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プーチンは「ヒトラーの失敗」を繰り返している…2人の独裁者に共通する「精鋭部隊の無駄遣い」という史実

プレジデントオンライン / 2024年1月27日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bruev

2022年2月、ロシア軍はウクライナ・キーウ近郊のアントノフ国際空港を急襲占領した。しかし、空挺部隊は地上軍の救援を受けられず潰滅した。現代史家の大木毅さんは「生煮えの状態で強行され、失敗に終わった空挺作戦の例は戦史に少なくない。世界の軍事筋を驚かせたドイツ軍のクレタ島作戦も、同じような結末だった」という。大木さんの新著『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)から、両軍の共通点を紹介する――。

■エリートがそろう空挺部隊を使いこなせない

空挺(くうてい)作戦には華やかな印象がある。

しかしながら、長駆敵陣を衝(つ)くというその本質ゆえに、

空挺作戦にはおのずから危険がつきまとう。空からの奇襲によって目標を占領したとしても、敵が動揺から立ち直って反撃に出てきた場合、空挺部隊がそれらを維持するのはきわめて困難だ。

空挺部隊は、物質的には重装備を持たない軽歩兵にすぎないからである。そうして敵中に孤立するかたちになった空挺部隊のところに、味方の地上部隊が駆けつけることができればともかく、救援に失敗すれば大損害は必至となる。

二〇二二年、ウクライナ侵攻の際に、首都キーウの空港を急襲占領したロシア軍空挺部隊が、後続の空輸部隊、あるいは進撃してくる地上軍の救援を受けることなく潰滅した事例は記憶に新しいところであろう。

加えて、空挺作戦には、しばしば作戦・戦術次元のリスクがともなう。開戦劈頭の奇襲・強襲は措(お)くとして、空挺部隊が投入されるタイミングは、敵軍が敗走し、追撃戦の段階に移ったときということが多い。

かような状態ならば、敵の混乱に乗じて、通常ならば設定しにくい目標に空挺作戦を行なうことも可能となるし、降下後の「空挺堡」(空挺部隊が降下後に制圧している地域。「橋頭堡(ほ)」の空挺部隊版と考えてもらってよい)への地上部隊の連結も容易となる。

■ロシア軍とドイツ軍の共通点

だが、そうしたテンポの速い作戦は、往々にして拙速になる。予定目標の偵察や所在の敵戦力の推定も充分ではないし、投入される部隊の作戦準備に万全を期すことも難しい。

にもかかわらず、空挺部隊の指揮官、もしくは空挺部隊を有する司令官は、敢えて空からの急襲を実行したがる。逆説的なことだが、そうした追撃戦においては、巧遅を選べば、その間に地上部隊が設定された目標を占領してしまい、空挺部隊の出番がなくなってしまうがゆえである。

 かかる焦りから、生煮えの状態で強行され、失敗に終わった空挺作戦の例は戦史に少なくない。空挺作戦を成功させるには、さまざまなハードルを乗り越えねばならないのだ。それゆえ、青天の霹靂のごとく要地を奇襲できるという戦略的利点に魅せられ、人的・物的資源の最良の部分を投じて空挺部隊を編成しながら、使いこなせずに終わるということさえある。

 実は、空挺・空輸部隊が初めて独力で目標を占領し、世界の軍事筋を驚かせたドイツ軍のクレタ島作戦も、かくのごとき矛盾を抱えていた。しかもそれは、作戦の指揮を執ったクルト・シュトゥデントという歴史的個性によって、拡大されていたのである。ここでは、そのような戦略・作戦次元の問題に注目しながら、クレタ島の戦いを検討していくことにしよう。

■「世界初の空挺作戦」が失敗に終わったワケ

一九四一年四月、ナチス・ドイツは、ユーゴスラヴィアとギリシアに対する戦争を開始した。強大な空軍の支援のもと、装甲部隊を先陣に立てて攻め入ったドイツ軍に、小国ユーゴスラヴィアとギリシアの軍隊、さらには、彼らを支援したイギリス軍も太刀打ちできず、なだれを打って敗走した。

ユーゴスラヴィアは約十日で制圧され、四月十七日に降伏する。ギリシア本土も二十日ほどで占領され、ギリシア政府は南のクレタ島に逃れる。

この電撃的な勝利を、切歯扼腕の思いで注視していた将軍がいる。ドイツ空軍のクルト・シュトゥデント航空兵大将、「降下猟兵(ファルシルムイェーガー)」部隊の創始者として知られた人物だ。

第二次世界大戦がはじまるや、シュトゥデントはその降下猟兵を率い、ノルウェーやオランダへの侵攻に際して空挺作戦を敢行、大きな戦果を上げた。いわば、降下猟兵のボスともいうべき存在である。

ドイツがバルカンに介入した時点では、第一一空挺軍団長に補せられていたシュトゥデントは、かかる経歴から、また、自らが拠(よ)って立つ降下猟兵という新兵科の利害を守るためにも、その存在意義を示さなければならないと考えていた。

これまでのような小部隊による奇襲にとどまらず、空挺部隊には戦略・作戦次元でも決定的な威力があることを証明するのだ、と。

■ヒトラーはクレタ島攻略に積極的ではなかった

シュトゥデントはギリシア侵攻において空挺作戦を実行すべしと強硬に主張した。

実際、サロニカ付近やコリント運河の橋梁(きょうりょう)などで、小規模な作戦は実施されたのだけれども、この程度では空挺部隊の真価が発揮されたとはいえない。しかも、一部の攻撃は失敗していた。シュトゥデントは、直属上官である第四航空軍司令官アレクサンダー・レーア航空兵大将(五月三日、上級大将に進級)に、空挺作戦の計画を矢継ぎ早に提案した。

エーゲ海中部のキクラデス諸島のうち、一つ、もしくは複数の島を占領するのはどうか。キプロス島やクレタ島は、空挺作戦の目標にするだけの価値があるのではないか?

シュトゥデントのたびたびの要請を受けたレーアは、一九四一年四月十五日、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥(「元帥」の上に特設された階級)に空挺部隊によるクレタ島攻略の計画案を提出した。

ゲーリングはクレタ島空挺作戦を支持した。ゲーリングはヒトラーのもとに、シュトゥデントと空軍参謀総長ハンス・イェショネク航空兵大将を派遣し、計画の説明に当たらせることにした。

四月二十一日、総統に面会したシュトゥデントは熱弁を振るった。ヒトラーは必ずしもクレタ島攻略に積極的ではなかったが、シュトゥデントに説得され、作戦実行を許可した。おそらくは、イギリス軍のクレタ島保持を許していれば、その航空基地から、ドイツの戦争継続にとって不可欠のプロエシュチ油田(ルーマニア)が爆撃されると危惧したのが決め手となったのではないかと推測される。ただしヒトラーは、準備期間が短くなるけれども、五月中旬には作戦を発動せよと条件を付けていた。

クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊
クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊(写真=連邦公文書館/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons)

一九四一年四月二十五日、総統指令第二八号が下令される。

「東地中海における対英航空戦遂行の基地として、クレタ島占領を準備すべし(『メルクーア』作戦)」(Hitlers Weisungen für die Kriegführung 1939-1945, herausgegeben von Walther Hubatsch.)。

■待ち構えていたイギリス軍

一九四一年五月二十日早朝、クレタ島西部の空は、鉄十字の国籍マークを付けた航空機の大群がとどろかす爆音に包まれていた。午前七時十五分、リヒトホーフェンの爆撃機編隊がハニアならびにマレメ付近に対する攻撃を開始し、イギリス軍の高射砲陣地を沈黙させる。

スダ湾でドイツ軍の爆撃を受けるイギリス船
スダ湾でドイツ軍の爆撃を受けるイギリス船(写真=帝国戦争博物館/PD-UKGov/Wikimedia Commons)

この爆撃遂行中に、島の沖合で曳航してきたJu―52輸送機から切り離された、グライダー五十三機が突進し、マレメ飛行場の西に強行着陸する。グライダーから飛び出してきたのは、空挺突撃連隊第一大隊隷下(れいか)の二個中隊だった。

続いて、同連隊の第二、第三、第四大隊が落下傘降下にかかる。空挺突撃連隊を主体とする西部集団が第一波攻撃隊として、最初にクレタ島に殺到したのだ。

 しかし――着地直後、それどころか、落下傘降下中の宙に揺れているときから、彼らは激烈な銃火にさらされた。降下空域の地上にあったニュージーランド第五歩兵旅団は、圧倒的な光景に動じることもなく、堅固な陣地から降下猟兵たちに防御射撃を浴びせてきたのである。

多くの将兵が空中で戦死、もしくは負傷した。作戦初日にマレメ飛行場を奪取し、空輸により増援を運び込むという任務を果たすことは不可能になった。西部集団は、飛行場外縁部にたどりついたものの、イギリス軍の抵抗をくじくことはできず、攻撃中止を強いられる。

■目標を一つも奪取できないドイツ軍

「奇襲」されたのはイギリス軍ではなく、降下猟兵の側であることはあきらかだった。ドイツ軍はそうとは知らぬまま、自分たちにはない重装備を持ち、数も多く、しかも防御陣地の有利を生かした敵を攻撃していたのである。

西部集団の第一波についていうなら、最初に降下した二千人弱はおよそ一万二千人の敵に対していた。これでは、彼ら、先陣を切った降下猟兵の半数ほどがたちまち死傷したというのも無理はあるまい。

 イギリス軍は、傍受した無線暗号通信を解読していたのに加えて、ギリシア本土に大量の輸送機が集結しているとの情報を得ており、ドイツ軍は必ずや空挺作戦を実行するものと判断していた。

それを受けて、クレタ島防衛軍の司令官、第一次世界大戦で英軍最年少の将官というレコードをつくったこともある、ニュージーランドのバーナード・フレイバーグ少将は、三カ所の飛行場を中心に強固な陣地を築いていたのだ。

その兵力も、ドイツ軍の予想をはるかに上回るものだった。ニュージーランド第二師団を基幹として、オーストラリア軍やギリシア軍の部隊を加え、およそ四万二千人の将兵を有するまでになっていたのである。

結局、「メルクーア」作戦初日に投入された第七空挺師団の諸部隊は、ただの一つも目標を奪取できず、流血を重ねるばかりだったのである。

■戦術的成功に救われる

だが、シュトゥデントは幸運なファクターに恵まれていた。

一つには、戦闘初日の成功にもかかわらず、イギリス軍が、航空優勢を得たドイツ空軍が縦横無尽に繰り広げる爆撃に動揺しはじめていたことがある。また、通信手段が充分でなかったため、クレタ島防衛軍の司令官フレイバーグは麾下部隊の現状を正確に把握できず、ドイツ軍の圧力を実際以上に大きなものに感じていたことも、シュトゥデントにとって有利に作用した。

もう一つは、現場の降下猟兵が恐るべき消耗に耐えながら、なお戦意を失っていなかったことであった。とくに、いわゆる瞰制(かんせい)地点、マレメ飛行場を見下ろす一〇七高地における成功が大きい。五月二十日には何一つ良いことがなかったようではあったが、この日の夜に空挺突撃連隊はからくも一〇七高地の頂上を奪取していたのだ。

この攻撃を指揮した突撃班の指揮官は、こう述懐している。「われわれにとっては幸いなことにニュージーランド兵は逆襲してこなかった。もし、そうなっていたら、弾薬がなくなっていたから、石と小型ナイフで守るしかなかったろう」(カーユス・ベッカー『攻撃高度4000』)。

まさしく「幸いなこと」ではあった。イギリス軍が一〇七高地を取り返すチャンスは、この二十日から二十一日にかけての夜しかなかったのである。一夜明けて日の出を迎えれば、ドイツ側は航空支援を得られるから、奪還はきわめて困難になるのだった。

事実、マレメ飛行場を制圧できる一〇七高地をドイツ軍が押さえたことは、クレタ島の戦いの分水嶺になっていく。戦術的成功が、作戦次元の失敗をカバーした、珍しい例といえる。

■クレタ島占領は実現したけれど…

二十一日早朝、数機のJu―52輸送機がマレメの西方で着陸態勢に入った。むろん、イギリス軍の射撃を浴びるのは必至であるが、パイロットたちは意に介していない。彼らは、マレメ飛行場攻略のために必要な弾薬を、何としても降下猟兵に届けよとの厳命を受けているのだった。

輸送機Ju 52
輸送機Ju 52(写真=帝国戦争博物館/RAF/PD-UKGov/Wikimedia Commons)

続いて、急降下爆撃機の支援を受けた降下猟兵が一〇七高地を完全占領する。これで、マレメ飛行場を多正面から攻撃する態勢がととのった。午後四時、飛行場をめぐる戦闘のただ中に、第五山岳師団からの増援部隊を乗せたJu―52が飛来する。これらは対空砲火をかいくぐって、着陸を強行した。機内から吐き出された山岳猟兵の応援を得て、降下猟兵は午後五時にマレメ飛行場を奪取したのである。

その夜、イギリス軍は反撃に出て、飛行場近くまで迫ったが、夜明けとともにドイツ空軍の攻撃を受けて、撃退されてしまう。

潮目は変わり、戦運はドイツ側にまわってきた。

もっとも、二十一日の夜から翌日の朝にかけて、海上から護送船団によってクレタ島に増援の山岳猟兵部隊を送り込む試みがなされたけれど、いずれも英海軍によって撃退された。ドイツ軍は空を制してはいたものの、海上はまだイギリス軍のものだったのだ。それゆえ、ドイツ側は、いよいよ航空機による増援・補給に頼らざるを得なくなった。

ここまでみてきたように、「メルクーア」作戦は必ずしも、経空攻撃だけでクレタ島を占領することを企図していたわけではない。だが、こうした状況に追い込まれたためにそうするしかなくなったのである。

■精鋭部隊3000人が犠牲に…ドイツ軍が支払った大きな代償

作戦目標のクレタ島を占領したという点では、「メルクーア」作戦は成功したといえる。

大木毅『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)
大木毅『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)

だが、ドイツ軍が同島を戦略的に活用することはついになかった。「メルクーア」作戦終了から三週間後の六月二十二日、ドイツがソ連に侵攻したためである。東地中海のイギリス軍の海上交通、あるいは北アフリカの連合軍拠点に脅威を与えるはずだったドイツ空軍の主力はロシアに投入されてしまい、クレタ島の航空基地や港湾は二次的な重要性しか持たなくなってしまった。

にもかかわらず――この島を得るために、ドイツ軍が支払った代償はきわめて大きかった。志願兵を集めて猛訓練をほどこしたエリート、降下猟兵のおよそ三千名が戦死、もしくは行方不明となったのだ。

あまりの損害の大きさに驚いたヒトラーが、以後大規模な空挺作戦は実施しないと決定したのも当然であろう。シュトゥデント自身の言葉を借りれば、「クレタ島は、ドイツ空挺部隊の墓場」だったのである(前掲『空挺作戦』)。以後、ドイツ降下猟兵は、優良な歩兵部隊としてしか使われなくなった。

クレタ島・空挺部隊員の墓標
クレタ島・空挺部隊員の墓標(写真=連邦公文書館/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons)

かかる凄惨(せいさん)な結果は、空挺作戦が宿命的に持つ危険性が極大化されたかたちで現出したものとみることもできよう。さりながら、シュトゥデントの指揮官としての能力不足が、その危険を増幅させたことも否定できないように思われる。

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年、東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学その他の非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、国立昭和館運営専門委員等を経て、著述業。『独ソ戦』(岩波新書)で新書大賞2020大賞を受賞。主な著書に『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書)、『ドイツ軍事史』(作品社)、訳書に『「砂漠の狐」回想録』『マンシュタイン元帥自伝』(以上、作品社)など多数。

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(現代史家 大木 毅)

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