とされる小選挙区制を好む傾向にある。

こうした違いはあるものの、国民の意思の表明という実質的な強い正統性と国民による審判という手続き的な弱い正統性という双方の理解には、明らかな共通点がある。それは、選挙が、権力の私物化による専制政治を防ぐ手段と見なされている点だ。このことが何より重要だ。

すなわち、民主主義的な正統性を政治に供給することができる唯一の手続きが、誰もが参加でき、しかも定期的に行われる選挙だとして想定されてきたこと。それゆえ、選挙は代表制度によって民主主義の理念を実現する上での中心となる手続きだと想定されてきたということだ。

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藤井 達夫(ふじい・たつお)
政治学者
1973年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。同大学院非常勤講師などを経て2022年から東京医科歯科大学教授。近年の研究の関心は、現代民主主義理論。共著に『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版)、共訳に『熟議民主主義ハンドブック』(現代人文社)など。

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(政治学者 藤井 達夫)

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