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「このままでは寝首を掻かれる」信長は上にも下にも裏切られ清洲城から出撃…桶狭間の戦いの知られざる真相

プレジデントオンライン / 2024年3月13日 6時15分

斯波義銀(津川義近)肖像(東京大学史料編纂所所蔵)

小国の支配者に過ぎなかった織田信長が、三国を治める守護大名・今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」。歴史家の乃至政彦さんは「信長による鮮やかな奇襲作戦とされているが、実際は国主として崇めていた守護の斯波義銀にも裏切られ、清洲城内では味方がなく、身の危険を感じたから出撃したのではないか」という――。

■信長は殺された守護の遺児・斯波義銀を助け清洲城主とした

ここで桶狭間合戦までの織田信長が、尾張で力をつけてきた過程を振り返ってみよう。

当時の尾張国内はまさしく外憂内患の状態で、北に美濃一色氏、東に駿河今川氏が敵愾心を燃やしており、国内も腰の座らない領主たちが睨み合っていた。

このとき清洲城は、守護・斯波義統(しばよしむね)の居城であった。

ところが守護を補佐するはずの守護代・織田勝秀(かつひで)が謀反を起こして、義統を殺害。たまたま城外にいた幼い遺児は、信長のもとへ逃れて保護を求めた。信長は、本来なら守護代の部下として働く奉行のひとりであったが、“守護ファースト”の大義によって勝秀と戦い、これを自害させて清洲城を奪還した。

やがて義統の遺児は元服。「斯波義銀(よしかね)」の名乗りを得る。

すると信長は、「武衛(ぶえい)様(斯波義銀)、国主と崇(あがめ)申され、清洲の城渡し進せられ、信長ハ北屋敷へ御隠居候し也」と、「清洲の城(本丸のことであろう)」を守護である斯波義銀に進呈して、自らはその一角にある北屋敷(北曲輪か)に隠居したのである(『信長公記(しんちょうこうき)』首巻)。

それまで尾張は守護と守護代を失い、一介の武者でしかなかった信長が、尾張のまとめ役を担っていたが、自分が政治向きの人間ではないと思って、政権を譲ることを望んだのだろう。

だが、実際には信長なしに尾張がまとまる様子もなく、その後も次々と敵対勢力が現れ、それを信長が打倒するうち、なし崩し的に信長が一国を統治する状況になっていったのである。

ここに今川義元の野心が動き出す。

■混乱に乗じて領土拡大を狙った今川義元の「尾張併呑計画」

今川義元から見れば、尾張は半ば無政府状態にある。一応、形ばかりの守護がいて、それを保護する形で政治にまるで関心のない信長が大きな力を持っている。信長はこちらの尾張侵攻をことごとく邪魔してきた。そろそろ徹底排除するしかない。

ここで今川義元は一計を案じた。

尾張守護を利用するのである。

まともな政権の形が取れていないことに不安を抱く武士や民衆も多かろう。守護を寝返らせれば、尾張国中こちらの味方となるのは間違いない。首巻に次の記述がある(中川太古訳)。

尾張の国境近く、海岸に近いところに石橋某の屋敷があった。河内の服部友定は駿河勢を海上から引き入れようとし、さらに吉良義昭・石橋某・斯波義銀が共謀して、信長に謀反することを企んだ。このことが家臣のなかから洩れ聞こえてきたので、信長はすぐさま三人を国外へ追放した。

■『信長公記』には斯波義銀が信長を裏切ったと記されている

この記述は、明らかに桶狭間合戦に絡む内容である。

ここにある尾張河内(海西郡)の服部友定(友貞)は、桶狭間合戦のときに軍船を千艘ばかり動員して、大高城まで迫った。ところが義元が討たれたので、作戦を中断して撤退した。

しかもここに尾張守護・斯波義銀が信長を裏切っていたことが明記されている。事態を知った信長は、やむなく守護を追放した。

事件の背景は17世紀に編纂(へんさん)された尾張藩の地誌『張州府志(ちょうしゅうふし)』巻第10にも、「義銀与(と)今川義元協心欲」と、義銀が義元に通じたことが伝えられている。

ここで、牛一の記述の揺れにひとつの答えを導き出せる。現存する写本では省略されているが、軍議の上座にはこの義銀がいたのだ。

義銀は、服部友貞、吉良義昭(または義安)、石橋忠義ら尾張の有力者と共謀して、信長を義元に捧げる贄にするつもりであった。信長を嫌ってというより、義元を恐れてのことだろう。

■桶狭間前夜の軍議には斯波義銀がいたのではないか

義元がこのまま攻めてきたとして、信長に勝ち目があるとは思えない。義元は駿河・遠江・三河の軍勢を連れており、甲斐武田氏の援軍もいた。しかも美濃からは一向一揆勢も参戦する予定であった(乃至政彦『謙信×信長』PHP新書、2023)。

もし統治の実権を託す信長が負けたら、尾張守護たる自分も殺害されることだろう。そう考えていたところへ義元から甘い言葉をかけられたら、黙って従うのも無理はない。

義銀の家老たちは、清洲城内で信長を殺害して、その首を義元に捧げるつもりでいたと思われる。だから、「家老衆」は野戦を望む信長に、野戦などしないで清洲城に籠るほうが得策だと反論したのだ。

狩野元秀「織田信長像」(東京大学史料編纂所所蔵)を改変
狩野元秀「織田信長像」(東京大学史料編纂所所蔵)を改変(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

そしてこの「家老衆」とは、信長ではなく、義銀の家老衆なのであろう。

なぜ、こんな重大事を省略しているのか。

それは太田牛一の旧暦に原因がある。牛一は「生国尾張国、武衛様臣下」(太田家本『信長記』巻一奥書)と伝わるように、もともと武衛──守護斯波氏──の家臣であった。

牛一は、いつからか信長の親衛隊長にあたる「六人衆」に抜擢されているが、おそらく義銀の裏切りを、桶狭間の前後頃、信長に報告した功績で信任を受けのだろう。

このため、牛一は旧主たる義銀に後ろめたい気持ちもあり、その具体的動向をかき消したのだ。

■清洲城での軍議で信長は味方がなく孤立していた

なお、この不自然な省略のやり方に疑問を感じる人がいるかもしれないが、例えば、牛一は『信長公記』の手取川合戦のくだりで、織田の大軍が手取川を北上したところを、その南側にある村々を焼き払って引き上げる内容になっており、大きな矛盾が生じている。手取川の北に移ったのに、なぜその南側にワープしているのか。

手取川を越えたあと、織田軍は何らかの事情があってその南側へ移動して、本来織田の勢力圏内にある村々を焼かなければならなくなった。牛一はそれを隠蔽するかのように、はじめ正確に書いたであろう文章をあとから部分的に削ったものと考えられる。牛一は漫画『鬼滅の刃』の竈門炭治郎ばりに嘘をつくのが下手なので、内容を作り話で塗り替えることができず、ただ自分の方針に沿わないところをさっくり消したのである。

こうした牛一の執筆姿勢も勘案すると、首巻が本当に描きたかった情景は次のようであったと考えられる。

18日の夜、佐久間盛重・織田秀敏が、清洲城に「今夜、今川方は大高城に兵糧を運び入れた。こちらの援軍が来る前に明日の朝の潮の満ち引きを考え、鷲津と丸根の砦を攻撃する動きとみて相違ありません」と報告してきた。

その夜、信長は、清洲城の軍議で、「尾張の国境で義元と決戦しよう。国境を蹂躙され、このまま撤退させてはならない」と主張した。

【図表】清洲城の履歴書
出典=清須市公式サイトなどより編集部作成。すべて「清洲」と表記
イラスト作成=パワポ

■「運の尽きる時には知恵の鏡も曇る」と嘲笑された信長

すると、上座の守護・斯波義銀の家老之衆は、まるで一味同心しているかのように「今川軍は4万5000の大軍で、こちらはその一割未満。清洲城はとてもよくできた名城であるので、機が熟するまで籠城してから打って出るのが最善だ」と言い返した。

信長はこの意見に同意しなかったが、「最近では河内国の安見右近丞は野戦を避けるようになってから没落していったではないか」と不満の声を漏らすばかりであった。

上座の斯波義銀は、作戦について一切触れることなく、世間話だけをして、一同に盃を交わした。

空気が冷えているのを感じ取った猿楽者・宮福太夫は「このまま酒席が静かであってはいけませんね」といって謡を披露し、信長も鼓を打って調子を合わせた。

酒席は大いに盛り上がり、義銀が「そろそろ夜も更けたから退出してよい」と許可を出したので、信長は退出した。

これを見た家老たちは「運の尽きる時には、知恵の鏡も曇るというが、まさにこれだ」と、皆で信長を嘲笑って帰宅した。

予想どおり、夜明け方、佐久間盛重・織田秀敏から「すでに鷲津・丸根の砦が今川方の攻撃を受けている」との報告が入った。

■追い詰められ「人間五十年」と舞った信長は清洲城から出馬

この時、信長は敦盛の舞に興じた。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」

歌い舞わると、「法螺貝(ほらがい)を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜を着用して、五人の小姓衆だけを伴って清洲城から出馬した。

つまり、世間話だけをして軍議に意見を出さなかったのは、斯波義銀であって、信長ではなかった。そして信長も場を丸く収めようとする空気に押されて、強く意見できなくなり、酒席では御屋形様(おやかたさま)の顔を立てて沈黙することになった。

夜遅くに信長が退出すると、家老衆は今川義元様がこの城を囲んだら、「あとはあの信長を始末するだけだ、ここまでよくやってきたが、運が尽きると知恵の鏡も曇るものだな」と、今川軍の侵攻を他人事(ひとごと)のように思いながら、笑いあった。

ところが信長は、最前線にある味方の窮地を見捨てるような守護主従の様子から、全てを察したようである。このままでは寝首を掻(か)かれると判断し、ほとんど逃げ出すようにして、わずかな供回りだけを連れて、清洲城を抜け出したのだ。

そして、出先で味方の者たちと連携して、思いつくまま臨機応変に戦場を駆け巡り、しかも思わぬ大雨に助けられて、信長が最前線に飛び出てくると予想していなかった今川義元の首を討ち取ったのである。

歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】
歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■今川義元の戦死は清洲城が招いたようなものだった

斯波義銀の態度は、例えるなら、最初に記した豊臣秀頼が、最前線に出た大野治長、真田信繁らを見捨てて、「あれは勝手に主戦派たちを糾合した不忠の者たちです。われらははじめから幕府との親睦を第一に考えておりました」と徳川家康に尻尾を振るようなものであった。

もっとも家康にとっての秀頼は、義元にとっての義銀ほどの価値もないから、内応を打診されなかったのだろう。交渉の手筋もなかった。

清洲城は、守りの固さが今にあまり伝わっていないが、応永12年(1405)に築城されたところから考えて、単なる経済と政治の拠点としてではなく、確たる防御設定をもって、150年以上その威容を保ち続けていたことだろう。本丸東の五条川が水堀の役割を果たしていたと思われ、それなりに工夫を凝らしていたからこそ、家老衆も信長を騙(だま)し通せると思ったのではないか。

こうした視点から見ると、中世清洲城の姿形も「名城」の称号に相応しい防御力を備えていた可能性が高いと思う。

そして、その防御力の高さゆえに、今川義元は斯波主従が信長を拘束して、尾張制圧を首尾よく進める計画を過信してしまったのではないか。

その結果、義元は思わぬ戦死を遂げてしまい、誰もが想定しえない驍将(ぎょうしょう)・織田信長の雄飛(ゆうひ)を許すことになってしまったわけである。

歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】
歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

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乃至 政彦(ないし・まさひこ)
歴史家
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐」

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(歴史家 乃至 政彦)

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