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エリートに求められる節度がまるでない…立川談慶が「慶應の応援はOBとして恥ずかしい」と断じるワケ

プレジデントオンライン / 2023年8月31日 17時15分

107年ぶりの優勝に盛り上がる慶應の応援席=2023年8月23日、甲子園 - 写真=時事通信フォト

■慶應の応援にもやもやした

第105回夏の全国高校野球選手権大会は神奈川県代表の慶應義塾高校のなんと107年ぶりの優勝で幕を閉じました。

長髪OKのエンジョイベースボールを貫く姿勢は、旧態依然の体質への長髪ならぬ小気味いい「挑発」にも感じ、さわやかで酷暑の今年を日本中クールダウンさせてくれました。推薦制度の充実はあるとはいえ、それだけで優勝ができるわけでもなく、「2時間練習」を標榜し、結果を出してしまうのですから、「地球沸騰化の中のこの時期の開催」という疑問すらをも吹っ飛ばすようなまさに「快哉(かいさい)」を叫びたいほどの大快挙であります。

私は慶應義塾大学の出身です。なので、素直に「慶應関係者」という立場で、お祝いを申し上げますが、その優勝直後からのあの「応援」に関してのさまざまな意見が飛び交っています。私もいろんな思いを感じたもので、以下、私の今回感じた「もやもやした部分」などを申し上げたいと存じます。無論これは私個人の「もやもやした部分」であり、そして、もしかしかたらこれは「世間一般の皆様が慶應に対して抱くもやもやした部分」そのものではないかとの思いに達し、筆を執らせていただきます。

まず刮目したのが準々決勝での沖縄尚学戦での大声援でした。

それまで順調なピッチングを続けていた沖縄尚学のエースの東恩納君が慶應の代打・清原君が打席に立った時の大声援に明らかにのまれてしまった表情にくぎ付けになりました。本人も「明らかにあの応援からがきっかけだった」と述懐していました。その後の慶應ナインのみならず会場にいた慶應OBの魂を鼓舞するような「若き血」と、のんびりとした鎮魂歌である「エイサー」がとても対照的だったのが印象的でした。

フラットな立ち位置から見て年端もいかぬ高校生が大声援で委縮してしまうさまは、同じ世代の子を持つ親として忍びなく、正直観たくないなと思ったものです。

予感として、「これは決勝に進めばもっと激しい応援になるなあ」と思い、本当につらくなりました。

観ないつもりでいましたが、カミさんは「あなたは談志師匠から『談』とも名づけられているのよ。決勝戦は観なきゃ」とも言われ、無論慶應高校を応援しながらも、圧倒的大多数の歌う「若き血」に少なからずクエスチョンを抱きながら観戦することにしました。

■声援でかき消された仙台育英のかけ声

慶應優位に進めていた5回、見たくなかった景色がそこに広がっていました。

大応援団からの声援で掛け声がかき消された上での落球による失点でした(テレビでは明らかにそう見えました)。無論攻撃側の慶應は、そこで「若き血」の大合唱。相手チームの失敗は、味方チームの得点に結びつくのがスポーツです。純粋に慶應に点が入ったことを喜ぶのは当然ですが、私にはそこで「高校生のしくじりを無邪気にビールを飲みながら喜ぶオトナたち」の姿が浮かび、胸が苦しくなってしまったのです。

陽気な群衆のシルエット
写真=iStock.com/Nosyrevy
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nosyrevy

泣けてきてしまいました。

勿論そのせいで仙台育英が負けたなんて思ってもいません。そう思ったとしたらそれこそ仙台育英に対してとても失礼です。

「なんでこんなに、自分は『若き血』という曲を聴くと複雑な気持ちになるのだろう」。

思い出が徐々にプレイバックされてきました。

■サークルで徹底的に教えられた「若き血」

断っておきますが、私は「若き血」が好きです。

この応援歌は、1年生がその居場所を求めた先のサークルでの先輩方から徹底的に覚えさせられます。当時は絶対的体育会系的サークルの「落語研究会」でした。

「1年アメーバ、2年虫けら、3年人間、4年天皇、OB神様」という上下関係の結束の下、落研の1年生は「若き血」と他校の校歌に当たる「塾歌」を覚えて春の早慶戦は「神宮球場左中間鉄塔下」に集合したものでした。そこでピンチの時のチャンスの時も「若き血」を熱唱し、応援に訪れたOB各位と肩を組んで歌ったものでした。

歌い終わりが「陸の王者、慶應」という、エンディングにならずに延々と歌われる曲調は確かに前向きになるような感じがするもので、慶應大学2年の次男はもちろん、法政大学4年の長男も素直に「カッコいいよ」と言うほどです。

「若き血」には罪などないのですが、ここからは私が複雑な思いを抱くに至った理由を申し上げます。

■学歴がコンプレックスだった父

その前に私の父親のことからお話ししましょう。

私の父は昭和6年9月19日という、満州事変の翌日、つまり日本の暗黒期に生を受けました。日本全体が窮乏期でもあり、終戦直後の国民学校高等科(今の中2)の時に、14歳で家計を背負うために働きに出ました。

学歴は高校すら行けなかった父のコンプレックスとなりました。地元の丸子実業(現・丸子修学館)高校が甲子園に出場した時、近所の子が選手として頑張っている姿を見て「俺も高校で野球、やりたかったな」と涙を流したのが私の幼き日の父親の「原風景」になりました。

「勉強で頑張れば、親父は喜ぶ」。原風景は原動力にもなりました。私の兄を1歳2カ月で亡くしていることがそれに拍車をかけます。

真剣にテストに取り組む男子学生
写真=iStock.com/xavierarnau
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xavierarnau

「学校出てなくて馬鹿にされたこともあったよ」と酒を飲んで泣く姿も何度も見たものです。高校から私を私立に行かせてもくれました。その学費を払うべく有機溶剤系の仕事に携わり、それがもとで宿痾のような公害病を背負ってしまいました。

そんな父親の苦労とは裏腹に私は大学に入り、青春を謳歌し、就職したまではよかったのですが、サラリーマンを3年務めただけで私は談志門下の落語家になりました。

■慶應出身のクセにと罵られた私

さあ、そこでは徹底的に学歴を否定される地獄の修業生活が待っていました。

談志は特に厳しく、何かにつけ「慶應」という経歴が私の言動をチェックする指針となりました。普通に物事を処理しても「慶應だから」と言われ、それとは真逆にドジな私でしたから、「慶応出ているのにこの程度か」と罵倒される日々の連続でした。

父親が「学校出ていないから」と馬鹿にされ泣き、その息子は「大学出ているのに」と馬鹿にされ泣くという構図は、正直今でもこうして綴っているだけで涙があふれそうなほどセンシティブなのです。

■中途半端な私と「三田会」

「一切学歴は伏せよう」と前座の時はそうふるまうのが当然となり、それも慣れつつあった頃、とある慶應関係者の方から結婚式の司会の仕事をいただきました。

そこで、出席者の中のごく一部の慶應関係者が、酔っぱらった勢いで「若き血」を歌い始めたのです。

私は「慶應関係者以外の人が感じた『若き血』への違和感」を司会者というフラットな立場として、全身に浴びることになりました。

「若き血」を神宮以外の、慶應関係者以外も大勢いる環境で歌うことへの周囲からの「拒否感」でした。詫びを入れに向こう側になだめに行こうとすると、「あんたもそちら側だもんな」と明らかに私もその経歴から「拒否」されることになりました。

こんな雰囲気になったのは一度や二度じゃありません。

あの頃の釈然としない心模様、まるで「こうもり」のような中途半端な自分の居場所が、今回の夏の甲子園でよみがえってきてしまったのです。

そして、9年半という長い年数を前座に費やした暁に、談志に命名されたのが「談慶」という芸名でした。これは同時に「慶應関係者にも顔を売れ」という「解禁」でもありました。以後、真打昇進の口上書きには当時の慶應義塾・安西祐一郎先生に書いてもらうなどのご縁も芽生え、慶應義塾のOB会組織「三田会」にも厄介になっています。

つまり、私の「慶應」との距離感はとてもアンビバレントで、センシティブなものなのです。

こんな歴史を歩んできたのだから、「若き血」や「塾歌」に対しては「慶應出身者以外もいる席で歌われるケース」に対しては敏感になってしまうのです。

慶應義塾大学
写真=iStock.com/mizoula
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

■談志が教えてくれた世間の目

そして、今回それが神宮球場ではなく、甲子園球場でしたからその思いはより増幅されてしまったのです。

あの記念すべき優勝からしばし時間も経過し、冷静に反芻してみると、たとえば自分も得意先の塾高関係者から応援に誘われて甲子園に行っていたとしたら、大声援を上げていたのかもしれません。仙台育英応援側のサンドイッチマン伊達さんの「慶應のあの応援はあれでいい」というコメントも伝わってきています。久しぶりに大観衆と一体感で味わうノスタルジーには限りない魔力があります。私もそれにはシンパシーを覚えます。

でも、やはり、あの大声援は恥ずかしかった。

それは前座時代に談志から盛んに言われた「慶應出身なのに」という叱責にあるかもしれません。これは世間の目を代弁しているものだったと思うのです。落語家にしてみれば一番大切な感受性の特訓でもありました。

世間はただでさえ不景気なのに、「平日の昼間から新幹線使って甲子園まで行き、ビールを飲んで無邪気に応援している人たち」に対して、目の敵になるのは当然です。そんな恵まれた階級にいると思われている人たちが、いくらスポーツの声援の延長とはいえ、球児へよりも自分たちの郷愁を優先しているようにしか見えなかったとしたら……。

慶應の場合、「社中協力」という精神があり、直接の慶應高校卒業生ではなくとも、「慶應」のよしみで応援し合うのが前提となっています。でも、それだって慶應関係者以外の方から見たら「身内びいき」「自分たちの利益のために群れている」と判断されてしまうものなのです。

今回、思い浮かんだ言葉があります。それが、「ノブレスオブリージュ」です。洋菓子屋の名前ではありません(笑)。

「高い社会的地位には義務が伴う」ということを意味します。今回これが幾分足りなかったのではないでしょうか。

■応援のルールも必要だ

無論紳士淑女を野放図にしてしまうものこそ野球の醍醐味で、そんな野球の行く末を案じた新渡戸稲造らが明治時代に「野球害毒論」(連載名「野球と其害毒」)を朝日新聞に連載していました。

立川 談慶(著)的場 昭弘(監修)『落語で資本論 世知辛い資本主義社会のいなし方』(日本実業出版社)
立川談慶(著)的場昭弘(監修)『落語で資本論 世知辛い資本主義社会のいなし方』(日本実業出版社)

そこで提案です。ルールとしての応援の節度を明文化するのは野暮なのかもしれませんが、せめて「アルコール類の飲酒と発売は中止」というわけにはいかないでしょうか。甲子園球場の経営に水を差したくはないのですが、確か「塾歌」は飲酒時には歌ってはいけないという規則を大学1年の時に教え込まれたこともふと思い出しました。

重ね重ね、あの応援を不快に感じた方々ごめんなさい。その場に居合わせたわけでもなく、お門違いみたいですが、こんな下積みの長かった不器用でドジな慶應関係者もいますよとご理解ください。長くはなりましたが高校野球のますますのご発展と、そして慶應高校、仙台育英高校両校のさらなるご活躍を心よりお祈り申し上げます。

そして、近著『落語で資本論』、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

ゲームセット。

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立川 談慶(たてかわ・だんけい)
立川流真打・落語家
1965年、長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。ワコール勤務を経て、91年立川談志に入門。2000年二つ目昇進。05年真打昇進。著書に『大事なことはすべて立川談志に教わった』など。

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(立川流真打・落語家 立川 談慶)

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