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大奥の上級女中は年収2000万円以上…「選ばれし女性の園・大奥」で徳川の歴代将軍が毎日やっていたこと

プレジデントオンライン / 2023年10月14日 12時15分

橋本(楊洲)周延『千代田之大奥 歌合』(画像=PD-Japan/Wikimedia Commons)

江戸時代の将軍たちはどんな生活を送っていたのか。歴史作家の河合敦さんは「江戸後期の将軍は1日の大半を江戸城の中奥で過ごしており、午後1時から夕方まで政務に当たった。毎朝10時には大奥に向かい、側室や上級女中たちの出迎えを受けていた」という――。

※本稿は、河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■将軍が目覚めると、江戸城内が一斉に動き出す

将軍がどのような一日を送っていたのかを紹介したいと思う。とはいえ、時代によって将軍の一日は大きく異なる。今回は、江戸後期の日常生活を語っていこう。

将軍は一日の大半を奥(中奥)で過ごす。朝6時に御休息の間御上段で目覚めると、これを確認した小姓は「もう」と合図する。すると、一斉に人々が朝の支度にとりかかる。

一方、将軍は用を足しに行く。便所は大便所と小便所(それぞれ京間一間)が二枚立障子で隔てられている。冬は便所に火鉢を置き、夏は小姓が団扇であおいだり、蚊遣りをたいたりした。

将軍が便所から戻ると、水の入った茶碗が用意されている。口に含んでうがいを終えると、今度はたらいのお湯で顔を洗い歯を磨く。

■朝10時ごろ、大奥で将軍を出迎える「総触」

朝食は午前8時頃である。粗食だが毎日鱚(きす)の塩焼きと漬焼がつく。ただ一月に三度は鯛(たい)や鮃(ひらめ)の尾頭付きになる。食べたい料理を希望する将軍もいる。家斉などは尾張の鮨を好み、家慶はショウガを毎日食べたと伝えられている。

朝食の最中に御髪番(おぐしばん)が髪を整え、食後に医師の診察がある。その後は自由時間となり、何でも好きなことをしてかまわない。

午前10時頃になると、大奥へ向かう。大奥では御台所(みだいどころ)や側室、上級女中たちがずらりと並んで将軍を出迎える。これを総触(そうぶれ)という。それが終わると、将軍は中奥へ戻った。ただ場合によってはしばらく大奥にいることもあった。

昼食は正午である。前述のとおり料理を大奥で食べる将軍もいた。二の膳付きで、鯛や鰈(かれい)、鰹(かつお)などが出た。

午後1時から政務が始まる。御休息間で老中らから届いた案件を御用取次や側用人に順番に読み上げさせ、それを聞いて次々に決裁していく。可決された案件は「伺之通りたるべく候」という紙札をはさむ。意に沿わないものは、御用取次を通じて再考をうながした。

■脱衣から着替えまですべて小姓がやってくれる

政務を終えるとしばし楓(かえで)の間でくつろいだが、その後ろに御用の間(四畳半の座敷)があり、大切な考え事をするときはここに籠もった。座敷には簞笥があり、中に将軍自筆の書類や目安箱の意見書、諸大名に与える判物(はんもつ)などが入っている。この部屋で花押(かおう)を書き朱印を押した。

午後5時からは入浴時間になる。将軍は風呂場に行くだけで何もしない。服を脱がせることからはじまって、身体を洗うことから着替えるまで、すべて小姓がやってくれるからである。

午後6時頃から夕食となる。おかずは9品出たが、全部は食べきれないので、箸をつけるだけのものも多かったという。

その後はまた自由時間になり、読書や娯楽など好きなことをして過ごし、夜10時頃に就寝した。なお、大奥へ渡り、御台所や側室と過ごし、そのまま泊まる場合もあった。

■大奥は本丸のほか西の丸、二の丸にもあった

大奥は、江戸城の中にある将軍の妻子が住む区画である。ただ、広義には大奥と呼ばれる場所は、江戸城に三つほど存在する。あまり知られていないが、本丸、西の丸、二の丸それぞれに大奥があったのだ。

本丸御殿の大奥には、将軍の妻子が住んでいる。西の丸の大奥には、将軍の跡継ぎ(世嗣)とその妻子、あるいは大御所(将軍を引退した人)とその妻子が住んだ。二の丸の大奥には、将軍の生母、前将軍の正妻や側室などが生活していた。

ただ、一般的に大奥といった場合、やはり本丸御殿にある大奥をさす。

江戸城の本丸御殿は、大きくわけて表・奥(中奥)・大奥という三空間からなる。

国立歴史民俗博物館所蔵「江戸図屏風」部分
国立歴史民俗博物館所蔵「江戸図屏風」部分(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

面積でいうと、このうち大奥は御殿全体の約6割を占めていた。

ちなみに「表」は、幕府のさまざまな儀式をおこなったり、将軍が諸大名と対面する空間であった。「奥」は、将軍の執務室であるとともに、将軍が日ごろ生活する居住空間である。「大奥」はさらに「奥」の先に位置する。

■大奥のうち「広敷」は役人の武士だらけ

家康の頃には大奥は制度として定まっておらず、男の家臣も将軍の妻子が住む空間にある程度出入りが認められていたようだ。しかしやがて奥(中奥)と大奥のあいだは銅瓦塀で分断され、出入口は御鈴(おすず)廊下と称する渡り廊下のみとなる。

その名称の由来だが、綱を引くと鈴が鳴るしくみになっていたからというが、どのようなものだったかは全く不明である。ただ御錠口(おじょうぐち)という渡り廊下への入口は、九尺七寸(約3メートル)の頑丈な杉戸で閉ざされた。たとえその先に進んでも、渡り廊下を渡り切る手前に杉戸があり、大奥側から施錠されていた。

本丸御殿は明暦(めいれき)の大火で焼失したが、その後、火事のさいの避難用としてもう一つ渡り廊下が新設された(下御鈴廊下)。このため最初の御鈴廊下を上御鈴廊下と呼んだ。

大奥は御広敷(おひろしき)、長局(ながつぼね)向、御殿向という三空間からなる。意外なことだが、広敷は男だらけだった。広敷は大奥の事務や警備にあたる武士たちがつめる場所なのだ。男子禁制というイメージが強い大奥だが、じつはそうではない。

ただ、広敷役人たちが奥女中(大奥で働く女性の役人)と自由に接触できるかといえば、そんなことはない。女たちがいる長局とは七ッ口で、御殿向とは御錠口で厳重に仕切られ、男の役人はここより先には入れないことになっていた。

■女性官僚・奥女中のヒエラルキー

御殿向という空間は、将軍と御台所(正室)の生活の場であった。ここでは、奥女中たちが将軍や御台所の世話などにあたった。そして長局、この場所は奥女中が住むプライベート空間だった。

奥女中は、幕府の女性官僚といってよい。その職二十以上の階級に分かれていて、最高位を上﨟御年寄(じょうろうおとしより)という。一般的には京都から輿入れした皇族や公卿出身の御台所に従って江戸にやってきた公家出身の娘であることが多い。

そんな職制で上﨟御年寄に次ぐのが御年寄だが、実際はこの役職が幕府における老中にあたる。格式的には十万石の大名に匹敵し、大奥を取り仕切るトップであった。よく時代劇などで総取締役という奥女中が登場するが、あれはフィクションである。

■大奥がいまも「謎多き存在」であるワケ

次いで御客応答、御中﨟(ちゅうろう)、御錠口、表使など多くの役職があるが、御三之間から以下は将軍に会うことができない(御目見以下)。御中居(なかい)、火之番、御半下(おはした)といった御目見以下は、御家人のみならず、町人や百姓の娘から採用されることも少なくなかった。

また、上級の奥女中になると、個人的に雇用したり面倒を見ている部屋方(部屋子)が数名から十数名いた。彼女たちの多くも商人や豪農の娘で、大奥では行儀や芸事が学べるので、短期間でも奉公すると箔(はく)が付いて良縁に恵まれたため、つてをたどって娘を大奥へ入れる人々も少なくなかった。

四代将軍以降、たびたび出された女中法度によって、大奥内での出来事は他言してはならない決まりになっており、大奥入りするさい、女中になる者は血判付きの誓紙を差し出した。近年は地方の農村文書などによって多少は大奥の出来事がわかってきたものの、まだまだ謎が多い。

そもそも上級の奥女中は、病気療養などでない限り、長期的に江戸城から出ることは許されない。中級の奥女中である御次(おつぎ)以下は、宿下がり(休暇)が許された。といっても、大奥に入ってから3年目で初めて6日間、6年目で12日間、9年目で16日間という少なさであった。

■上級女中は年収2000万円超の厚待遇だったが…

とはいえ、高級女中はかごの鳥だったわけではない。将軍や御台所の代参というかたちで、寺社参詣は許されていたからだ。ただ、中には絵島(えじま)のように芝居を見たあと、役者と密会して処罰されることもあった。また、ホストクラブのような寺院が摘発されるケースもあった。

上級女中になると、今でいうと2千万円以上の年収があったとされる。また、30年勤続すると屋敷が下賜され、その賃貸料が懐に入ったうえ、死ぬまで年金がもらえた。

大奥には部屋方を含め、多い時期には3千人を超える人々が暮らしていたとされる。そんな莫大な人件費もあって、大奥は幕府支出のおよそ1割を占めたという。このため享保(きょうほう)の改革をはじめた八代将軍吉宗は、奥女中のうち50人をリストラした。そのやり方だが、美女を50名集めさせたうえで、彼女たちに「若くて美しければ、良縁に恵まれるだろう」と退職を申し渡したのだ。

■将軍が手をつけて良い女性は8人程度

大奥は将軍の妻子が住む空間であるが、同時に徳川家の血筋を残す役割が期待された。ただ、将軍が大奥の女中すべてと性愛関係を持てるわけではない。奥女中は、将軍付、御台所付、世嗣付など仕える主人が決まっていた。一番格が高いのは将軍付で、給与もよかったし数も多かった。

将軍が手をつけて良い者は、将軍付の奥女中のうち中﨟の職にある者たちだった。旗本の娘が多く、人数は8人程度である。意外に思う読者も多いだろう。もちろん、どうしても気に入った奥女中がいれば、将軍ゆえ例外もあったが……。

将軍のお手が付いた女性がすぐに側室として遇されるわけではない。子供を産むとか、将軍にとくに気に入られてたびたび同衾(どうきん)を求められると、別室を与えられて御部屋様と呼ばれ、側室に昇格した。

■政治力を抑制するため、寝室に監視がついた

河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)
河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)

大奥は強い政治力を持っており、桂昌院(けいしょういん)(綱吉の生母)に取り入った柳沢吉保、月光院(げっこういん)(家継の生母)に信頼された間部詮房などは、幕府で権力を握っている。また田沼意次が栄達した一因は、大奥を巧みに懐柔し、思うがままに動かせたからだとわかっている。

ただ、将軍綱吉の頃から将軍と同衾した奥女中が政治的な願い事をしないよう、不思議な制度が成立する。床入りのさい、まったく関係ない女中などが寝室におり、一晩中寝ないで睦言(むつごと)に聞き耳を立て、翌朝、どんなことを話したかを報告するのだ。

ただ、それでも政治力は衰えず、将軍家斉に寵愛された側室・お美代(みよ)の方の親族は、仏教界で大きな力を有している。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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