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「戦争」のイメージがあるだけで批判される…日本で「軍事研究」がタブーになった歴史的理由

プレジデントオンライン / 2022年3月10日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/guvendemir

なぜ戦いが起きるのか、どうすれば終わるのか。それを考察するのが軍事研究だ。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「戦後、日本史研究では軍事史が排除されてきた。だが、戦争は政治の延長線上にあるものだ。むやみに批判するのではなく、学問として考察することが重要ではないか」という――。

※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■「軍事研究はやってはいけない」という雰囲気

武士とその歴史を見るとき、やはり考えなければならないのは軍事であり、軍事史なのだと思いますが、実際には戦後、日本の歴史研究というのは政治を中心とした政治史のかたちで進められてきました。そこには、軍事史をある種のタブー扱いする傾向があったことが見て取れます。

その大きな理由としては、やはり、日本においては、太平洋戦争の敗戦が大きかったのだろうと思います。太平洋戦争の死者は300万人以上と言われています。そのような惨事を引き起こした戦争を忌避する気持ちとそれに対する批判から、戦後になって多くの大学では「軍事研究はやってはいけない」という雰囲気が漂っていたのです。

それでは逆に昭和の戦前・戦中においては軍事史研究というものがきちんとなされてきたのかというと、それ自体、満足には行われていなかったと思います。その理由として、歴史学においては戦前・戦中において優勢だった皇国史観というものがあまりにも軍部と関係を持ちすぎたことが挙げられるでしょう。

■在野研究者の間では有意義な研究もされてきた

皇国史観は神話である『古事記』や『日本書紀』を歴史的事実として扱いました。つまり「物語」を重視した歴史観です。軍事もまた、川中島の戦いにおける上杉謙信(うえすぎけんしん)と武田信玄(たけだしんげん)の一騎討ちや桶狭間(おけはざま)の戦いにおける織田信長(おだのぶなが)の奇襲戦法など、超人的な英雄の存在を伴いながら物語化しやすいものです。

戦後、アカデミックな日本史研究のなかからは排除されてきた軍事史ですが、他方、在野研究者の間では有意義な研究がなされている場合もあります。しかし、その多くが「長篠の戦いで鉄砲の三段撃ちはあったのか」とか「桶狭間の戦いのとき、信長は奇襲を仕掛けたのか」というようなかなり限定された問答に偏りがちではあります。

そうした在野の研究者のなかで、戦国時代の合戦を中心に研究されている藤本正行さんという方がいらっしゃいます。藤本さんは「桶狭間の戦いは奇襲ではない」と主張して注目を集めた方です。その説の是非は置いておくとして、藤本さんは「戦前・戦中の歴史学は少数が多数に勝つということを強調しすぎている」という指摘をしました。この指摘は実に正しいと思います。

■元寇の記憶によって「神風」信仰が作られた

織田信長の「桶狭間の戦い」における奇襲戦法や、源義経(よしつね)の「一ノ谷の戦い」における鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)としなどは、実際これらがどのように実行されたのか、学問的に価値のある史料からは解き明かされていません。それにもかかわらず小説や講談などで描かれてきた英雄譚によって、少数が多数を打ち破る、柔よく剛を制すのごとくロマンばかりが強調されてしまったと言えます。このように、少ない兵力でも工夫次第で大軍を破ることができる、文学的、英雄的なロマンを実際の戦争にも当て嵌めてしまったのが、戦前・戦中の歴史学だったのです。

その極め付きは「神風」信仰でしょう。

文永11(1274)年と弘安4(1281)年の二度にわたって、当時のモンゴル軍、すなわち元軍が海を渡り攻めてきました。有名な大風雨が起きモンゴルの船は沈没して、日本側はこれを退けることができたとされています。

しかし、今日の研究では大風雨、すなわち「神風」は否定されがちです。少なくとも文永の役では実際の戦闘によってモンゴル軍は退却したと考えられています。一方で高麗軍とともにモンゴルの大軍が再び襲来した弘安の役では台風が起こったのではないかとされています。

元寇の記憶において、いざとなれば神風が吹き、日本を守ってくれるという信仰が作られ、皇国史観全盛の戦前・戦中ではまことしやかにこの話が学校で教えられたのです。

宇宙から見た巨大なハリケーン
写真=iStock.com/Elen11
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Elen11

■皇国史観を信奉する歴史学と軍部が結びついていた

現在、80歳を超えた年配の方は、太平洋戦争の終結の頃はまだ小学生くらいだったわけですね。ですからしばしば私は、彼ら彼女らに尋ねます。日本は負けると思っていましたか、と。すると、ほとんどの方が、「神風が吹くから日本は絶対負けないと、本当に信じていた」とおっしゃいます。

まともな軍事研究がされなかった戦前・戦中において、ロマンの物語は国力が10倍以上だったアメリカに対して、工夫さえ凝らせば日本のような小さな国でも勝てるんだというような幻想につながっていった。太平洋戦争において、最前線の日本軍兵士が最新装備も食糧も人員もないなかで、最後は精神論のみで戦わされることとなったのも、こうした幻想がまことしやかに語られていたからではないかと思います。皇国史観を信奉する歴史学と軍部が強く結びついたことで、このような幻想が生まれたのです。

敗戦となり戦後を迎えた日本では、戦時中の教育や学問のあり方が大きく反省され、見直されました。その結果、戦後の歴史学は物語としての歴史に傾いた皇国史観を徹底的に批判し、実証性に基づいた科学としての歴史をきちんとやらなければならないという方向へと進みました。

こうなると、とにかく戦争が連想される軍事というものは徹底的に忌避される。軍事につきまとう物語性が非常に嫌われ、軍事研究自体を遠ざけ、敬遠する風潮が間違いなく生まれたのです。

■自衛隊は「戦後の知識人に叩かれる対象」だった

戦前・戦中の極端に右に振れた針は、戦後になると今度は左に大きく振れて、唯物史観が台頭してきます。私が大学生だった昭和50年代には、「知識人たるもの政治的には左派であるべきだ」という意識すらありました。当然、戦争なんていうのはもってのほかだというわけです。

たとえば、父親が自衛官だった子どもを日教組(日本教職員組合、日本の教職員の労働組合団体)に所属する教師がいじめた、なんていう話もありました。戦後に制定された日本国憲法の第9条に反するものとして、自衛隊というものは発足当初から戦後の知識人らに叩かれる対象とみなされました。

しかし、今日においては自衛隊を巡る印象は明らかに異なります。平成7(1995)年の阪神淡路大震災や平成23(2011)年の東日本大震災における救助活動や復興支援など、自衛隊の活躍は目覚ましく、広報をきちんとやってきたこともあって、一般からの人気が高い。

東日本大震災災害派遣部隊の活動拠点。陸自部隊の活動拠点となった石巻市総合運動公園(宮城・石巻市)=2011年4月2日
写真=朝雲新聞/時事通信フォト
東日本大震災災害派遣部隊の活動拠点。陸自部隊の活動拠点となった石巻市総合運動公園(宮城・石巻市)=2011年4月2日 - 写真=朝雲新聞/時事通信フォト

■軍事を学問として考察することが重要ではないか

しかも、現在、米中が激突する中で、地政学的に両者の中間に位置する日本において、これまでのように米国頼みで自衛力を軽んじているわけにはいかない――といった方向性も打ち出され、集団的自衛権の一部容認なども行われたわけです。そうであるならば、自衛隊をはじめとする軍事を無闇に批判するのではなく、科学的かつ体型的に、学問として考察することが重要なのではないかと思います。そのためには、とりわけ歴史学においては、こうした軍事に対する根拠のない忌避的な態度、感情に流された嫌悪的な態度は改めなければならないでしょう。

現行の歴史学においては、軍事に関する論文を書いたとしても、査読(論文の審査)には通らないかもしれません。ほとんど中身もろくに読まれずに、軍事研究だからというだけで落とされる可能性が高いのです。

■軍事の研究は政治、外交につながっている

戦後、歴史学においてはさまざまな研究者が登場し、多種多様な研究の蓄積があります。現在の日本史における花形はといえば、おそらく外交史だろうと思います。

本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)
本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)

鎖国に関する議論がよい例だと思いますが、元来、日本は鎖国を通じて他国との交流を限定してきたと考えられてきました。ところが近年では鎖国はなかったのではないかというような議論が盛んに行われています。古代から連綿と東アジアの国々と交流を積み重ねてきたのだというわけです。ここ20年ほどは外交史が最も日本史という研究分野のなかで盛り上がっていると言っていいでしょう。

外交史の次に注目されるべきだと思うのが、軍事の研究だと考えています。

そもそも戦いの目的とは何か。誰と戦うのか。どうすれば戦いは終わるのか。これらは全て政治であり、外交につながっています。

プロイセン王国の軍人・軍事研究家のカール・フォン・クラウゼヴィッツは自著『戦争論』のなかで、戦争とは、政治の延長線上にあるものであり、政治のひとつの形態が戦争なのだと言っています。

諸外国との関係で言えば、外交とは政治であり、これがこじれた場合には、戦争の可能性が高まってくる。そのときにやはり重要なのはリアルな軍事史であり、合戦のリアルを知ることなのだと思います。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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