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関ヶ原は「天下分け目の戦い」ではなかった…豊臣秀頼の家臣だった徳川家康が天下をとった本当のタイミング

プレジデントオンライン / 2023年10月29日 15時15分

関ケ原古戦場(写真=Drivephotographer/CC-Zero/Wikimedia Commons)

徳川家康が石田三成らを破った関ヶ原の戦いは「天下分け目の合戦」といわれている。歴史評論家の香原斗志さんは「それは間違っている。関ヶ原の戦いは豊臣政権内の内部抗争の末に起きたものだ。戦いに勝利した家康が天下をとったわけではない」という――。

■「東軍の勝利」=「家康の勝利」ではない

 周知のとおり、関ヶ原合戦は「天下分け目の戦い」と呼ばれる。徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いる豊臣方の西軍との決戦で、勝利した徳川の覇権が確立された――。多くの人がそう思っているのではないだろうか。

だが、現実には、関ヶ原合戦は豊臣政権内の内部抗争の末に起きたもので、家康はあくまでも豊臣政権の大老として戦った。だから、関ヶ原合戦が大きな節目になったのはたしかだが、東軍の勝利によって、ただちに家康の天下になったわけではないのである。

それはどういうことか。関ヶ原合戦とはどんな戦いだったのか。それを考えるために、合戦にいたる経緯を確認しておきたい。

慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が伏見城で死去すると、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)の10人が、豊臣秀頼への忠誠を誓う起請文をしたためた。

翌慶長4年(1599)1月、家康はほかの9人から詰問される。秀吉が大名同士の私婚や同盟を禁じたのに、家康が3人の大名と姻戚関係を結んだからだ。家康を糾弾する三成と家康を支持する大名とが一触即発の状態になったが、なんとか収まり、家康の行為は不問に付された。

そこに閏3月3日、前田利家が死去して、ふたたびきな臭くなる。その翌日、三成ら五奉行の政治運営に不満をもつ細川忠興や福島正則ら7人が大坂で三成を襲撃。家康の調停で収まったが、三成は近江(滋賀県)の佐和山城(彦根市)で隠居することになった。ここまではNHK大河ドラマ「どうする家康」の第40回「天下人家康」(10月22日放送)で描かれた。

■家康は秀頼の後見人にすぎなかった

三成が佐和山に移ると3月13日、家康は豊臣政権の政庁である伏見城に移った。これを見た奈良の多聞院の僧英俊は「天下殿ニなられ候」と記すなど(『多聞院日記』)、家康が天下を統率しつつあると世間がみなしたのはまちがいない。

その後、事態が大きく動く。8月に上杉景勝と前田利長が国元に帰ると、9月には大坂で家康の暗殺計画が露見。家康は警護を厳重にするために伏見から軍勢を呼び寄せ、大坂城に入城。その後、西の丸を占拠して天守まで建てた。暗殺云々は前田利長らを排除するための捏造(ねつぞう)だともいわれ、大坂城入城は家康のクーデターだった可能性がある。

事実、暗殺計画の首謀者とされた前田利長は弁明が聞き入れられず、翌慶長5年(1600)に母の芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることで、ようやく和睦している。豊臣政権の五大老の一画を占めた前田家は、事実上、家康に臣従したのである。同様に嫌疑をかけられた浅野長政も領国の甲斐(山梨県)への蟄居(ちっきょ)を命じられた。こうして家康は、五大老と五奉行の体制を骨抜きにし、自分に権力を集中させていった。

ただし、誤解してはいけない点がある。家康は秀頼の後見人にすぎなかった。『板坂卜斎日記』は「この節、家康公を天下の家老と敬ひ申、主人とハ不存」と記している。すなわち「西の丸に入った家康は『天下の家老』として敬われていたが、『(天下の)主人』と思われていたわけではなかった」(福田千鶴『豊臣秀頼』)。

■豊臣政権を背負っての出馬

慶長5年(1600)になると、家康は上杉景勝の動きを問題にした。景勝は秀吉の生前に越後(新潟県)から会津(福島県会津地方)への国替えを命じられたが、五大老の職務が多忙で新領国の経営に時間を割けなかった。そこで国元に帰っていたが、2月に越後の堀秀治の重臣が、景勝は城郭や道路を整備し兵糧を蓄えるなど「謀反」の動きをしていると、家康に報告したのである。

それを受けて上洛を求めても景勝が応じないため、家康は会津征討を決定。6月16日にみずから5万6000ほどの兵を率いて大坂を発ち、7月1日に江戸に到着。7月19日に嫡男の秀忠が、21日には家康が江戸を発って会津に向かった。

家康のこの動きが石田三成らを刺激し、関ヶ原合戦につながった。だが、ここでまた、家康の会津攻めは「豊臣政権による上洛要請に従わなかった上杉景勝の征討ということであったから、まさに豊臣公儀を背負った出馬であった」(本多隆成『徳川家康の決断』)ことを確認しておきたい。

ところが家康と秀忠が江戸を発つころ、三成が会津へ進軍中の大谷吉継を誘って挙兵したという知らせが届けられたのである。家康も秀忠も江戸を発ちはしたが、今後どうするか、7月25日に下野(栃木県)の小山(小山市)で諸将の意思を確認することになった。いわゆる小山評定で、近年、この評定が「なかった」という説も唱えられているが、ここではあった前提で話を進める。

■一転して反乱軍に

会津討伐には家康の直臣のほか、豊臣系の武将が数多く参加していたが、笠谷和比古氏は、彼らは2つの類型に大別されるとする(『論争 関ヶ原合戦』)。

1つは「義務的動員」である。会津討伐は「豊臣公儀の名の下に行われる謀反人討伐を目的とした公戦であり、家康は豊臣秀頼の名代として進軍するのであるから、所定の武将たちは義務として動員され」る。対象地域の近くに所領がある大名に出陣義務が生じるので、この場合は家康が進軍する東海道沿いの武将が中心になる。もう1つは四国や九州などが領国の武将で、笠谷氏は、従軍の義務がないのに家康に与すると表明した「思惑つき従軍」と呼ぶ。

多くの豊臣系武将は豊臣政権の義務として出陣しており、三成が挙兵したからといって、家康は主従関係がない彼らに戦いを命じることはできない。だから小山で彼らの意思を確認する必要があり、その結果、三成らの挙兵という不測の事態への対処を優先すべきだ、という結論が得られた。

豊臣系武将たちは、福島正則の居城である尾張(愛知県西部)の清須城(清須市)をめざすことになったが、すぐ別の不測の事態が起こった。7月17日に三奉行が家康に背き、家康の非道を13カ条にわたって書き連ねた「内府ちがひの条々」を、三奉行連名の添え状をつけて全国の大名に発給し、さらには毛利輝元が大軍を率いて大坂城に入ることも決まった。

要するに豊臣政権によって、三成側の軍勢が正規軍、家康側は討伐すべき反乱軍と認定されてしまったのである。

「関ヶ原合戦図屏風」
「関ヶ原合戦図屏風」(画像=岐阜市歴史博物館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■家康ではなく秀頼のために

小山評定の時点では、まだ「内府ちがひの条々」の知らせは家康側には届いていなかったが、その存在を知ったとき、とくに「義務的動員」されていた豊臣系武将たちは、家康の指示に従うかどうかわからない。だから、家康は動けなくなった。1カ月ほど江戸城に留まっている。

だが、清須城に集まり、家康の到着を待っていた豊臣系武将たちはしびれを切らし、公然と家康への疑問の声を上げていた。そこに8月19日、家康の使者の村越直吉が到着し、「おのおの手出しなく候ゆえ、御出馬なく候、手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」と、家康の意思を伝えたという(『慶長年中卜歳記』)。

あなたたちが動かないから自分は留まっていたという、諸将を愚弄(ぐろう)したような言い方だが、笠谷氏は「家康一流の計算があっての事だろう」と記す(『論争 関ヶ原合戦』)。事実、これが大いに効果を発揮したのである。

豊臣系武将たちは先を争って進軍し、長良川を渡って岐阜城(岐阜県岐阜市)を攻略。その知らせを受けた家康は、すぐに出馬するので、自分と中山道を進軍中の秀忠を待つように指示した。

豊臣系武将たちが「反乱軍」と認定されながらも、三成との決戦を選んだ理由は、福島正則の「秀頼様御為よきやうに仕るべく候」という言葉に象徴される。彼らはあくまでも三成を倒すことが「秀頼様御為」だと考えるから戦った。しかし、家康の到着前に彼らが決着をつけてしまったら、その後の家康の立場は弱まってしまう。

■秀忠遅参の影響

家康は焦ったものと思われる。出陣を9月3日としながら1日に繰り上げ、東海道を急行して11日には清須に着き、14日には美濃(岐阜県西部)の赤坂に着陣した。こうしてなんとか15日の関ヶ原合戦に間に合ったが、秀忠は間に合わなかった。

秀忠にとっては上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻略が重要な任務で、そこで時間を要したのはある程度仕方ないが、遅参の影響は大きかった。家康が率いる3万は防御的な旗本部隊で、徳川軍の精鋭は秀忠が率いる3万に集中していた。家康は「秀頼様御為」に戦った豊臣系武将たちのおかげで勝利したのだが、秀忠が間に合わなかったために、彼らの貢献度は増した。

家康は9月27日、大坂城本丸で秀頼に戦勝報告をした。前出の本多氏はこれを「家康はふたたび豊臣公儀を担って、今回の合戦はいわば君側の奸である三成らを除いたものであった、という建前のもとで行われたものとみなされる」と記す(『徳川家康の決断』)。

徳川秀忠像
徳川秀忠像(画像=松平西福寺蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■すぐに徳川政権になったわけではない

また、戦後は88の大名が改易、毛利や上杉ら有力5大名が減封となり、日本全国の総石高の3分の1を超える633万石が没収された。そして、その8割強に当たる520万石余りは豊臣系大名にあてがわれた。彼らの貢献による戦勝である以上、家康には致し方のないことだった。

また、このような領地配分では、領地宛行の判物や朱印状が発給されるのが普通だが、「豊臣家の大老」にすぎない家康はそれを発給できなかった。このため、領地を給付したのは家康なのか、秀頼なのか、判然としないことになった。

大坂には豊臣秀頼がいて、その権威は失われず、西国の8割は豊臣系大名の領土であり、関ヶ原合戦の決着はついても、家康は秀頼の臣下のままだった。家康が豊臣公儀に替わる徳川公儀をめざしたのはその後のことである。

3年後に征夷大将軍になり、その地位を2年で秀忠に世襲することで、徳川公儀の優位性は全国に示されたが、官位は秀頼のほうが秀忠より上だった。慶長16年(1611)には秀頼に臣下の礼とらせたが、家康の死後、朝廷が秀頼を関白に任ずる可能性がないとはいえない。天下が名実ともに徳川のものになるには、大坂の陣を経る必要があったのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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