本当に「普通の着物」で乗務していた…1959年入社の元CAが語る「JALファーストクラス」のすごいサービス
プレジデントオンライン / 2023年11月14日 10時15分
■JALは19年ぶりに国際線ファーストクラスを刷新
JALは2023年内に「エアバスA350-1000」を羽田―ニューヨーク線に就航させる予定だ。19年ぶりとなる国際線フラッグシップ機(基幹機材)の更新となる。これまでの国際線運航の経験を集中させ、コロナ明けの国際線需要の取り込みを狙う。
最上級となる「ファーストクラス」は1-1-1(横3列)で計6席を設ける。JALとしては初の扉を設けた個室型のものとなるという。これまで日本のエアラインで最小密度の配列だ。シート幅は約123cm、壁高は157cmの広々とした作りだ。
まさに「豪華そのもの」座っているだけで一流ホテル並みのサービスが受けられることには違いないが、かつてのJALファーストクラスは、これを凌駕するようなサービスが存在していた。JALは2024年に国際線就航70周年を迎えるというこの時期、初期のころは現代とはまた違った別の豪華さがあった。どのようなサービスの変遷を経たのか、筆者が所蔵する画像や資料を基にたどりたい。
■就航当初は片道30時間で、全席ファーストクラス
JALによる日本初の国際定期航空便は、1954年2月2日から始まった。36人乗りのプロペラ機「ダグラスDC-6B型機」で、羽田⇔ウェーキ(太平洋中西部にあるアメリカ領の環礁)⇔ホノルル⇔サンフランシスコ間を週2往復した。機体の航続距離が短いためにホノルルまで直行できなかったことから、片道30時間の長旅だった。
JALによると、当初はファーストクラスの設定しかなく、航空運賃は米西海岸往復(羽田―サンフランシスコ間)で1170ドル。当時は1ドル=360円の固定相場であり、46万8000円となる。日本銀行の統計によると、当時のサラリーマンの平均月収は2万8283円だったので、日米を一度往復するだけで平均月収の16倍以上の費用がかかったことになる。
ちなみに就航から2カ月後の4月1日より、「1等クラス」(ファーストクラスに相当)に、現在のエコノミークラスにあたる「ツーリストクラス」が加わり、2クラス制となる。国際線の初年には既に現在に近いクラス制が始まった。
■着物姿で客室乗務員がおもてなし
JALの航空機は豪華客船「太平洋横断便」と名付けられ、一流のサービスをうたっていた。DC-6Bの就航に合わせて作成されたパンフレットによると、現在のファーストクラスは「菊サービスデラックス」と呼んでいた。フルコース(シャンパン付き)の食事提供はもちろん、「最高級の西洋料理に加え、東洋の人気料理」も振る舞われた。
「お茶やカクテルの時間には、デラックスキャビンが空飛ぶ『茶屋』に早変わりする」と紹介されている。パンフレット(右下)で、「茶屋」と呼んだ機内の様子がわかる。
まっ先に目に入るのは着物姿の女性乗務員だろう。中央には三味線を演奏する乗客だろうか。制服の乗務員は男性客にオードブルを提供している。機内では日米のスナック、ワイン、ウイスキー、カクテルが提供されていたようだ。
■元CAの証言「トイレで着替えて、便座の上で裾合わせをした」
筆者は、「スチュワーデス」としてJAL国際線に乗務していた福田和生(かずみ)さんに、着物について話を聞いた。1959年入社、DC-6Bにも乗務経験がある。
「(当時の客室乗務員は)普通の着物と全く変わらないものを着用していました。機内前方のトイレで着替え終わると、便座の上に立って鏡に写して裾合わせをしたものです」
「あとからセパレートの着物ができましたが、私の時は普通の着物でした。ある時、(著名なファッションデザイナーの)イヴ・サンローランさんが搭乗され、着物をしげしげと眺め、いろいろ質問されたことが記憶に残っています。この着物は、機内で1名だけが担当になって着用するのですが、新人が着ることが多かったですね。当時は30歳が定年でしたので、乗務経験は10年ほどです」
夜間飛行に備えた深いクッションのラウンジ・チェアもあったようだ。リクライニングはかなり後ろまで倒れ、足元もゆったり。追加料金を支払えば、「バース」と言われる寝台も利用することができた。機内でフルフラットになる環境は航空事業当初から存在していたのだ。
■当初パイロットに日本人はいなかった
機内サービスにおける案内には別の面白い記述もある。
「機内ではきつと皆様の御満足を頂ける日航自慢の御食事を無料でサービス致しております。その他御希望に応じて御飲み物お煙草も取り揃えておりますので、スチュワデスにお申し付けください。なお、飛行中と途中降機地でのこれらのサービスは一切無料でございます。スチュワデスその他の者への御心付けは固くご辞退申し上げます」
無料であることが2回も出てくる。心付けという表現も含め、日本人の慣れない国際化への指南をしているようで興味深い。
また、当時の国際線パイロットはアメリカ人であり、日本人はいなかった。機長はもちろんのこと、副操縦士もアメリカ人で100万~200万マイルの飛行距離で2200回も飛んだ経験者と書かれる。連合国軍総司令部(GHQ)の指導で戦後の翼を地上に置いた日本で機長のライセンスを持つ者はいなかったからだ。日本人機長候補者は、同じ操縦席のうしろに座り、外国人操縦士からノウハウを学んでいた。
世相を反映して興味深いのは、「KANGEI」のパンフレットにて案内されている次の一文だ。
「旅は道連れ 日航機で太平洋を越えられることは、いろいろな方に会われる本当に都合のよい機会でございます。お客様は皆、面白い話題の持主であり、豊富な海外旅行の経験をお持ちの方も多いことでございましょう。貴方がお仕事でご旅行の場合でも、御一緒に御搭乗されたお客様の中には共通の興味を持たれる方がきっとおいでになることと思います。御希望があれば喜んでご紹介申し上げます」
個人情報が厳格に守られる現在ではこのようなサービスは許されるものではないが、当時のゆるやかな旅の行程が思い浮かぶようだ。
■途中降機のウェーキで優雅に朝食を
当時の航空機DC-6Bは4発のプロペラ機で、巡航速度が時速520km、航続距離が4100kmと短かく、直行便は飛ばせなかった。そのため東京から、燃料補給のためウェーキを経由する必要があった。
興味深いのは経由地のウェーキ島、ホノルルでのおもてなしだ。当時のパンフレット「ウェーク島ご案内」には、旅客に面倒な途中降機を少しでも快適に過ごしてもらおうと、細かなサービスが行われていたことが分かる。パンフレットを見てみよう。
「ウェーキ島(旧大鳥島)に着陸いたしますと直ちに皆様をバスで別図に示す食堂にご案内申し上げ、御朝食をさし上げることになっております。(中略)日中ならば素晴らしい写真もお撮りになることができ、よいご旅行の記念になるかと存じます。絵葉書、お手紙などを投函御希望の方は、日本航空乗務員までお申し出下さい。御食事後、食堂から再びターミナル・ビルへスチュアデスが御案内申し上げますから、出発までゆっくりご休息下さい。皆様、この約1時間半の滞在期間中、ウェーキ島の熱帯情緒を充分にお楽しみください」(ウェーク島御案内より、島名はママ表記しています)
なおホノルルでは、空港内のレストランで夕食が用意された。当時は旅の行程全体がサービスになっていた。
■プロペラ機からジェット機へ…「日本風」の豪華な機内装飾
1958年2月12日からは、新たに4発プロペラ機の「DC-7C」が、羽田からホノルル経由でサンフランシスコに就航する。座席数57席は国際線仕様だ。前方のツーリストクラスで39席、後方のデラックスクラスに18席が設置された。この席は、6つのバースといわれる寝台に変身した。巡航速度は時速550km、航続距離は6500kmになる。
この機材は航続距離が長く、羽田を離陸するとホノルルまでを直行で結んだ。この頃に機内食をワゴンに乗せて提供する方式が始まり、機内でくつろぐための「法被コート」が乗客に配られた。
1960年8月12日、初めてジェットエンジンを搭載した「DC-8-32型」が、羽田とサンフランシスコを直行で結んだ。時速876kmで、従来機より時速が300km以上もアップ。定員はファーストクラス36席、ツーリストクラス68席の計104席と倍近くに増えた。
DC-8-32型機は「空の貴婦人」とうたわれ、客室に設けられた純日本風のラウンジや西陣織のシートなど「日本文化」を強くアピールしたサービスが評判を呼んだ。
■伊勢エビ、キャビアが山盛り…群を抜いた機内食
当時から機内での空の上の食事は空の旅への憧れを形にする重要なサービスだった。機内食では、伊勢エビが当然のごとく皿を飾っており、キャビアも含まれるオードブルの品数の多さがわかる。
1964年の写真では、かぶとをかたどったパイから見た目の絢爛(けんらん)さが際立っている。これを客室乗務員がトレーに盛って客席まで運んだのだ。ワゴンでまとまって運ばれる現在の機内食サービス風景とは違い、よりパーソナルなものとなっている。
空の旅は、まだまだ日常の延長線上とはいかなかった頃の話だ。1966年6月のビートルズの来日は、後世に残るJALの輝かしい歴史になる。羽田空港で見せたJALと染め抜かれた法被を羽織る4人の姿は話題になった。
また「音速に近い日本の穏やかな美しさ」と題するJALのパンフレットによると、カーペットは枯山水の砂をイメージした作りとなっており、シートの生地は、西陣織で松の木をモチーフにしているという。カーテンには菊の花がデザインされ、荷物棚には亀甲模様が施された。
ラウンジは畳のようなじゅうたん敷きだった。窓には障子が取り付けられ、日本画家・前田青邨が描いた装飾画が飾られている。このように、機内のいたるところで「日本風」が強調されていることが分かる。モデルとなる旅客は全て西洋人であり、国際線ならではの難しい集客の苦労が垣間見れる。
■機長がサインした「日付変更線通過証」「北極通過証」
当時の機材導入のペースは早く、1954年の就航開始から6年で3機の機体が登場したことになる。ファーストクラスのさらに前方の操縦席との間に4人向かい合わせのラウンジが設置されていた。羽田空港の整備格納庫内には、DC-8-32最初期型JA8001「FUJI」号のラウンジを含む機首部分が保存されている。
「日本のつばさ 日本航空のご紹介」の冊子ではこう書かれてある。
「お客様の旅のつれづれをお慰めするための碁、将棋、チェス、チェッカー、トランプ等が取り揃えてございます。特にお子様のためにお人形、紙風船、クレヨン、画用紙とピクチュアパズルなどもあります。(中略)前の座席のポケットには、いろいろのパンフレット、時差通貨の換算表、メモ用紙、絵はがき等の入った『フライト・キット』が入れてあります。また、海外旅行の記念としてご搭乗機の機長がサインした、美しいデザインの『日付変更線通過証』、『北極通過証』をご希望のお客様にお送りしています」
航空機の旅がまだ夢の体験だったころの話だ。長時間のフライトに備えて多くの娯楽がそろえられていたことも興味深い。
■機内ラウンジは社交場のようだった
1954年の国際線就航時から、パンフレットには必ず着物姿の客室乗務員が登場する。DC-8機を中心に当時スチュワーデスとして国際線を多く乗務していた福田和生さんの話からも、これは決してPR用のものではない。
福田さんは、日本航空に1959年に入社した14期生で、同期20人とともに、DC-6BやDC-7Cのプロペラ機に乗った。多くの経歴は入社翌年に導入されたDC-8ジェット機での乗務だったという。福田さんは当時をこう振り返る。
「当時、欧州線では北回りと南回りがあり、それぞれローマとコペンハーゲンに1カ月ほど駐在して、『インターヨーロッパ』という欧州域内のみを飛ぶ乗務もありました。ファーストクラスのサービスの思い出は、前方のラウンジで社交場のようにお客さまが利用してくださったことです。ギャレーが近いので、お飲み物のサービスがしやすかったですし、トイレ待ちの方々もたばこをたしなまれたりして座っていらっしゃいました。お食事は座席でとっていただくのですが、ワゴンでサービスし、そのワゴンには伊勢エビや各種オードブルを載せていましたので、それは豪華な様子でした」
■ジャンボジェット機に寝台が登場
その後、1970年に「ボーイング747ジャンボジェット」が導入され、空の旅に大衆化の波が押し寄せた。それでも、ファーストクラスのサービスは、群を抜いていた。当時のパンフレットでは、大きさを象徴する「空飛ぶ豪華船」や「The Garden Jet」などとの呼称もつけられていた。
ジャンボジェットのアッパーデッキにスカイスリーパーと称する寝台を設置したのは1978年のことである。
「日航ジャンボに、寝室を作りました」のキャッチでチラシが作成され、カーテンで仕切られた5台の寝台が並ぶ様子が紹介されている。ファーストクラス運賃に追加料金を取る形で予約を受けていた。その値段は、米国西海岸で3万5600円、欧州で4万2500円だった。
これ以降、ボーイング777-300ERが出現するも、41年間もジャンボジェットはフラッグシップとして君臨した。胴体だけでなく、すべてにおいてビッグな機体だった。
■ニューヨークに直行する専用機が就航
1983年にはボーイング747の長距離バージョン「-200B型」で、東京からニューヨークへ直行できる専用機「エグゼクティブエクスプレス」が就航した。
当時のパンフレットには、速達の様子を「日航ニューヨーク・東京新幹線」などと紹介されている。ファーストクラス44席、Jクラス(当時のビジネスクラス)128席、エコノミークラス114席の計286席の余裕あるシート配列が話題になった。
この成功を機に、1985年にはエコノミークラスを廃止するオール上級クラスの747も出現した。ファースト44席、エグゼクティブクラス204席計248席のみの仕様も完成した。1990年には、ボーイング747-400が登場し、長距離路線のノンストップ便が当たり前のように市場に定着した立役者がこの機体だ。フラッグシップに磨きがかかったといえよう。
1991年3月にはワシントンD.C.線に3カ月の期間限定ながら「JAL寿司バー」サービスを始めた。機内で握りたての寿司が食べられるとは、何とも贅沢な経験だ。ファーストクラスの機体前方向けに配膳台が備え付けられ、2人の板前が腕を振るった。ジャンボジェットならではの機内の余裕の配置である。
2000年代になると、航空機に求められるものが、大量輸送や超音速機などの速度と比較して燃費効率化などの方向に進んでいった。
■進む機材の世代交代
2004年には、同年内にJALもANAとともにボーイング777-300ERを国際線に投入開始している。同機に加えてボーイング747-400の2機種がフラッグシップとして日本と世界を結んだ。先に導入が開始されて燃費効率の悪い4発エンジンのジャンボジェットは先に退役する。これを加速させたのは、今回の主人公であるJAL自身だ。
2010年の経営破綻でボーイング747-400を全機退役させることを決定し、最終機は2011年10月19日にその役目を終えた。以降、現在までの12年間はコロナ禍も含め文字通りボーイング777-300ERが最重要路線で用いられた。
現在のファーストクラス「JALスイート」は2013年から導入されている。このシートこそ、今年中に導入される予定のA350-1000に装備されるファーストクラスシートの原型と言える。
当時のパンフレットには、「デザインしたのは、居心地というレベルを超えた、住み心地。お客様が空の上であることを忘れるような『住まい』を目指しました」と書かれている。書斎、寝室のような木目調の上質な空間に快適なテンピュールの寝具が用意されていた。
ちなみに、このフラッグシップ機の歴史は、そのまま日本国政府専用機の沿革と同じ流れを取る。それ以前はJALやANAの機体をチャーターする形態であったが、専用機として1993年からボーイング747-400が投入され、2019年からはボーイング777-300ERに変更された。民間で長く運航する機体は自衛隊が管理する要人輸送に使いやすい。
■新機種のファーストクラスはJAL初の個室、ゆったり仕様
これからJALのフラッグシップ機になるA350-1000のファーストクラスはどのようなものになるのか。最前方に位置し、計6席の個室空間になる。従来に比べ40cmほど横幅が広がったこともあり、仕様が発表されたときには驚きをもって迎えられた。
ベッドになるシート幅は約123cm。これはエコノミークラス46cmの約3倍でセミダブルのベッドサイズほどになる。さすがに足元のサイズは絞られているものの、上半身部分は大人2人がゆったり座れるサイズになるどころか、オットマン部分にもう一人座り3人で過ごすことさえできる広さだ。
他には、足元には機内サイズのスーツケース2台を収納できるスペースがあり、上着や靴を置けるワードローブも用意されている。また、ヘッドセットを着用せずともヘッドレストに内蔵されたスピーカーで音声を楽しめる。空の上のシアタールームだ。機内用のリラクシングウェアを使用すれば、極上の空の上のベッドにもなる。
機内食に関しては、専用メニューは発表されていないが、従来の「BEDD」と称する世界で一番贅沢なレストランのメニューに磨きがかかるのだろう。アルコール飲料ではシャンパーニュサロン2013が提供されており、ワイン通をうならせている。
■ANAを追うJALには絶好の機会
過去にユニークなサービスを展開してきたJAL。海外に出掛ける時にはぜひとも利用してみたい航空機が導入されることになった。コロナ禍で打撃を受けた航空業界がよみがえる、いい時期に投入されることになったと思う。
日本一の輸送力をANAに奪われたものの、いまも最大の競合関係が続いている。JALのおもてなしは、こうした歴史とライバルの存在によってさらに磨きがかかるものと期待したい。
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航空ジャーナリスト
大阪府出身。幼いころからの航空機ファンで、乗り鉄ならぬ「乗りヒコ」として、空旅の楽しさを発信している。海外旅行情報サイト「Risvel」で連載コラム「空旅のススメ」や機内誌の執筆、月刊航空雑誌を手がけるほか、「あびあんうぃんぐ」の名前でブログも更新中。航空ジャーナリスト協会所属。
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(航空ジャーナリスト 北島 幸司)
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