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仕事のできる人ならすぐわかる…「007」と「バイオハザード」の悪の組織はどっちが強いか

プレジデントオンライン / 2022年1月29日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Milatas

映画『007』シリーズの悪の組織「スペクター」と、『バイオハザード』の悪の組織「アンブレラ」では、どちらが強いのか。神戸女子大名誉教授の内田樹さんは「前者は対面型、後者はオンライン型の組織で、前者の方が組織としては圧倒的に強い。これは新型コロナ禍で変化を迫られた学校の授業でも同じことが言える」という――。

※本稿は、内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。

■実は教師は学生にコントロールされている

この間、脳科学の本で面白いエピソードを読みました。教師が教壇から話すだけで、学生は黙って聴いているだけという授業でも、学生は教師をコントロールできるという実験なんです。教師が教壇の真ん中より右に行った時には、教師がどんなジョークを言っても笑わない。逆に、教師が真ん中から左にいる時には、それほど面白くない話でも爆笑する。

学生がそうすると、授業開始15分から後は、教師は左側にはりついて動かなくなるそうです。もちろん教師自身は自分がそんな位置取りを選択させられていることに気がつかない。無意識にそうしているんです。

実際にそれに類することは対面的環境では起きています。笑ったりとか、目をきらりとさせたりとか、話の途中でボールペンを手にして、ノートを取り始める。これは教師に対する「激励」のメッセージですよね。

「いまたいへん面白く話を聴いています」ということを、ノートを取るというジェスチャーを通じて発信しているわけですね。実際にうちに帰ってノートを見たら、書きなぐりで字が読めなかったりするんですけれど。メモを取るというのはむしろ副次的な目的で、実際には目の前で話している人に対して「OK」のサインを送るのが主たる目的なわけですね。

■話者と聴衆とが交わす無言の「やりとり」

だから、僕が演壇から話すだけでも実は無言のうちの「やりとり」は行われています。聴衆のリアクションはかなり正確にこちらにも伝わっている。誰も笑わない、誰もノートを取らない……ということになると、こちらも「今日は話が受けていない」ということがわかる。そういう時は話題や話し方を替える。そうやって環境に適応します。

聴衆が無言だからといって、一方向的であるということではないんです。聴いている人たちのボディ・ランゲージってすごく雄弁なんです。腕を組んだり、足を前に投げ出すのは、「お前の話を聴く気はないぞ」というシグナルですし、あごの下に手をあてて机に肘をつくというのは「すごくおもしろい」というシグナルです。だから、腕を組んでいた人が、机に肘をつくようになったら、それで僕の話に対する評価を変えたということがわかる。そういうふうにかなり複雑な意思疎通をしているんです。

■放送大学スタイルでは届かない重要なメッセージ

だから、全部オンラインでいいじゃないか、放送大学みたいに、偉い学者に授業をしてもらって、それをクラウドに置いておいて、学生たちは好きな時間にそれをダウンロードして聴講すればいいじゃないか、それならもう教育力のない教員は要らなくなるから人件費削減になるというような暴論を吐く人がいますけど、そういう人たちはオンラインでも実は送受信者の間で、活発なやりとりがあるということを知らないのだと思います。

たしかに定型的な知識や情報をパッケージにして差し出すということなら、クラウドに置いてある教育コンテンツを、自分の好きな時に受講することで済むかも知れません。でも、そういうやり方だと教育の場における最も重要なメッセージが届かない。それは「このメッセージの宛て先はあなたですよ」というメッセージです。

宛て先を確認するメッセージ、ローマン・ヤコブソンが言語の「交話的機能(phatic function)」と呼んだものです。「私からのメッセージをあなたは受信したか?」「あなたからのメッセージを私はたしかに受信した」という、メッセージが成立していることについてのメッセージです。

■新婚夫婦はなぜ意味のない会話を交わすのか

ヤコブソンは、その例として「新婚夫婦の会話」を挙げています。「やっと着いたね」「やっと着いたわね」「きれいな景色だね」「ほんとうにきれいな景色」……というような繰り返しのことです。相手が言ったことをただそのまま繰り返しているだけで、有用な情報はほとんど何も含まれていません。でも、「あなたの発信したメッセージを私はたしかに受信した」ということを相手に伝えるためにはこれが一番有効なのです。

美しい景色を眺める男女
写真=iStock.com/Oleh_Slobodeniuk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Oleh_Slobodeniuk

このやりとりでは、二人はお互いに相手の存在を確認し、承認し、祝福しています。キャッチボールと同じです。ボールが行き来するだけで、いかなる価値も生み出していないし、いかなる有意なコンテンツも行き交っていないように見えますけれど、違いますよ。キャッチボールでは、相手のグローブにボールを投げ込んで、「ぱしん」という小気味のよい音がするたび、それぞれのプレイヤーは「あなたがそこに存在することを私はいま確認した。私はあなたが存在することからささやかな喜びを引き出しており、あなたが引き続きそこに存在することを願う」というメッセージを送り合っているんですから。

相互に相手の存在を確証し、かつ祝福している。これが「交話的機能」であり、コミュニケーションにおいて最もたいせつなことです。

■オンラインでできる教育的コミュニケーションの限界

オンライン授業でどうやってこの「交話的機能」を確保するか? それが教育現場では最重要の課題になります。授業を聴いている人たちが、「自分はたしかに教師によって個体識別されており、いまのメッセージはあきらかに自分を宛て先にして発信された」と感じられるかどうか。そのためには、どういう工夫があり得るのか。それが最優先の技術的課題だと思います。学校というのは何よりも先に子どもたちに社会的承認を与える場だからです。「君はここにいてよい。君にはここにいる権利がある」ということをまず子どもたちにわからせる。

対面教育では、一人一人に呼びかけたり、アイコンタクトをしたりして、承認を与えることができます。オンラインでも、先生が生徒に個人的に呼びかけたり、メールのやりとりをすることができます。でも、そういうかたちで個体識別して、社会的承認を与えることができるのは、せいぜい1クラス100人くらいの規模までです。

それ以上のサイズになると、積極的に教師にコンタクトをとってくる「意識の高い学生」とはコミュニケーションがとれるけれど、そういうことができない「引っ込み思案の学生」とはコミュニケーションがとれません。ましてや、教師はテレビカメラの前でしゃべるだけで、それをダウンロードして聴講する受講生が何千人というようなサイズの授業の場合は、交話的な営みは構造的に不可能になります。

■メッセージをどの文脈で受け取るかが一番たいせつ

それでは教育的コミュニケーションとしては成立しない。というのは、教育的コミュニケーションの場においては、学びへの開かれは「あなたはそう言うことで何を言いたいのか?」という問いのかたちをとるからです。

あるメッセージについて、それをどういう文脈で了解するのかということを子どもたちはまず決定しなければならない。それはジョークなのか、引用なのか、遂行的な命令なのか、一般論なのか……メッセージという「なまもの」をどういう「額縁」の中に収めるか。それがコミュニケーションにおいて一番たいせつなことなんです。

例えば「なんで昨日帰ったの?」という問いの意味は文脈によって解釈の仕方がいくつもあります。昨日帰った理由について訊いているのなら、その場合には「体調が悪かったから」とか「法事があったから」とか、そういう返答を用意しなければならない。帰りの交通手段を訊いているのなら「バスで帰った」とか「地下鉄で帰った」と答えなければならない。相手が帰ったことを非難しているのなら、「ごめんなさい」とか「関係ないでしょ」とかそういう返答になる。

相手のメッセージをどういう「額縁」に入れて解釈するかということは死活的に重要です。これを間違えると社会生活を円滑に営むことが難しくなる。

■「なんで負けたかわかるか?」と問う監督の真意

前に、あるスポーツの試合場の外で、監督が選手たちに向かって「なんで負けたかわかるか?」という質問をしている場面に行き逢ったことがあります。これは別に負けた理由を選手たちに訊いているわけじゃありません。だって、どのような敗因を挙げても監督に叱られるに決まっているんですから。「僕がミスをしたからです」と言えば「なぜミスをしたんだ」と重ねて訊かれる。「練習が足りなかったからです」と答えれば「なんで練習しなかったんだ」と問い詰められる。

「なんで負けたかわかるか?」という問いは、選手たちを回答不能にするために発せられている問いです。「誰がボスか」という権力関係を確認するためにやっている一種の儀礼なわけです。それがわからずにうっかり「監督の采配が悪かったのも一因かと」というような空気を読まない発言をしたら、それがその問いに対しての正解であったとしてもひどい目に遭う。

日常生活において、われわれはつねに「あなたはそう言うことによって何を言おうとしているのか?」という無言の問いをコミュニケーションに際して立てている。

メッセージをどう読解すべきかをまず決定してからしかメッセージの読解に取りかかることができない。表面的な、一意的なメッセージのやりとりだけを追っていっても、ほんとうの意味でのコミュニケーションは成り立たない。

■『007』の悪の組織は対面で幹部会を開く

オンラインと対面の違いって何だろうって考えている時に、ふと映画のことを思い出しました。『007』シリーズ。あの映画では、「スペクター」という悪の組織が敵役です。スペクターは世界各国の悪者たちのネットワークなんですが、定期的に集会を開いています。ナンバーワンが招集して、ナンバーツー以下ナンバーテンぐらいまでが集まって「悪の幹部会」を開きます。

銃を持った不気味で上品な紳士
写真=iStock.com/yacobchuk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yacobchuk

この幹部会が対面なんですね。スペクターは最先端のテクノロジーを駆使する悪の組織なんですけれど、なぜかテレビ会議はしない。必ず世界各地からその場に集められる。そして、一人一人業務報告をする。カジノの売り上げとか、麻薬の売り上げとか、誘拐の身代金とか……各支部が活動報告をする。でも、誰かの報告内容が気に入らないと、ボスがボタンを押す。すると、椅子がいきなり燃えたり、床が開いたりして、ボスの不興を買った幹部はその場で処刑される。だから、スペクターの幹部会は必ず対面形式で行われる。

■『バイオハザード』の悪の組織はオンライン

これと対照的なのが『バイオハザード』の悪の組織の幹部会です。こちらはアンブレラ社というグローバル企業が諸悪の根源なんですけれども、アンブレラ社の幹部会はオンラインなんです。スペクターと同じく、世界各地の悪者が集まって密議を凝らすわけですけれど、外はゾンビがひしめいているので対面ができない。

内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)
内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)

その点では、いまのコロナ・パンデミックと状況設定は同じです。面白いのは、テレビ会議なので、フェイクの画像が混じる。化け物が人間を偽装して混じっていたりしている。異形のものもオンライン画面上では「ふつうの人間」に見える。そこに『バイオハザード』のサスペンスもあるわけです。

「悪の幹部会」にはスペクター型とアンブレラ型の二つがあるわけですが、スペクター型は「命がけ」です。参加者は生身をその場に差し出すことを義務づけられている。そうすることで緊張した対面状況が作り出される。その緊張感が強固な秘密結社を維持している。一方のアンブレラ型のオンライン会議は「嘘つき放題」なわけですね。さて、この二つの悪の組織はどちらが強靭(きょうじん)か。これは圧倒的にスペクターなわけです。

■対面で会議をやる組織の方が強い

ジェームズ・ボンドはもう何十年もスペクターと戦い続けているわけですけれども、彼が侵入できるのはせいぜい支部どまりで、倒したのも、ドクター・ノオとかゴールドフィンガーとかいう支部長クラスまで。その程度の悪党だといくらでも替えが効くので、ボンド君の活躍にもかかわらず、スペクター本体は相変わらずほとんど無傷です。

一方のアンブレラ社はグローバルな悪の組織の割にはかなり脆弱(ぜいじゃく)です。実際にアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)はわりと簡単にアンブレラの中枢部に侵入して、幹部たちをじゃんじゃん殺してしまう。なるほど、やっぱり対面で会議をやる組織の方が堅固なんだな、というのが映画を観ての僕の感想でした。というので、組織を長期的に存立させようと思うのなら、対面型のコミュニケーションが必須であるということがわかりました。まあ、当たり前なんですけれど。

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内田 樹(うちだ・たつる)
神戸女学院大学名誉教授
1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)、街場シリーズなど多数。

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(神戸女学院大学名誉教授 内田 樹)

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