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いち早く東京の最新トレンドが流れ着いていた…小樽が「洋菓子・ガラス工芸」で有名になった歴史的背景

プレジデントオンライン / 2024年4月14日 9時15分

1巻2話より。アシㇼパが履いているものの正体は……?(©野田サトル/集英社)

北海道・小樽は現在、洋菓子やガラス工芸品で知られている。そのルーツは何か。小樽市総合博物館館長の石川直章さんは「明治期の小樽は北日本有数の港町で、一大物流拠点だった。小樽には最新の流行り物が集まりやすい環境にあった」という――。

※本稿は、中川裕『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』(集英社新書)内の石川直章氏のコラム「続・小樽から見た『ゴールデンカムイ』」の一部を再編集したものです。

■アシㇼパの履いている「黒いタイツ」の謎

連載の初期から気になっていたのが、アシㇼパ(『ゴールデンカムイ』のヒロイン)が初めて登場した時からずっと履いている謎の「黒いタイツ」のような衣類です。この正体はいったい何なのだろうということで、実は中川先生ともいろいろと議論をしたことがあります。

中川先生いわく、毛布状のものだとすると絵の表現としてはもう少しフワフワした感じになるだろうとのこと。作品にはアシㇼパが靴を脱いだ場面がしばしば描かれており、靴下もしくは足袋のようなものを履いていることがわかります。また足首のところに横線があり、スパッツ状の形状とも思われます。

実は野田先生ご自身は、「山仕事で着用する民族衣装」だとされています。しかし、ここではいくつかの手がかりをもとに、別の可能性を推測していこうと思います。

そもそも、当時の小樽近辺にはタイツや靴下が存在したのでしょうか? あまりにも些末なことに見えるかもしれませんが、あえて学術的に突っ込んで考察してみると、意外と奥が深い話だということがわかります。

■大正期の女学生も同じようなものを履いていた

まずはひとつ写真(図版1)をご覧ください。これは1916(大正5)年頃の写真です。

【図版1】スキーをしている小樽高等女学校の生徒たち。1916(大正5)年ごろ撮影
写真提供=小樽市総合博物館
【図版1】スキーをしている小樽高等女学校の生徒たち。1916(大正5)年ごろ撮影 - 写真提供=小樽市総合博物館

小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)の生徒たちがスキーをしている様子が写っています。この学校は後にチュニック型体操服(上着の丈が腰から膝ぐらいまでの長さのもの)を導入するのですが、この段階ではまだ過渡期だったのでしょう、袴をたくし上げて使っていることがわかります。

さて、ここで足のあたりにご注目ください。アシㇼパと似た黒いものを履いているようにも見えます。これは一体何なのか。恐らく、長い靴下をゴムかガーターベルトで留めているのだと思われます。

残念ながら小樽高等女学校に関する史料を見ても、具体的に何を履いていたのかがわかる記録は出てきません。それでも写真は沢山残っています。次に挙げるのは1918(大正7)年頃の運動会の時の写真(図版2)です。この時にはすでにチュニック型体操服が採用されています。女学生たちの足元を見ると、やはり革靴に合わせて黒い靴下のようなものを履いていることがわかります。

【図版2】小樽高等女学校の運動会の様子。1918(大正7)年ごろ撮影
写真提供=小樽市総合博物館
【図版2】小樽高等女学校の運動会の様子。1918(大正7)年ごろ撮影 - 写真提供=小樽市総合博物館

■物流拠点・小樽には最新アイテムが集まった

小樽高等女学校はちょうど『ゴールデンカムイ』の舞台とほぼ同時期、具体的には1906(明治39)年5月1日に開校しています。その初代校長がとても先進的な人で、「女子の健全な成長には体育をさせなければいけない」と考えて、比較的早くからスキーをさせるようになりました。それで寒さをしのぐために彼女たちは長靴下(もしくはタイツ?)を履いていたのでしょう。

ちなみに、この手の最先端のファッションは、欧米と直接の交流があった横浜や神戸などの大きな国際港を起点に広まることが多かったようです。当時の小樽は北海道のみならず、北日本を代表する港であり、物流の一大拠点でした。

当然ながら小樽港は横浜や神戸とも繋がっていましたので、東京の中心で流行しているような最新のファッションなども、さほど時間を置かずに伝わってくる環境が整っていたはずです。

西洋式の女子体操服も誕生した直後に、横浜・神戸を経由して入ってきたのでしょう。女学生たちが履いている靴下も恐らく同様の経路で、同じ頃に入ってきたものではないかと推測されます。

■女学校の生徒は女性の憧れの的だった

靴下というのは靴とセットで使われるものです。小樽高等女学校では革靴を採用していました。そのため、女学校の生徒はみんな靴下を買わなければならなくなり、入手に苦労した、との記録があります。そうなればおのずと一定の需要が生まれてきます。

小樽の中でも靴下はある程度生産されていたと思われますが、主には輸入品が流通し、販売されていたことでしょう。値段も女学校の生徒が買える程度のものだったはずです。もちろん、決して安くはなかったと思いますが、入手することはそれほど困難ではなかったのではないでしょうか。

当時、若い女性にとって女学校の生徒たちは憧れの的でした。小樽近郊に暮らしていて、年に何回か街へと出てくるような人であれば、最先端の教育を受けるハイカラな女学生たちが長い靴下を履いているのを目撃していても、不思議ではありません。

アシㇼパもこうした最新の流行を横目でちらちらと見ており、「これは良いな」と思って何らかの方法で手に入れ、自らのファッションとして採用していた可能性は十分にあると思います。

2巻12話より
2巻12話より(©野田サトル/集英社)

2巻12話でアシㇼパは自分の名前の意味を杉元に解説しながら、「わたしは新しい時代のアイヌの女なんだ!」と語っていますが、実は彼女はファッションの面でも当時最先端の流行を見事に取り入れていた(!)のかもしれないのです。

■今でこそ有名な「小樽の和洋菓子」のルーツ

明治末頃の小樽は北海道における物流の一大拠点で、最先端の流行や物品が入ってくる場所だということに触れました。やや脇道に逸れますが、関連する話を続けましょう。

『ゴールデンカムイ』には、実は当時の最新の文物がいろいろと登場しています。例えばピアノやオルガンです。

5巻40話より
5巻40話より(©野田サトル/集英社)

5巻40話では「ニシン御殿」にあるピアノを鶴見中尉が弾いています。明治半ば以降にようやく日本でも国産化されたピアノやオルガンですが、海外のものは主に学校や教会用に購入されていました。小樽では富裕層を中心に、個人でピアノなどを購入する例も多く、その一部は小樽市総合博物館にも所蔵されています。

2巻16話より
2巻16話より(©野田サトル/集英社)

2巻16話では、杉元が鶴見中尉から「花園公園名物の串団子」をすすめられています。現在、和菓子は小樽を代表する名産品のひとつになっていますが、実はそのルーツも明治期にあるのです。

■米、小豆、砂糖が小樽に集まっていた

明治30年代に、お米と小豆と砂糖の三つがすべて小樽に集約される環境が整いました。当時の北海道では、お米はほとんどを本州から入手しており、この時期には鉄道網も整って内陸部への運送が可能になっていたため、小樽港を経由して各地へと運ばれていました。

砂糖も同様に本州から大量に輸入され、市内の菓子商が入手できる環境があったのです。さらに内陸部の十勝からは小豆が集まってきます。これらの三つの素材を活かして小樽は和菓子の本場になり、餅屋さんや団子屋さんが誕生していきました。

現在の小樽では洋菓子も名産品の一つですが、これもやはり小樽が物流の拠点だったことが大きいと言えます。出入りの多い港町であるがゆえに、小樽には最新の流行り物が入って来やすい環境でした。

例えばアイスクリームは明治末の段階で記録が残っていますし、明治20年代から有名な洋食屋さんが営業を開始しています。そうしたお店ではデザートも出したはずですから、洋菓子もこの頃にルーツがあるのだろうと推測できます。

■小樽のガラス産業は「物流の容器」が起源

また、小樽の特色ある伝統工芸品としてガラスが挙げられますが、実はこれも「物流」という観点で説明できるのです。今はだいぶ減ってしまいましたが、小樽にはかつて梱包資材の会社が沢山ありました。物流の拠点港ですから、梱包材も需要が高かったのです。

現在の小樽を代表するガラス製造会社・北一硝子さんや同じルーツを持つ浅原硝子さんなどにお話を伺うと、「うちはもともと容器屋だった」という言い方をされます。

2010年6月18日、北海道の小樽にある北一硝子
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

例えば、今ではプラスチックチューブに入っている歯磨き粉なども、かつてはガラスの容器に入れられていました。そのような容器を必要とする業種が小樽には溢れており、膨大な需要に応えるためにガラス製容器をつくる会社も多く存在したわけです。

昭和初期のガラス製容器
写真提供=小樽市総合博物館
昭和初期のガラス製容器 - 写真提供=小樽市総合博物館

もちろん当時から、その技術を生かす形でランプや漁業用のガラス浮き球なども生産されていましたが、圧倒的に需要があったのは容器の方だったので、あくまでも「容器屋さん」という意識だったのでしょう。

■産業用から観光用にシフト

当時の小樽ではガラス産業は決して「主たる産業」ではありませんでした。しかし、それがある種の特色ある産業として残り続けたというところに、この街ならではの特徴があります。

中川裕『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』(集英社新書)
中川裕『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』(集英社新書)

やがて戦後になると、小樽運河の埋め立てや歴史ある倉庫群の解体が議論されるようになり、景観保存に向けた市民活動が盛り上がっていきます。その際に、たまたま小樽で生き残っていたガラス屋さんやランプ屋さんが注目を浴びることになりました。そのガラス屋さんの若い社長が、「これからは産業用ではなくて、観光用のものに注力すべきではないか」と訴えたことが、今日の北一硝子さんの成功の始まりだと言われています。

さらに、本州ではアトリエとしての小樽に目をつけていた方もおられ、そうした方々が入ってきたことにより、現在のガラス産業は「観光」に焦点を当てた形で、小樽を代表する産業になったというのが一連の経緯です。

今や「歴史ある落ち着いた街」と見られる小樽ですが、それをイメージづける物品に注目すると、意外にも『ゴールデンカムイ』の舞台となった時代にルーツがある。こう考えると、街の見え方も変わってくるはずです。

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中川 裕(なかがわ・ひろし)
千葉大学名誉教授
1955年神奈川県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科言語学博士課程中退。1995年、『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館)を中心としたアイヌ語・アイヌ文化の研究で金田一京助博士記念賞を受賞。漫画・アニメおよび実写版映画『ゴールデンカムイ』でアイヌ語監修を務める。著書に『改訂版 アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー)、『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書)など。

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(千葉大学名誉教授 中川 裕、小樽市総合博物館館長 石川 直章)

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