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1鉢が1億円になった…地味でパッとしない「タチバナ」が高額取引された江戸の園芸バブルのすさまじさ

プレジデントオンライン / 2023年8月20日 10時15分

錦絵画帳『風俗吾妻錦絵』より(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Art/Wikimedia Commons)

江戸の人々はどんなことに関心があったのか。総合研究大学院大学名誉教授の池内了さんは「さまざまな植物の品種改良が盛んだった。18世紀に起きた園芸ブームでは、通常の形とは異なる奇品や珍品が投機の対象になり、1鉢1億円の値がついた植物もあった」という――。(第1回)

※本稿は、池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

■江戸時代に園芸ブームが起きたワケ

二派に分かれ、花の美しさとその花を詠った和歌を競う優雅な「花合わせ」は平安時代から始まっている。実は、花はあくまでも歌の題材を提供するだけで、和歌の優劣を競う「歌合わせ」が主目的であったらしい。しかし、江戸時代には園芸文化が広まってきたこともあって、「花合わせ」は純粋に花の優劣を競うものとなり、仲間内の品評会の役割を果たすようになった。

園芸植物の価値判断に権力は介入しなかった(できなかった)から、花の愛好者たちは独自の物差しで価値が決められることになる。それとともに、花が売買されるから園芸に携わる人々の収入となり、園芸で生活する階層も増加していった。その結果として、通常の花の色や形に飽き足らない「はぐれ者」が出てくる。これまでにない色や絞りの花や、異形や斑入りや筋が入った葉など、奇品・珍品を好む気風が強まり、それらに大金を投じるようなことが起こってくる。

奇品の流行と園芸バブルについては後に話題にするが、やはり人とは違ったものを持って誇りたいとの気持ちを誰もが抱くようになるものなのだ。18世紀以後の花卉(かき)・花木ブームが、このような人間の欲望と結びついた、やや浮薄な様相を呈するようになったのは必然の成りゆきかもしれない。

■菊の花ひとつに15万円もの値が付いた

正徳から享保年間(1711~36)に、キクの大輪や花の品格を競う「菊合わせ」が流行した。そもそもは、京都円山で行われた「菊合わせ」大会(1711~16年)が人気を呼び、江戸でも開かれるようになったのが発端らしい。その結果、「勝ち菊(入選した花)」の一芽に1両~3両3分(約5万~15万円)もの破格の値段が付くようになり、キクの栽培と品種改良に熱が入ったのであった。

『京新菊名花惣割苗帳』(1719年)には、金7両(約35万円)でキク一鉢が売買されたとある。この時のキクは、花の気品や風格が第一で、在来種にはない大輪や自然には見られない花弁の形状が高く評価された。「菊合わせ」では一輪だけを提出して、その花だけの評価を競ったのであった。その花は現在「丁子菊」と呼ばれる「一重あるいは半八重の菊」が大半であったらしい。

時代がずれるが、与謝蕪村(1716~83)が「菊作り汝(なんじ)は菊の奴(やつこ)かな」(1774年)という句を残している。菊合わせに狂奔する人間のおかしさを詠んだもので、蕪村らしく菊ブームから一歩退いての冷静な句と言える。何事であれブームが高じるとバブルとなり、必ずその後に弾けてバブルは消えるもので、キクブームは第4次の19世紀半ばまで断続的に継続した。

■知的なサロンが誕生

続く元文の頃(1736~41)とされるが、「永島先生」としてのみしか伝わっていない、かなり身分の高い幕臣が「壺木(つぼき)」と呼ぶ鉢植え法を考案して、オモト(万年青)の大型品種や常緑で低木の沈丁花など、比較的地味な花卉・花木栽培を普及させたという。

「壺木」とは、小さな苗木を畑で育て、十分に根を出させてから鉢に移植する方法なのだが、ここには新しい工夫があった。縁が外に反った形の「縁付(えんつき)」と名づけた鉢を尾州瀬戸の陶工に命じて焼かせて、鉢植えで花木栽培を行ったのである。この縁付が人気を得て全国に広まったのだ。

さらに面白いことは、鉢植えでオモトを育てる「永島連」が形成されたことである。江戸時代には、俳諧・狂歌・小説・絵画・浮世絵・落語・博物学・医学など、さまざまなジャンルで「連」という集まりができたそうだが、園芸にも「連」があった。永島を先生と仰いで担いで、仲間内の人間が集まって品評会などを楽しんだのである。

江戸文化研究者の田中優子氏らの著作をもとに「連」の特徴をまとめると、①巨大化しない、②存続が目的ではない、③世話人はいるが強力なリーダーはいない、④費用は参加者各々の分に応じた持ち寄り、⑤全員が対等な創造者、⑥メンバーは現職にこだわらず複数の名を持つ、ということだろうか。いわば同じ趣味を持つ人間のサロンであり、身分や貧富に関係しない知的共同体と言える。

■「いいところが一つもない」植物が大人気

この「永島連」に対抗して、「安養寺連」も結成されていたそうだ。享保から元文の頃、市ヶ谷の安養寺の住職であった「真和」という名の僧侶が、スギやヒノキやヒバなどの針葉樹の変わり物を集めて人気を博したのだ。

また、永島の門人である幕臣の朝比奈某(真明とすると、1726?~87?)は、江戸で温室を初めて考案・作成した人物である。植物が冬の寒さで傷むことを恐れ、床下に冬の間だけ収容する「唐むろ」を発明し、ガジュマルやソテツを育てていたという(浜崎大『江戸奇品解題』)。まさに「必要は発明の母」である。

マツバラン(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
マツバラン(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

明和年間(1764~72)になるとマツバランの流行が始まっている。『松葉蘭譜』が1836年に出版されているから、19世紀前半まで人気が持続したらしい。マツバランは花も葉もない植物で、草でも木でもなく、植物学上ではシダの仲間である。根っ子がなく、茎が二股に分かれて伸び、先端には鱗片状の突起がまばらにでき、高さ30センチ以下で、特に気を惹くようなところが何らなく、「いいところが一つもない」植物なのである。それが人に阿(おもね)るところがない植物に見えたため、かえって好まれたのだろう。

■1鉢1億円の値が付いたタチバナ

一方、寛政年間(1789~1801)には、「百両金」と書いて「タチバナ」(植物学上はカラタチバナ)と読ませた植物の鉢植え仕立てが人気を呼んだ。小さな白い花が咲き、冬には赤い実を付けるのだが、さほど美しくはない。より人の気を惹くとして名づけられた「センリョウ(千両)」や「マンリョウ(万両)」と比べても勝るわけではない。しかし、寛政9年(1797年)に『橘品』を始め3冊もタチバナに関する本が出版されたそうで、人気になって人々が栽培を競い合った。

カラタチバナ(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
カラタチバナ(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

タチバナが人気になったのは、葉の奇品(斑入り、奇形)があったためで、『杉浦家日記』の同年の項には、「百両金が一鉢三〇〇両や四〇〇両、種一粒が何両としている」とある。「一鉢一〇〇両は当たり前、大坂では最高二三〇〇両(約一億円)の値がついた」とも言われた。すっかり、投機の対象となってしまったのだ。むろん、やがて見捨てられることになるのだが……。

文化年間(1804~18)には、2つの園芸ブームが起こった。ひとつは、第1次アサガオブームで、『増訂武江年表』によれば、大番与力(江戸・大坂・京都の城の警護役)の谷七左衛門がアサガオの変わり種を見つけたのが発端であったらしい。

下谷の市兵衛が徒士組屋敷の御家人にアサガオ作りを伝授し、以来「変化アサガオ」と呼ばれて下級武士の内職として流行したとも言われる。アサガオについては、後の園芸バブルの項で再度立ち寄ることにする。

■菊がエンタメの中心だった

もうひとつの園芸ブームは、第3次キクブームである。人々が左右に分かれて菊の花を持ち寄り、優劣を競い合う「菊合わせ」では「勝ち菊(入選)」「負け菊(落選)」を決めていた。小林一茶(1763~1827)の俳句に、「勝菊や力み返て持奴」(1814年)、「勝菊は大名小路もどりけり」(1818年)があるが、「勝ち菊」となった時の持ち主の威張った顔や、大名になったかのような高揚した気分をよく表している。この頃「江戸菊」と呼ばれる中菊が栽培されるようになり、大菊に匹敵する人気を得たそうだ。

また、1811年頃から巣鴨の染井の植木屋街で人寄せに「菊細工」が行われるようになった。最初は、スギやヒノキの薄板を曲げて円形の容器にした「曲げ物」で見場を良くしただけであった。やがてそれらをいくつか集め、白菊ばかりで富士を模し、黄菊ばかりでトラを象徴し、さらに人間の形とする菊人形が登場するようになった。歌舞伎や浮世絵の名場面を、多くの色の菊の大小を組み合わせて造型するのである。しかし、見物料を取らなかったので財政的に行き詰まり、菊人形は1816年頃には廃れたらしい。

人々を驚かせたのは「一本造り」で、1本の台木に接ぎ木をして100種もの異なった菊の花を咲かせるという、曲芸のような技術が披露され、歌川国芳(1797~1861)が「百種接分菊」という絵を残している。

■「金の生なる樹」とは

文化・文政年間(1804~30)にはオモト・マツバランなどの「金の生なる樹」が人気を博し、天保年間(1830~44)がオモト人気のピークであった。

池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)
池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)

『金生樹譜』の『万年青譜』(1833年)によれば一鉢100両、200両はざらであったという。『江戸繁盛記』(1832~36年)は「太平の万年青」と称して、あるオモトを紀州の人が10両で売った後、数日後に70両で転売し、そこから諸侯に献上されて300両の礼金が出されたという話を伝えている。

また天保・弘化年間(1830~48)には、第4次キクブームがあった。従来の単弁菊花の「平物」か、せいぜい一重か半八重の「丁子菊」から、管状の花弁が手毬状に盛り上がって咲く「厚物」の先行形である「宝珠菊」が出現したのだ(これらの技術はより洗練されて現代に受け継がれている)。同じ頃、「東都小万年青連」が結成され、コオモト(小万年青)が異常なブームとなっている。嘉永・安政年間(1848~60)の第2次アサガオブームでは、およそ考えられないくらいの多様・多彩で異様とも言えるアサガオが作出された(本章扉参照)。

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池内 了(いけうち・さとる)
総合研究大学院大学名誉教授
総合研究大学院大学名誉教授・学長補佐。1944年、兵庫県生まれ。67年京都大学理学部卒、72年同大学院博士課程修了。72年京大理学部をはじめ、北大、東大、国立天文台、阪大、名大、早大、総研大と転籍してきた。著書に『ノーベル賞で語る現代物理学』『疑似科学入門』『科学を読む愉しみ』『江戸の宇宙論』(集英社新書)など。大佛次郎賞、講談社科学出版賞選考委員を務めた。

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(総合研究大学院大学名誉教授 池内 了)

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