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なぜ日本人は「K-1」にあれほど熱狂したのか…格闘技マニア向けのイベントが大ヒット番組に化けたワケ

プレジデントオンライン / 2023年8月2日 19時15分

2012年3月23日、ロシアのモスクワで行われたK-1ヘビー級戦で、オランダのセミー・シュルトとフランスのブライス・ギドンが対戦。セーミー・シュルトがブライス・ギドンとの戦いに勝利した。 - 写真=EPA/時事通信フォト

格闘技イベント「K-1」はなぜヒットしたのか。初期のK-1の興行に関わり、現在は総合格闘技「RIZIN」を主催する榊原信行さんの著書『負ける勇気を持って勝ちに行け! 雷神の言霊』(KADOKAWA)より紹介する――。(第1回)

■格闘技好きではない私がK-1に思ったこと

私はもともと格闘技が好きだったわけではない。

子どもの頃にはテレビでプロレスやボクシング、キックボクシングを見ていたが、熱狂的に追いかけるほどではなかった。

社会人になって初めてK-1を見た時には、リング上で起こるKO劇が衝撃的で迫力もあり、それまで触れてきた格闘技やプロレスにはないリアルさと新鮮さを感じた。

だが、それでも「もう少し何かが足りない」という思いがあった。殴る、蹴るだけではなく、もっといろいろなことをすればいいのに――漠然とそう感じていたのだ。

その後、K-1の名古屋大会を自主興行することになり、石井和義館長にご縁をいただき、1994年頃から格闘技の興行に関わるようになった。

■格闘技界に「放映権を売る」という感覚がなかった

当時から、格闘技は大きな可能性を秘めていると感じていた。例えばスポンサーセールス。広告媒体物として手のついていないものが沢山あり、「これはお金に変わる」という予感があった。

リングマットに広告を入れてもいいことを知り、名古屋にK-1を持ってきた当初は、リングマットに東海3県を中心に展開しているデリバリーピザチェーン「アオキーズ・ピザ」の絵を描いたり、コーナーポストにかつて名古屋に本社のあった時計の量販店「ウォッチマン」の広告を入れたりした。

もちろん、競技としての魅力もある。格闘技は1対1の戦いなので、見る人にとって分かりやすく、選手の表情が見えやすい。

一方、サッカーをはじめとしたチームスポーツの場合、特定の選手を追いかけるのではなく、全体を俯瞰(ふかん)しないことには本当の面白さが伝わりにくい。しかし、俯瞰した映像だと選手たちの表情は見づらい。そういう点で格闘技はテレビ向きだと思った。

けれども当時、格闘技界の人たちは、放映権を売るという感覚を持っていなかった。

興行主(こうぎょうぬし)であるK-1に対して、私たちは営業権料を支払うわけだが、そのなかで彼らに渡していたのはビデオグラム化権。K-1は、撮影した大会映像をビデオにして売るというビジネスは進めていたものの、それをテレビのコンテンツにするということまでは、まだこの時点ではあまり理解していなかったようだ。

■名古屋大会の模様をテレビ番組にする

もともとK-1は、フジサンケイグループがゴールデンウィークに主催していたイベント「LIVE UFO」の興行の一つとして始まった。第1回大会となる「K-1 GRANDPRIX ʼ93~ 10万ドル争奪 格闘技世界最強トーナメント~」が国立代々木競技場第一体育館で行われたのは、1993年のこと。私は直接その大会を見ていなかったが、テレビ業界や芸能界では大きな話題となった。

その後、愛知県知多郡美浜町で毎年夏に開催している「美浜海遊祭」に、T-BACKSというセクシーアイドルグループに出演してもらうことになったのだが、そのマネージャーが無類の格闘技好きだった。現場で、彼の持参したK-1のVHSをみんなで見て、「これは面白いね」と話していると、「一度、会場へ見に行こう!」と誘われ、1994年3月に日本武道館で行われた大会に足を運んだ。

また、美浜海遊祭に出演してもらったT-BACKSが、大阪のテレビ番組で空手家の角田信朗さんと共演しているということで、角田さんを通じて石井館長にお会いし、またもや「見においでよ」となり、その年の年末には、トントン拍子に名古屋レインボーホール(現・日本ガイシホール)で大会を開催するという流れになった。

私は、これをテレビ番組にしようと考えた。つまり、深夜番組として名古屋大会の模様を放送することにより、事業協賛とCMの提供をセットにして売ることができれば、マネタイズ(収益事業化)できるという直感があったからだ。

■最初に地上波でK-1を放送したのは東海テレビ

実は、最初に地上波でK-1を放送したのは、キー局のフジテレビではなく、東海テレビなのである。

次第にその形が定着して行くと、東京大会や、注目のカードが組まれた試合についてはフジテレビが放送するようになるなど、格闘技の地上波放送は名古屋のローカル放送から東京の全国放送へと進化していった。

東海テレビと東海ラジオが入る東海放送会館(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)
東海テレビと東海ラジオが入る東海放送会館(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)

当時、私たちがイベントをつくる時というのは、最終的にはテレビに出すことが一つのゴールだった。常日頃からそういうことにアンテナを張り、どうすればスポンサーにメリットがあるのか、どうすれば収益が上がるのかを考えていた。

格闘技というコンテンツがテレビ向きだと思ったのも、そういう視点を持っていたからだと思う。

■チケット即完の試合を「最悪だった」と私が考えるワケ

1997年10月11日。「PRIDE.1」が開催された。

当初、PRIDEは一回やれば十分だと考えていた。実現にこぎつけた髙田延彦(たかだのぶひこ)対ヒクソン・グレイシーの一戦は大きな注目を集めたものの、私の個人的な評価としては、最悪だった。

チケットはもっと売れ、地上波で放送されて、髙田さんがヒクソンに勝つ、というのが、私のなかでの成功イメージだった。しかし結果は全く逆で、大会後は穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさで「自分は何てことをしてしまったんだ」と茫然自失(ぼうぜんじしつ)していた。

PRIDE.1の時は、私自身に経験値が全く足りていない状態ながら、自らリスクを背負って興行を打った。それもゼロから1をつくりだしたわけだから、自分の想像していた目標やイメージとはほど遠かったのも当然と言えば当然だ。

今と比べると、当時は格闘技のコンテンツをつくってビジネスにするということに対して、幼稚な知識や経験しかないにもかかわらず、無茶をしていたこともあり、これをビジネスとして長く続けていくという感覚はなかった。東京ドームで1回限りの大会を開催することで、いくらか利益が出ればいい。そのくらいに思っていたのだ。

■VHSの売り上げは1億円以上

ところが、そんな私の評価と落胆(らくたん)とは裏腹に、終わってからの反響は想像以上にすごかった。周囲からは「ぜひもう1回やってほしい」と言われ、ビジネス的視点で物事を捉(とら)えている人たちからも、「こんなにすごいことになっているんだから、次もやるべきだよ」と背中を押された。そして何より、数字がすべてを物語っていた。

パーフェクTV!(現・スカパー!)に30万人しか加入していない時代に、PPVのチケット販売数は3万件を超えた。PPVという言葉すら浸透していなかったにもかかわらず、である。また、メディアファクトリー(現・KADOKAWA)から発売した、1万円のVHSは1万本以上売れた。

こうなると、いろいろな人にお世話になって実現させたからには、第2回大会をやらないわけにはいかなかった。K-1やF1と同様、「ナンバーワン」のつもりでつけたPRIDE.1の「1」は、「第1回」という意味に取って代わられ、結果としては通し番号が入るナンバーシリーズとして続くこととなった。

■RIZIN第1回大会の本当の評価

自分のなかの評価は最悪なのに、周りからの評価は高いというズレが起こることは、決して珍しいことではない。今でこそSNSの普及のおかげで、誰もが日々起きていることを情報として吸い上げやすくなっているが、熱が届くまでには時間がかかる。

榊原信行『負ける勇気を持って勝ちに行け! 雷神の言霊』(KADOKAWA)
榊原信行『負ける勇気を持って勝ちに行け! 雷神の言霊』(KADOKAWA)

2015年にRIZINの第1回大会を開催した時も、その日のうちに反響や評価がドカンとくるということにはならなかった。けれども、「こういうことが起きたらいいな」と思っていることを腐(くさ)らずに続けていくことで、半年後、1年後にようやくマーケットが追いついてくるのだ。

例えばトレーラーをつくって1回配信することで、自分たちは告知したつもりでいるが、世の中には見過ごしている人ももちろんいる。だから、すでに一度アップしたものでも、しつこく2回、3回とアップすべきだと私は思っている。

反響や評価についても、それと似ているところがある。その時の評価が、RIZINのすべてであり、この先ずっと変わらないということでは必ずしもなくて、良い評価も悪い評価も少しの風向きで変わっていく。

■ヒットコンテンツを生み出す秘訣

今のRIZINの人気は絶頂期にあるのか。それとも、まだ先にあるのか。あるいは、お客さんが今、何を求めているのかをつぶさに感じ取らなければならない。けれどもそこは、マグマの中心にいる私たちには、実はよく分からないというのが実際だ。それでも、何となくこうなるだろうな、ということを予見できる実績や経験は、少しずつながら積めているのではないかと思う。

これがウケるかどうか、そもそも情報が届いているのかどうかも、結局はコミュニケーションの受け手側の問題が関係してくる。私たちは届けるつもりで発信しているけれど、昔投げていたものが今になってようやく届いていることもある。

そこのスピード感や、熱量が伝わるまでのタイムラグを、これまでの経験や感覚を頼りに、うまくつかみ取っていくことが、常にヒットコンテンツを生み出すための秘訣(ひけつ)だ。加えて、少しずつみんなのことをいい意味で裏切りながら、コンテンツをつくっていけるかどうかがカギを握っている。

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榊原 信行(さかきばら・のぶゆき)
ドリームファクトリーワールドワイド社長
1963年11月18日、愛知県生まれ。大学卒業後、東海テレビ事業株式会社に入社。1997年に「PRIDE.1」を開催し、2007年の売却まで携わる。2015年より、「RIZINFIGHTINGFEDERATION」始動。2022年開催「THEMATCH」では、那須川天心×武尊戦を実現させ、総売り上げ50億円超を記録。伝説的なマッチメイクを実現させるなど、現在の格闘技シーンを牽引するキーマン。

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(ドリームファクトリーワールドワイド社長 榊原 信行)

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