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「このままではアシモの20年がムダになる」日本で"稼げるロボット"が登場しない残念な理由

プレジデントオンライン / 2022年2月28日 12時15分

2015年12月18日、東京の日本科学未来館で、館長で宇宙飛行士の毛利衛氏(右)が見守る中、日本の自動車大手ホンダの人型ロボット「アシモ」と握手するオーストラリアのマルコム・ターンブル首相(肩書はいずれも当時) - 写真=AFP/時事通信フォト

■「モノづくり大国」の象徴が“退職”へ

ホンダの二足歩行ロボット「ASIMO(アシモ)」が、20年間「勤務」した日本科学未来館を3月末で「退職」する。ホンダも、東京・南青山の本社でほぼ毎日開催している実演ショーを同時期に終了する予定だ。「中に人が入っているの?」と言われるほど、人間っぽい歩行で一世を風靡(ふうび)したアシモは、表舞台から姿を消すことになる。

ホンダの技術者たちの約15年にわたる泥臭いまでの試行錯誤によって生み出され、「ロボット大国」「モノづくり大国」の象徴でもあったアシモだが、当時の先進技術が現在の産業で十分に生かされているとは言い難い。

アシモは2002年に「インタープリター」(展示解説員、現・科学コミュニケーター)として日本科学未来館に「入社」。当時の館長で宇宙飛行士の毛利衛さんから辞令を渡された。

身長130センチ、ランドセルのような形のバッテリーを背負った姿は、小学生のようでかわいい。こぶしを握り、やや腰を落としてすいすいと歩いたり、ひざを曲げて軽快に走ったり、ほっそりとした指で水筒のふたをあけてコップに水を注いだり。ロボットとは思えぬ動作が、子どもはもちろん、大人からも人気を集めた。

ホンダのテレビコマーシャルでは、ケーブルカーに乗り遅れてがっかりするような姿や、子どもたちと走りまわったり、踊ったりする様子などを披露。人とロボットが共存する時代がいずれやって来る、と人々に感じさせた。

■「アトムを作ってほしい」から始まった

アシモの開発が始まったのは1986年。埼玉県和光市の本田技術研究所・和光基礎技術研究センター所長が技術者に「鉄腕アトムのようなロボットを作ってほしい」と注文したことがきっかけだ。バブル景気が始まるころで、企業も基礎研究に力を入れる余裕があったのだろう。

「鉄腕アトム」は、手塚治虫のマンガの主人公のロボットだが、それ以上の具体的な指示はない。そこで技術者たちが考え出したのが、「人間のように歩くロボット」だった。モビリティー(移動手段)を事業にしている会社の基礎研究にふさわしいと考えた。

最初に取り組んだのは、動物や人の歩く姿を徹底的に観察し、「歩く」とはどういうことか、その原理を分析することだった。そして、足だけのロボットを作って、歩かせる実験に取り組んだ。

足だけのロボットが歩くようになるまでに3年の歳月が流れた。より安定した歩き方をさせるまでさらに5年。足だけのロボットに腕がついたのは、開始から7年後だった。ただ、身長、体重ともに大きくなってしまい、「鉄腕アトム」というよりも、横山光輝のマンガのロボット「鉄人28号」。小型化と安定歩行の研究と実験をさらに続けることになる。

■はるばるローマ教皇庁まで「確認」しに行った

完成が近づくと、和光基礎技術研究センターの所長は、バチカン市国のローマ教皇庁を訪問した。「神ならぬ人間が、人間のようなものを作ること」についてキリスト教徒の考えを尋ねるためだ。欧米では人間の形のロボットを作ることは、神を冒涜(ぼうとく)すると敬遠されがちだった。グローバル企業にとっては反発されることが心配だ。ローマ教皇庁から「それも神の行為のひとつ」という答えを得て、安心して開発を続けた。

バチカン市国の柱廊
写真=iStock.com/NiseriN
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NiseriN

その頃、通産省(現・経済産業省)は、二足歩行ロボットを介護や買い物などに使うプロジェクトを検討していた。省内では「人間のように歩かせるなんて無理」という意見が強かった。同省の担当者がホンダで開発されていることを知ったときには、すでにアシモは歩いていた。その歩きの見事さは、官僚たちを仰天させた。国家プロジェクトよりも早く実現させる。民間の底力だった。

アシモで思うのは、よく企業が基礎研究にここまで人とお金と時間を投じることができたということだ。バブル景気だけでなく、失敗を恐れずに、創意工夫、独立独歩で技術開発を進めるという創業者・本田宗一郎氏のDNAが影響していたのだろう。

2000年にアシモの発表が行われた。インパクトは大きかった。マスコミが取材に押し寄せ「新車だと発表後2カ月ぐらいで収まるのに、アシモは2年を過ぎても途切れない」と広報担当者を驚かせた。

アシモの後、トヨタ、ソニーなどが二足歩行ロボットを次々と発表した。政府の宇宙政策の検討でも、日本らしい月探査計画として、二足歩行ロボットを月面へ送る案が検討された。

まさに日本の科学技術力の象徴だった。

■アシモはできても「使えるロボット」はない

だが、2011年の東京電力福島第一原発事故が、日本のロボット開発に見直しを迫る。放射線量が高く、人間が近寄れない危険な場所にロボットを送り込んで事故の様子を確認する必要がある。しかし、事故直後、日本にはすぐに使えるロボットがなかった。米国やフランスなど海外から急遽導入したが、「ロボット大国のはずなのに、なぜ⁉」と、批判や疑問が噴出した。

実は日本でも原発作業用のロボットは作っていた。1979年の米スリーマイル島原発事故や、99年の茨城県の核燃料加工施設での臨界事故後、政府の主導で開発した。だが、使う体制まではできていなかった。研究開発が目的であり、現場で操作法を訓練したり、ロボットの耐久性を上げたりするなど、ロボットも人間も日々鍛えていなかった。たまに防災訓練で動かす程度では緊急時に動かせない。

欧米のロボットが紛争地域の地雷除去、爆弾処理などで経験を積んで、原発事故へ対応しているのに対し、日本ではロボットを社会で役立てようという意識が乏しかった。

アシモが登場する以前から日本はロボット研究が盛んで、国民もロボット好きだ。1970年代、工場で働く人たちが作業用ロボットを「百恵ちゃん」など、当時の人気歌手の名前をつけて呼んだように、機械に親しみを持ち、擬人化する。19世紀の産業革命時に、「機械が仕事を奪う」と、英国の職人たちが機械を壊した「ラッダイト運動」とは対照的だ。そうした日本的メンタリティーも、影響しているのかもしれない。

■二足歩行がビジネスの“足枷”に

こうした「ロボット愛」にとどまらず、社会で使われるロボットに育てていくことが大事だ。今、国内外の目は、ICT(情報通信技術)の活用によってロボット技術をいっそう向上させる方向に向かっている。

昨年9月、ホンダは2030年代の実現を目指し、自社のコア技術を生かして取り組む3つの新領域を発表した。その一つに、アシモで得た技術を生かす「アバターロボット」が入っている。人間が自分の分身ロボットを操作して、その場にいなくても作業や体験ができるというものだ。その指にはアシモで培われた技術が使われている。だが、二足歩行技術は使われない。二足歩行の知見は、車の横滑り防止措置などに生かしているそうだ。

ICTやAI(人工知能)によって、ロボットは自ら情報を収集し、考え、動くようになる。米グーグルなど「GAFA」と呼ばれる巨大IT企業も、ロボットに参入している。さまざまなビッグデータを生かす土台として力を入れる。

ホンダは、基礎研究から生まれたアシモを、家庭のような生活空間で人々にサービスをする役割を持たせようと期待した。だが、ハードルは高かった。「安全性をいくら向上しても、アシモが倒れた時に、その下にたまたま小さい子どもがしゃがんでいた、などの不測の事態も起こりうる。完璧な安全は実はものすごく難しいことが20年やってきて分かった」とホンダでは話す。

政府の二足歩行ロボットの月探査計画が立ち消えになったのも、「月面で転んだらどうするのか」などの批判が尽きなかったためだ。得意技の二足歩行が逆にさまざまな場所で働く制約となった。

■「モノづくり技術だけ」では世界から遅れてしまう

アシモは日本科学未来館やデパートなどの施設に貸し出されたり、2014年に来日したオバマ米大統領など各国首脳と「面会」したり、さまざまなイベントに駆り出されたりした。ただ、それ以外のビジネスは実らなかった。

産業の中心が、製造業からICTを活用したサービス業へと移行する時代。アシモは今となってはいかにも製造業中心時代を象徴するものなのかもしれない。

少子高齢化や人手不足もあり、多くの分野でロボット利用は今後も拡大していく。国際ロボット連盟は2月、世界の産業用ロボットの稼働台数が2015~20年の間に、毎年平均13%増加した、と発表した。ことに伸びが著しいのが中国だ。

産業用ロボットアーム
写真=iStock.com/NanoStockk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NanoStockk

同連盟では、コロナ禍前にはなかったロボットが設置されるなど、自動化の進展がロボット需要を拡大している、とも分析する。培ったモノづくり技術を維持し、さらにAI活用などデジタル時代にふさわしいものを作り、実地訓練で鍛えなければ日本のロボット技術は世界からどんどん遅れてしまう。

「ロボット愛」に惑わされることなく、厳しく温かく、ロボットを育てる必要がある。

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知野 恵子(ちの・けいこ)
ジャーナリスト
東京大学文学部心理学科卒業後、読売新聞入社。婦人部(現・生活部)、政治部、経済部、科学部、解説部の各部記者、解説部次長、編集委員を務めた。約35年にわたり、宇宙開発、科学技術、ICTなどを取材・執筆している。1990年代末のパソコンブームを受けて読売新聞が発刊したパソコン雑誌「YOMIURI PC」の初代編集長も務めた。

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(ジャーナリスト 知野 恵子)

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