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リベラル派の「本当の民主主義」という言い方はおかしい…「厄介な保守派」との議論を避けてはいけない理由

プレジデントオンライン / 2023年12月14日 15時15分

ルイス・C・モラー(1855–1930)『異なる意見』、ハイ・ミュージアム(米ジョージア州アトランタ)蔵(写真=CC-PD-Mark/PD-Art/Wikimedia Commons)

「民主主義」とはどのような考え方なのか。批評家・哲学者の東浩紀さんは「リベラル派はよく『本当の民主主義』といった言いかたをする。けれども、本当の民主主義なんてない。民主主義の本質は『みんなでルールをつくる』ということにある」という――。(第2回/全2回)

※本稿は、東浩紀著『訂正する力』(朝日新書)の一部を修正・再編集し、編集部で加筆したものです。

■日常のなかの無意識とメタ意識

訂正は、だれもが日常的にやっている行為です。その意味に自覚的になり、現実の変革に活かそうというのが、『訂正する力』の提案です。

そもそも訂正とはなんでしょうか。結論から記すと、訂正の本質はある種の「メタ意識」にあると言うことができます。自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、距離を感じたりするときに、訂正の契機が生まれます。そういう距離感がなければ、そもそも訂正の必要がありません。

ぼくたち人間は、多くのことを無意識にこなしています。水を飲むときにコップをもつ、家を出るときにドアに鍵をかける、電車に乗るときに改札でスマホをかざす……そういうときはふつうなにも考えていません。

では、どういうときに「考える」ようになるかというと、無意識にやっていたことがうまくいかなくなったときです。いつもあるはずの鍵がないとか、いつもあるはずのスマホがないとかいうことです。それは体の不調のせいかもしれないし、外界の状況が変わっているサインかもしれない。そのときに「ん、おかしいな」と感じ、外界と調整する必要が生まれる。

つまり行動を訂正する必要が生まれる。それが意識の出発点です。そういう意味では、意識するとはすでに訂正するということにほかなりません。

■訂正することは生きることの基本

自分の行動を訂正して、外界に合わせていく。それが生きることの基本です。それは動物もやっていることですが、人間はその訂正の能力をとくに発達させたため、意識をもつようになったと考えられます。

ぼくは人類学や脳科学の専門家ではありません。だからあくまでも素人の考えとして聞いてほしいのですが、「いままではこう行動していればうまくいったけれども、状況が変わってうまくいかなくなった、それならばこうしてみればどうだろう」といった、訂正のシミュレーションが意識の起源なのではないでしょうか。そして、最初は意識しながらやっていく行為も、繰り返されて訂正が必要なくなると無意識のなかに沈んでいく。

■仲間内の言葉が通じないとき

言葉についても同じことが言えます。「意識しないで話す」と言うと突飛に聞こえるかもしれませんが、ひとは仲間内ではほとんど無意識で言葉や口調を選んでいます。たとえば、リベラル派の仲間内だったら、あまり深く政策について考えなくても、憲法改正や防衛費増額に反対していればなんとかなるわけです。

水面のイメージ
写真=iStock.com/nyaivanova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nyaivanova

ところがそこに保守のひとが紛れ込むとそうはいかない。では日本の安全保障はどうするのですか、と正面切って尋ねられてしまいかねない。ここで「考える」ことが必要になります。そして「いまの言いかたでは伝わらないから、別の話しかたをしよう」と試行錯誤を行うことになる。

前回で述べたように、日本ではそういう試行錯誤を嫌うひとがたくさんいます。誤りを認めたら負けだと思っているからです。けれどもそれはまちがっています。

試行錯誤をすることは主張を曲げることとは違います。環境が変わったので、言いたいことがいままでの表現だと通じなくなった。だから、新しい環境でも通じるように表現を変えるというだけの話です。それが訂正する力です。

■「これが結論です」で終わるものは対話ではない

以上の簡単な説明でわかるとおり、訂正する力とは、そもそも生きることの原点にある力です。そして、あらゆるコミュニケーション、あらゆる対話の原点にある力でもあります。

魚のイメージ
写真=iStock.com/Tammy616
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tammy616

ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家がいます。『ドストエフスキーの詩学』という有名な本を書いているのですが、そこで対話が重要だと述べています。

ただ、それはふつうの対話ではありません。バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。

つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

これはとても重要な指摘だと思います。よくひとは、対話が必要だ、話しあってくださいと言います。でもそれはたいてい、なんらかの合意や結論に達するための手続きにすぎません。バフチンは、そういうものは対話ではないと言っている。

■対話とは共通の語彙をつくっていく作業に近い

言葉を発するとき、ぼくたちの頭のなかには抽象的な概念が確固なものとしてあるわけではありません。Aさんのなかに概念があり、それがBさんに渡されて、Bさんがそれを理解するという過程ではないのです。

では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙(ごい)をつくっていく作業に近い。言葉を交わすというゲームを遊びながら、同時に言葉を使うルールを一緒につくっていくような行為なわけです。

言葉の意味は事前に確定していると思うかもしれません。でも意外とそうでもないのです。たとえ意味が確定していてもニュアンスが異なることがある。

たとえばさきほどの例だと、リベラル派は軍の存在について当然のように否定的に語る。けれども保守派はそうではない。ニュアンスが違うわけです。

■ジャズのセッションのような「調整」

そのとき、自分はこういう言葉を使った、そうしたら向こうは予想とは異なる反応を返してきた、このままだと対話が成立しないから言葉を変える。そうすると話がさきに進んでゲームが成立する。そういうことを繰り返していくわけです。その調整は終わることがない。それがバフチンが言っていることです。

植物のイメージ
写真=iStock.com/picturethatphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/picturethatphoto

ぼくは音楽は詳しくないのですが、それはジャズなどのセッションに似ているのではないかと思います。他人の演奏をリアルタイムで感じ取り、それに合わせて自分の演奏を調整し変化させていく。

そういう身体的なフィードバックを抽象化したものが、ここでいう訂正する力にほかなりません。

■哲学者クリプキの思考実験「クワス算」

もうひとつ紹介したいのが、ソール・クリプキというアメリカの哲学者が『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という本で展開した議論です。ウィトゲンシュタインというのも哲学者の名前です。

クリプキの議論はつぎのようなものです。ふたりのひとが一緒に足し算をやっているとします。1+1は2だね、2+2は4だね、とひとつひとつ答えを確認して話を進めている。

そして足し算が68+57に到達したとします。答えはむろん125です。Aさんは125と答えます。ところがBさんは5だと言う。

当然Aさんは「なんで5なんだよ」と言うでしょう。それに対してBさんがつぎのように答えたとします。「いやいや、5でいいんだよ。というのも、じつはぼくたちがずっとやってきたのは、足し算(プラス算)ではなく『クワス算』という特殊な演算だったんだ。それは足す数の片方が56になるまでは足し算と同じ答えを出すんだけど、両方が57以上になると答えが全部5になるんだ。いままでずっと足し算をやってきたと思ってきた、きみがかんちがいをしているんだよ」と。

ここで68+57=5はただの例で、ほかの数字の組みあわせでもかまいません。どれほど多くの足し算をやってきていても、これまで使ってこなかった数字の組みあわせは絶対に存在する。だからBさんみたいな主張はいつでも可能です。

■厳密に考えれば「屁理屈」には勝てない

また、そもそも足し算でなくても似た例をつくることは可能です。問題の要点は、複数の人間がひとつのゲームに参加し、あるところまではなにも問題が起こらずルールも共有されていると思っていたにもかかわらず、突然片方が「おまえの理解は違っていた」と言い出す、その事態をどう理解するかということです。

むろん、常識で考えれば、クワス算をもち出したBさんの言い分は完全な言いがかりであり屁理屈です。なに言ってんだとつまみ出されるのがオチです。

ところがクリプキによれば、学問的に厳密に考えると、そのような屁理屈を言い負かすことは絶対にできない。どういうふうに反論したとしても、似たような屁理屈で言い返されてしまうのです。このあたりはじつにおもしろい議論なので、興味があるひとはぜひクリプキの本を読んでみてください。

■理不尽なクレーマーへの2種類の対処法

日常の例で解釈するならば、この議論は、言うなれば、ぼくたちはクレーマーを完全には撃退できないという話だと理解すればよいでしょう。

いくらルールを厳密に定めたとしても、あるとき突然変なやつがやってきて、「おまえはこのゲームについてまったく理解してなかったんだ、本当のルールはこっちなんだ」と言いがかりをつけられる。そんな可能性はけっして排除できない。それがクリプキが証明したことです。

だから、クレーマーへの対処はつねに考えておかなければいけない。そのとき対処には2種類あります。ひとつは「ではきみ、出禁ね」とゲームのプレイから排除すること。たいていはそうなります。

でも違うケースもあります。「なるほど。きみはルールをそう解釈していたんだね。そういうひとがいるんだったら、では新たな解釈で行こうか」とルールを拡張したり、訂正したりすることもあるわけです。さすがに足し算ではルールを変更するわけにはいきませんが、そういうことがあるからこそゲームは豊かになります。じつは自然科学においてさえ、そのようなルールの変更はめずらしいことではありません。

ここでクリプキの哲学はバフチンの対話論とつながります。そして訂正する力の本質とも関わってきます。

■「変人」の挑戦に対処しながらつぎに進む

バフチンは、対話は終わらないと言いました。クリプキは、どんなルールを設定してもいちゃもんはつけられると指摘しました。

これは言い換えれば、人間のコミュニケーションは本質的に「開放的」だということです。

ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっています。社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になります。

裏返すと、これはルールにはつねに穴があるということでもあります。「ルールを守らないひとがいて困る」という話ではありません。じつは人間は、ルールを守っていても、あるいは守っているふりをしても、なんでも自由にできてしまうのです。ルールはいくらでも多様に解釈可能だからです。それがクリプキが証明したことです。

■ガーシーがしてみせたことの意味を考えてみる

これは政治にも関わる話です。時事問題で考えてみます。

暴露系ユーチューバーの東谷義和(ひがしたに よしかず)(ガーシー)さんは、2022年7月、NHK党から立候補して参議院議員に当選しました。にもかかわらず、滞在先のドバイから帰国せず、議場に姿を見せなかった。2023年に入って参議院が東谷さんを除名し、その後脅迫などの容疑で逮捕されていまに至ります。彼の行動に正当性があるのかどうか、半年ほど日本のメディアは大騒ぎでした。

東浩紀著『訂正する力』(朝日新書)

国外滞在のまま当選し、国会議員になったあとも帰国しない。こういうケースをいままでの法律は想定していませんでした。このようなルール破り、あるいは「ハッキング」に対してどのように対処するか。これはすごく大切な問題です。

というのも、東谷さんのようなケースは今後も出てくると考えられるからです。選挙制度にはさまざまな穴があります。それを私利私欲のために利用するひとは、これからのSNS時代どんどん出てくるでしょう。

そこで「ガーシーの行為は民主主義の精神に反する」と叫んでもあまり意味がありません。そういうひとが現れることも含めて民主主義だからです。

■「ハッキング対応の思想」としての民主主義

民主主義においては、ルールは国民、つまりゲームの参加者自身が定めることになっています。だからあらゆる可能性を潰すルールをつくることはできません。また、どんなルールも「ハッキング」されると考えなければいけません。社会を守るためには、東谷さんのような「ハッカー」「クレーマー」に個別に対処し、ルールを訂正していく柔軟性が求められます。今回の件については、第二の東谷さんが現れないように速やかに法整備を進めるべきでしょう。

言い換えれば、民主主義とは、本質的にクレーム対応やハッキング対応の思想なのです。そういう本質は、政治思想を学ぶよりも、むしろバフチンやクリプキのような言語哲学を学ぶことで理解できます。

■訂正する力とは民主主義の力のことである

リベラル派はよく「本当の民主主義」といった言いかたをします。けれども、本当の民主主義なんてありません。民主主義の本質は「みんなでルールをつくる」ということにあります。「正しさ」もみんなで決めるものです。だから、どんなルールをつくってもそれを悪用する人間は必ず出てくるし、既存の民主主義の常識を破る人間は必ず現れる。そういう構造になっているのです。

完璧に正しい市民を育て、完璧に正しい法制度をつくり、完璧に法が守られる社会をつくろうという発想には意味がありません。むしろ、ルールが破られたとき、それにどう対処するかが民主主義の見せどころです。この点において、訂正する力とは民主主義の力のことなのだとも言えます。

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東 浩紀(あずま・ひろき)
批評家・哲学者
1971年東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。同社発行『ゲンロン』編集長。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『弱いつながり』(2014年、紀伊國屋じんぶん大賞2015「大賞」)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『哲学の誤配』(2020年)、『訂正可能性の哲学』(2023)『訂正する力』(2023年)ほか多数。対談集に『新対話篇』(2020年)、 『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン)がある。

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(批評家・哲学者 東 浩紀)

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