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なぜ「電車男」は社会現象になったのか…「もしウソでも本当っぽいからいい」というリアルが暴走する怖さ

プレジデントオンライン / 2023年8月24日 16時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/dem10

なぜ匿名掲示板は世界各地で問題を起こしているのか。共著で『2ちゃん化する世界』(新曜社)を上梓したフリーライターの清義明さんは「責任主体が問われないので、ウソがウソとバレない。その代表例がかつて社会現象になった『電車男』。冷静に読むと安っぽい物語だが、『ウソでも感動できるならいい』と評価された。これこそがポスト・トゥルースの怖さだろう」という――。(構成=小池真幸)

■「匿名掲示板=悪」ではない

匿名掲示板に対するイメージは、人によって大きく異なると思います。

「便所の落書きである」という批判もあれば、「集合知が生まれる革命的な場所だ」という絶賛もあります。私は、効用もあるとは思いますが、副作用があまりにも大きすぎる、と考えています。

匿名掲示板とは、要するに、責任主体が問われない言論空間です。ロシアや中国、または現代の香港のように、民主主義が機能しておらず言論の自由が大きく制限された場所では、責任主体が問われない言論空間の持つ破壊力は重要でしょう。

私も共著者の一人である『2ちゃん化する世界 匿名掲示板文化と社会運動』(新曜社、2023)に詳しく書かれていますが、たとえば2000年代後半の「フリーチベット運動」は匿名掲示板での議論が現実化したものです。また2019年以降の「香港民主化デモ」においても、香港のみを主に対象とした匿名のオンラインプラットフォーム「LIHKG」が大きな力を発揮しました。

■言論の自由が担保されている社会でどこまで必要なのか

匿名掲示板のポジティブな面としては、新しい「政治的市民」を多数生み出すことができるという点があると思います。「政治的市民」とは、政治活動を行う市民のことですね。

匿名であることで、初めて政治的意見を発信できるようになる人が一定数います。

たとえば、戦前日本に生きていた人々。実は日本っていうのは、戦争期を除いて比較的言論の自由が担保されていた。ですから、戦前日本というのは民主主義国家だったわけです。にもかかわらず、この時期に政治的市民が十分に育ったとは言えません。なぜなのか。

この理由について、政治学者の久野収は「市民主義の成立」(1960年)という論考[『久野収セレクション』(岩波書店)所収]で、「職業と生活が分離していなかったからだ」と指摘しています。

たとえば、農民は農地の地主との関係性の中で生活をしていて、職業と生活が切り離せなかった。職業と生活が一致しているのは多くの現代のサラリーマンも同じで、会社の悪口や利害関係に相反する政治的見解を言うとクビになってしまう恐れがあるので、政治的な意見を言いづらい。

しかし、匿名掲示板においては、匿名であるがゆえに無茶な意見であっても、実際の職業的立場に関係なく発言することができます。つまり、職業と生活の分離が実現するのです。匿名であることで、多くの人々は初めて政治的意見を発信できるようになり、インターネット上で政治的市民が生み出されるというわけです。職業だけではありません。人を取り巻く人間関係そのものからも分離していきます。あらゆるしがらみから自律した政治的市民が、匿名掲示板によって大量に誕生したのです。

民主化デモから始まる、香港ナショナリズムの先鋭化においても、匿名掲示板の「無名」性が果たした機能は大きかったのではないかと想像しています。

■「破壊」はできても「構築」はできない

ただ、こうしたポジティブな側面は、あくまでも言論の自由が担保されていない社会においての話です。

言論の自由が一定担保されている現代日本のような社会で、果たして匿名掲示板で無名の主体として議論することがどこまで必要なのでしょうか?

結論から言えば、私は自由な言論空間のメリットを理解しつつ、それでも懐疑的です。私の考えでは、匿名の議論は既存のシステムを破壊する力はあるけれど、新たな社会を構築・建築していく力はない。匿名の議論は政治的に無効ではないけれど、それだけだと絶対に失敗します。

たとえば、2010年以降中東アラブ世界で広がった民主化運動「アラブの春」があります。「フェイスブック革命」とも呼ばれ、SNSを活用した運動の広がりが注目されました。チュニジアで失業中の青年が焼身自殺を図った事件をきっかけに、民主化デモがアラブ世界全体に波及した。実際に、30年間に及んだエジプトのムバラク政権など、長期政権が崩壊し、大きな社会変革が起きたのは事実です。しかし、結果的に民主化が達成されたのかというと、そうではない。10年が経った今も、内戦や政治の混乱が続いています。

結局、責任主体のない議論というのは限界があり、時に過つのです。そしてその過ちは取り返しのつかない禍根を引き起こすことすらある。

匿名の言論空間では、私の意見かどうかも、あなたの意見かどうかも、第三者の意見かどうかもわからない意見が永遠に流れています。発言の主体のない言葉、主語のない言葉が乱れ飛んでいる状態なのです。たとえそこから何かの動きが形になったとしても、収拾がつかない結果に終わることが多いのではないかと思います。エリック・ホッファーが指摘するように、狂信者は破壊することはできるが、目的を達成することができない(『大衆運動』紀伊國屋書店)ということです。

こうした危険性があるにもかかわらず、匿名であることは、人を大きく動かす力を持っています。

たとえば、アメリカを中心に広がった極端な陰謀論「Qアノン」。「Q」なる人物が匿名掲示板「4chan(ちゃん)」で投稿を始めたことがきっかけと言われています。初期に「来週ヒラリー・クリントンが逮捕される」という予言が外れた時から、デマの温床であることは誰の目にも明らかでしたが、多くの支持者を獲得することになりました。

2021年には、「Q」に煽られた群衆が米連邦議会議事堂を襲撃し、5人の死者を出す前代未聞の事件にまで発展しました。

なぜこんなことが起きたのでしょうか。

■求められたのは「真偽」ではなく「リアルさ」

この謎を解き明かすうえでヒントになるのが、かつて日本で一大現象を引き起こした『電車男』です。匿名掲示板の2ちゃんねるの無名の語り手の書き込みから始まった実話とされるラブ・ロマンスですが、それがあたかも現実にあった出来事のように受け止められた。「電車男」というのは、匿名掲示板のポスト・トゥルースの代表例だと私は思っています。というのも、冷静に読んでみれば、あんなに出来過ぎた安っぽい話は嘘に決まっているからです。

それにもかかわらず書籍は100万部を超えるベストセラーとなり、映画、テレビ番組になって社会現象になった。決して虚構とは受け取られることはなかった。いったい、なぜなのか。

その大きな要因は「匿名だったから」だと私は考えています。実名で書いてしまうと、その物語が嘘かどうかは簡単に照合され、問い詰められてしまいますが、匿名ならバレようがないし、今でも真相は謎のままです。

嘘が嘘とバレないことによって、あの感動の物語が成立しているわけで、これが匿名であることの、非常に大きな機能なのではないかと思っています。嘘か本当か確かめようがないから、「嘘だったとしてもいい」「嘘だったとしても感動できるからいいじゃないか」といった意見が主流になった。かつて日本の代表的エンタメ小説家である重松清は「嘘か本当かではなく、求められているのは『リアルさ』ではないか」(朝日新聞、2005年4月17日)と『電車男』を高く評しましたが、まさにポスト・トゥルースとはこの虚構であってもいいという「リアル」が求められているものだと思うのです。

抽象的な不在のコンセプト
写真=iStock.com/francescoch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/francescoch

■「匿名であること」がカギだった

嘘に嘘を重ねていたにもかかわらず、Qアノンがこれだけの破壊的影響力を持ってしまっていたのも、同じ理由です。「リアル」だったからです。

彼らが唱える陰謀論は、いわゆるユダヤ陰謀論の「血の中傷」のバリエーションであり、その話を信じたい人々が共鳴していた。だから極論を言えば、事実でも嘘でもどっちでもよく、ただ「リアル」でさえすればよかった。

だから、匿名の書き手「Q」とは誰か? が明らかになると、効力を失ってしまう。最近になってQが復活して書き込みをしたところ、信者はほとんど反応しなかったんです。おそらくQの正体について「8chan」運営者のジム・ワトキンス(現在の日本の匿名掲示板「5ちゃんねる」の経営者)なのではないかという説が出るなど、その匿名性に揺らぎが生じたことが影響しているのだと思います。真偽がある特定の人に紐づいてしまい、「嘘か真実かはどちらでもいい」というリアリティは崩壊してしまう。

仮にQが、ジム・ワトキンスや、その息子の5ちゃんねるの管理者で、当時札幌在住だったロン・ワトキンスだったとすれば、なぜ彼らが政府の機密情報や民主党や芸能人の幼児虐待を知りえたのか、その疑問だけで「リアル」は消え失せてしまうわけです。

ただし、Qアノン陰謀論のコアである「人身売買組織が幼児を誘拐していて、アメリカを牛耳っている民主党などのリベラリストである」という話を信じている人は、むしろQアノン現象の全盛期よりも増えている。Q自身は影響力を失ったけれど、陰謀論のフレームは拡大してしまっている。これこそが匿名の議論のパワーで、一度でも火のついた議論は収拾がつかないというわけです。「誰かが言った。誰がしゃべろうがかまやしない」という、サミュエル・ベケットの不条理小説にあるような事態にわたしたちは直面してしまっているのです。

■ひろゆき氏「提供者に責任はない」は暴論である

これだけ大きな影響力と危険性があるからこそ、匿名掲示板を決して野放しにするべきではなく、しっかりとしたルールや規制をけていく必要があると思っています。

2ちゃんねる創設者の西村博之氏は、2ちゃんねるで誹謗(ひぼう)中傷が吹き荒れ、さまざまな差別用語が乱れ飛び、裁判も多発して社会的責任を問われるようになると、このような主旨の発言を方々で繰り返しています。

曰く、もし不満なら法律を作ればいい、私は匿名掲示板という白紙のノートを提供しているだけだ。たとえばオレオレ詐欺が起こった時に、それに使われた携帯電話のプロバイダーやキャリアは責任を問われないでしょう、と。

この意見に納得する人も多いですが、本当にそうなのでしょうか。

たとえば自動車というテクノロジーは、発明された時は政治・経済から戦争に至るまですべてを変革していった一方で、その力の無制限の行使がはらむ危険性もすぐに判明したわけです。車線も交通信号もなかった時代に往来を時速100kmで走っていたら、危ないに決まっています。そこで交通ルールができて、初めて我々は自動車というメリットを享受できるようになった。もちろん今でも交通事故が起きているわけですから、それで100%オーケーというわけではありませんが、問題が発見されたら新たなルールを整備していくという、不断の業界努力によって対応してきたわけです。

■「法整備」のまえに果たすべき役割がある

西村氏が例に挙げた携帯電話のキャリアにしても、SIMカードの購入時に身分確認を厳格に行うようになるなど、犯罪が起こらないようにできる限りの対応をしてきました。「法を作ればいい」というのはその通りですが、その前にまずキャリアやプロバイダー、2ちゃんねるで言えばサイト運営者が対応し、倫理基準を作っていくことが重要ではないでしょうか。

それでも駄目なら法整備となりますが、法の制定にあたっては入念な議論が必要です。また法ができると、解釈に一定の縛りが生まれ、柔軟なルール整備がしづらくなる。だからこそ、法はあくまでも最終的な手段として捉え、まずは市民的な議論や企業による自主規制により問題を解決すべき、というのが私の意見です。

実際、2ちゃんねる自体も、野放しのままというわけにはいきませんでした。2000年代中盤になると2ちゃんねるでの誹謗中傷問題が社会的に大きく問題視されるようになり、またプロバイダ責任制限法という法律が整備されたこともあり、2ちゃんねるに対する訴訟は劇的に少なくなっていきました。運営側がIPアドレスを記録しだしたと言うようになり、法的な要請があった時に、そのユーザーの情報を開示するという運営をしはじめた。それによって、かつての野放しの無法地帯から抜け出し、2ちゃんねるは持続できるようになったのだと考えています。

たとえば2020年にプロレスラーの木村花さんがSNSでの誹謗中傷を苦に自殺した事件では、誹謗中傷を繰り返した男2人に「侮辱罪」が適用されました。そして2022年7月には、侮辱罪の厳罰化を盛り込んだ改正刑法が施行されています。社会的枠組みは徐々に変わりつつあります。

■ユーザー数が爆発的に増えた弊害

2000年代前半に、とてもダーティで差別的な書き込みが多くあったにもかかわらず、2ちゃんねるが集合知だと当時の文化人に称賛されていたのは、端的にネット社会の未来を過信する人が大半だったからです。

これは『2ちゃん化する世界』の第2章で詳しく書きましたが、当時の2ちゃんねるは「海賊主義」だったわけです。既存の倫理や法、利害関係や既得権益者を破壊し、それらの裏側をかいくぐりながら生き残っていくのだという考え方、アナーキーなある種のヒッピー主義が、2ちゃんねるの背景にはありました。

そこに通底していたのは、他者の自由を侵害しない限りにおけるあらゆる自由を尊重しようとする自由至上主義、いわゆる「リバタリアニズム」です。その限界が表出したのが当時の2ちゃんねるだったのだと思います。

同時に初期の2ちゃんねるは、ネットリテラシーの高いいわば「ひねくれもの」、つまり嘘を嘘として見分けながら楽しんでいる人が使っている場所だった。ところが、iモードの登場などによりネットユーザーが指数関数的に爆発し、リテラシーが高くない人たちも巻き込まれていったとき、虚構をリアルだと信じてしまったり、虚構であっても感情のなかでリアルであれば、かまわないという人が大量に現れたというわけです。

連邦議事堂襲撃事件は、その末路だとも言えます。

■「第2の宗教改革の時代」に突入している

現代のインターネットは、宗教改革期のような時代に置かれているのだと思います。

マーシャル・マクルーハンはその代表作『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』(みすず書房)で、活版印刷技術と宗教改革の結びつきについて、述べています。

要はこういうことです。

かつて聖書というのは、司祭が独占していた。一般の信者は聖書なんて持っていないですし、そもそもラテン語で書かれていて、読めなかった。こうした状況が、活版印刷技術の普及により、大きく変わったわけです。現地の言葉で出版・頒布できるようになり、誰もが読めるようになった。こうして活版印刷技術の普及が宗教改革に結びついたというのです。

活版印刷
写真=iStock.com/Nastco
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nastco

現代のインターネットの状況もこれと非常によく似ています。かつてテレビや新聞といったマスメディアが独占していた「発信」を、YouTubeやSNSを通じて誰もが手軽に行えるようになった。誰でも発信できて、大量にアップロードできて、しかも自由に意見を述べて、視聴者・読者も自由に選択できるようになったわけです。そして、誰もが発信できるようになったがゆえに、これまで既存の権威が保っていた発言の質や中立性が担保されなくなっている状況でもあるのです。

■連邦議事堂襲撃事件は序章にすぎない

宗教改革期というのは、200年にわたる殺し合いの時代でした。徹底的な破壊と殺し合いが行われ、血塗られていた時代を経過したうえで、ようやく信仰の自由が保障されるようになった。「第二の宗教改革の時代」であるインターネットの時代も血塗られた時代になっていくかもしれません。連邦議事堂襲撃事件というのは、その序章に過ぎない。

石井大智、清義明、安田峰俊、藤倉善郎『2ちゃん化する世界』(新曜社)
石井大智、清義明、安田峰俊、藤倉善郎『2ちゃん化する世界』(新曜社)

マクルーハンはこうも言っています。テクノロジーが社会を変革し、人間の知性を変えようとしつつある時に、バックミラー、すなわち過去の事例を見ているだけでは不十分だと[『メディア論 人間の拡張の諸相』(みすず書房)]。匿名言論とどう付き合っていくべきかは、前を見ながら運転していかないとわからないのではないでしょうか。

良い方向に行くのか、悪い方向に行くのか。我々がどういう技能を知っているのか、それに対してどういうリアクションを取っていくのか。ネットにおける匿名カルチャーというモンスターと対峙(たいじ)しながら、考え続けていくしかないと思っています。

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清 義明(せい・よしあき)
フリーライター
1967年生まれ。横浜市在住。フリーライター。オン・ザ・コーナー代表取締役CEO。著書『サッカーと愛国』(イースト・プレス)でミズノスポーツライター賞優秀賞、サッカー本大賞優秀作品を受賞。共著に『2ちゃん化する世界』(新曜社)、『コンスピリチュアリティ入門』(創元社)がある。

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(フリーライター 清 義明 構成=小池真幸)

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