「教科書では本当の面白さはわからない」東大教授が"大人の世界史"を勧める3つの理由
プレジデントオンライン / 2022年1月19日 10時15分
■世界史の大きな変化を見過ごしていないか
ギリシア最大の海港ピレウスは、中国の海運大手である中国遠洋海運集団(コスコ)から大規模な出資を受けている。報道によれば、ピレウス港を管理する会社の株式の半数以上は、コスコの手中にあるという。
ピレウス港はバルカン半島の南に位置し、東欧から中欧に至る物流の拠点ともなりうる。中国の「一帯一路」構想がヨーロッパで展開している一例である。
ピレウスの歴史は古い。古代ギリシアの繁栄期にピレウスはアテネの外港として重要な意味を持っていた。
古代アテネの政治家テミストクレスは、ピレウス(ペイライエウス)に城壁を築いた(トゥキュディデス『戦史』)。テミストクレスは、ペルシア帝国との戦争を指揮して勝利を挙げた後、アテネの発展は海洋制覇にかかっていると考えてこの工事を進めたのだった。
ペルシア戦争は、ギリシアの民主制がオリエントの専制を打ち破ったものとして語られてきた。民主主義の発祥地としての自負心を持つギリシアが、21世紀に入った今日、中国の「一帯一路」の拠点となっているのを見ると、世界史の大きな転機にわれわれが直面していることを感じさせる。
しかし、われわれは、このような大きな変化を視野に収める視点を持てているだろうか。
■教科書に書かれたハッピーエンドの筋書き
これまで、高等学校の世界史の教科書では、暗黙のうちに、ある筋立てにそった叙述がなされてきたと言えるかもしれない。つまり、歴史はハッピーエンドに向かっているという筋立てである。
さまざまな矛盾や対立による悲惨な現実があったものの、人類は自由や民主といった価値を発展させ、経済的にも繁栄してきたというような書きぶりである。悪しき帝国主義や専制支配は、いつか滅びると説くかのような語り口は、まさに勧善懲悪の世界観である。
このような楽観論には、もちろん理由がある。
教育の場で未来への希望をこめて歴史を語りたいのは、自然な気持ちと言える。また、1945年以降の日本は平和と安定を享受し、20世紀末までは経済的な豊かさも一定程度達成できていたから、そのような楽観的な気分にも根拠があるように感じられたのであろう。
今から思えば、そのような感じ方は視野の狭いものであったかもしれない。20世紀後半においても、戦争や内乱、貧困や疾病で苦しむ人々が世界に数多く存在していたからである。
まだまだ続く21世紀の世界は、どうなっていくのか。そのような問いかけは多くの歴史家の心の中にある。歴史学は将来を予測することを本分とはしていないが、現在、われわれ人類が立つ地点はどういうものかについて真剣に考えることは、本来の目的と言える。
目下刊行中の『岩波講座 世界歴史』は、先の見通せない現在の立場から、新たな歴史像を示そうとしている。私は、その編集委員に加わった一人の歴史家としての立場から、なぜ今、世界史について考えることが大切なのか、少し述べてみたいと思う。
■「今」を知るためのツール
世界史を学ぶ意味としてまず挙げるべき点は、グローバル化の進む現代の人類社会について的確な認識をもつことである。
20世紀後半の米ソ対立の「冷戦」の構図が崩れて以降、世界各地の経済的な結びつきは強まってきた。そして、ある特定の地域の動向がグローバルな影響を及ぼすことは珍しくない。
しかも世界の多様な地域はそれぞれ個性をもち、その歴史背景を踏まえてはじめて理解できることは多い。
現在のアメリカ合衆国を例にとれば、連邦議会の二院制のありかた、州の権限の大きさ、銃規制の難しさ、人工中絶をめぐる論争、人種対立の社会的背景について知るには、歴史的な説明は不可欠だろう。香港は香港なりの、アフガニスタンはアフガニスタンなりの歴史があり、それを知らなければ現状の理解はおぼつかない。
■中国のアフリカ戦略を読み解くカギ
また、国際的なつながりについても歴史的な経緯を視野に入れることは大切である。アフリカ大陸の多くの国々と中国との関わりは、決して21世紀になって突然現れたものではない。
中華人民共和国は、建国以来、米ソの陣営と区別される「第三世界」を代表する立場で発言することを好み、また台湾の中華民国と国際的な地位を争うために、1960年代には新興のアフリカ諸国との関係を深めた。中華人民共和国はそのような戦略的判断から、貧しい時代からかなり無理をしてアフリカへの援助を進めてきた。
1976年、タンザニアとザンビアの間に開通したタンザン鉄道はその一例である。アフリカ諸国から中国に人材を招く政策も長らく続いており、中国近代史研究者である私にとって、1990年代の中国留学時にアフリカ出身の留学生と中国語で会話を交わした経験は忘れられない。
昨今は米中対立が深刻となってきたとしても、今のところは世界の貿易や金融の面でのつながりは絶たれていない。その点では「冷戦」時期の米ソ対立と異なり、ひと・もの・かねの移動は盛んである。一方で、伝染病の対策や地球温暖化問題など、人類の全体で考えなければならない課題は山積している。
もちろん、個々の課題のために処方箋を書くのは歴史学の手にあまる課題である。それにしても、グローバル化の進む中、世界史についての基本的な知識は、国際情勢を読み解くうえで必須と言えるだろう。
■人類の可能性と危険性を深く知る
さて、世界史について考えてみることのもう一つの意味は、人類社会の多様な可能性と危険性について深く知ることである。
過去の人々はさまざまな理想を抱いて、より良い社会を模索してきた。最初に少し言及したテミストクレスは、古代ギリシアの民主政治時代を代表する指導者であった。しかし、すでに古代ギリシアでは、民主主義が衆愚政治に堕落する危険性も指摘されていた。哲学者プラトンは、そのような問題について思索を展開した。
20世紀前半の中国においても、民主と独裁の問題は真剣な討論の主題となっていた。
とくに1920年代末からの国民党政権の時代には、日本との戦争に備えるために、強い指導力をもつ政権が必要とされる一方で、国民が一丸となるためには民主主義が欠かせないとする主張もなされていた。
とすれば、「中国では独裁の政治文化が歴史的に継続していた」という超歴史的な説明は、少なくとも中国近代史の視点を欠いた言い方だと思われる。中国近代史におけるさまざまな試行錯誤を経た後に中国共産党が政権を握ったということが何を意味するか。そのような重い問いかけが必要になってくる。
■過去の人々の成功と失敗から得られる教訓
経済発展と科学技術の関係を歴史的に振り返ってみても、創造的な新機軸が大きな可能性と危険性をはらんでいることがわかる。
英国のイングランド中西部を流れるセヴァーン川の流域には「アイアンブリッジ峡谷」と呼ばれる世界文化遺産がある。このアイアンブリッジは世界初の鉄橋で、イギリスの産業革命を象徴する存在である。
この地域は、近代製鉄業の技術開発に成功し、人類の生活に大きな貢献をなしたことで知られている。しかし、そのような発明と企業経営は、当時は誰も気づいていなかったとしても、二酸化炭素の排出量を劇的に増やし、気候変動をもたらす要因となったと考えられる。
このように、過去の人々の成功と失敗について深く考えてみることは、われわれ自らが将来に向けて選択をするに際し、何らかの教訓を得る機会となるはずだ。
そして実は、過去の人々の成功と失敗とは、必ずしも簡単に白黒がつけられるものではなく、むしろ成果の一面として危機がもたらされるといった複雑な性格を持っていることがわかる。
われわれが歴史から得られる教訓があるとすれば、歴史研究の成果から直接に導かれるものというよりは、むしろ現在と将来の多くの人々が歴史から意味を汲み取っていこうとする真剣な問いかけによって見えてくるものに違いない。
■過去の現実に思いをめぐらす効果
以上の内容とも重なるところはあるが、世界史を学ぶ意義の3点目として、過去の現実の人類社会について具体的に知ることによって、われわれの想像力を養い人間性と社会についての理解力を鍛えることができる効果も挙げられる。
もちろん、文学や芸術の作品にもそのような役割があるだろうが、かつて現実に存在した社会について思いをめぐらすことには独自の意味がある。
かつて現実に存在した社会は、仮に現在に生きるわれわれとは全く異なる価値観に基づいていたとしても、やはり人類社会である以上は理解可能であると私は考えている。
たとえば、スターリンの独裁体制のもとで暮らしていたソ連の市民が、その社会状況のもとで生活を成り立たせ、ときにささやかな楽しみを見いだそうとしていたことを理解しようとする試みは、人類としての共通の願望や悲哀、そして人類の強さと弱さを確認する過程にもなりうる。
そのようなことを行う意義は、むろん自国の歴史についても見いだせる。しかし、なるべく現在の私たちとの時代的・文化的な相違が大きい社会を理解しようとする方がいっそう難しく、それゆえ意義深いかもしれないのである。
■われわれの立ち位置を明瞭にさせる展望台を作りたい
『岩波講座 世界歴史』は、実は今回が三回目の企画ということなる。最初は1970年前後に刊行され、言ってみれば日本の高度成長期の歴史意識を反映していた。そこには、進歩と発展への明確な見通しがあった。
二回目は1990年代終わりごろの刊行であり、米ソの冷戦が終結して世界情勢が新たな段階に進みつつあった時代にあたる。グローバル化の進展や科学技術の発展がもたらす問題の所在が意識され始めたなかで企画されたと思われる。
それでは、第三シーズンにあたる現在の『岩波講座 世界歴史』が示そうとした新しい歴史像は何か。編集委員のなかにも多少の見解の相違があるかもしれないが、少なくとも私が考えている刊行の意図を述べるならば、次のようになるだろう。
先の見通せない時代にあって、歴史への問いかけを通じて、われわれの立ち位置を少しでも明瞭にするのに役立つ展望台のようなものを作りたい。展望台まで行かないとしても踏み台のようなものでよい。そのような知的な基盤から出発し、われわれこそが歴史を生み出す主体なのだという自覚をもちつつ、人類の未来について模索していくようにしたい。
それはたぶん終わりなき模索であり、簡単には正解を得られないということは承知の上で進んでいくしかない。しかし、過去の人類の奮闘と哀楽はわれわれにとっての貴重な遺産になるはずである。
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歴史学者(中国近代史)、東京大学教授
1968年群馬県沼田市生まれ。1991年東京大学文学部卒業。同大学院を経て、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。専攻は中国近代史。著書に『愛国主義の創成 ナショナリズムから近代中国をみる』(岩波書店)、『清朝と近代世界 19世紀〈シリーズ中国近現代史①〉』(岩波新書)などがある。
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(歴史学者(中国近代史)、東京大学教授 吉澤 誠一郎)
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