「なんであんたは、どこに行ってもいじめられるのよ!」私立中学を1年で退学した私が「人生が詰んだ」と感じた瞬間
プレジデントオンライン / 2024年4月10日 7時15分
※本稿は、菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■仲間外れゲームでスクールカースト最底辺に
中学に入学してしばらく経ったあるとき、私はクラスの女子から突然、仲間外れにされた。多分、中学に入ってからも、やっぱり私は浮いていたのだと思う。何がきっかけだったか、今となってはわからない。しかし、小学校時代と変わらず中学時代もリーダー格の女子がいて、すべてをコントロールしていたことは、確かに覚えている。
とにかく私はその女子の一声によって、ある日を境にグループから無視され、罵声を浴びせられ、孤立するようになった。しかし、ヘンな話だが、私はいじめにはやっぱり慣れていた。小学校のいじめでほとほと通り抜けてきたパターンだったからだ。
けれどもその後のパターンは、一辺倒ではなかった。
クラスにはもう一人、私と同じく浮いている女子がいた。その子は根暗な私とは、まったく真逆なタイプだった。歌がうまくて、歌手を目指していたその子は、何よりも容姿が飛びぬけて可愛らしかった。それが女子のリーダーにとって気に食わなかったのだと思う。
私はその子と、交互に仲間外れにされるようになった。いわば「仲間外れ」ゲームだ。今日までは「人間」だったのに、翌日には「奴隷」の扱いになる。そして、私が「人間」になれば、その子は「奴隷」になる。その子が「奴隷」になれば、私は「人間」になって、グループの仲間に戻ることが許される。その繰り返しだ。
「人間」になれれば、グループの女子たちとも今までどおり喋ることができるし、お昼のお弁当の輪の中にも入れてもらえる。しかし、翌日登校すると、突然クラスの全員から口もきいてもらえなくなる。スクールカーストをジェットコースターのように行き来させられる日常。それは、私を奈落の底に突き落とした。
いつ、「その瞬間」がやってくるかはわからない。私は「奴隷」に堕ちないように必死におどけたり、リーダーのご機嫌をとったりしていたが、あまり効果はなかったように思う。すべては女子のリーダーの気まぐれだったし、そもそもそのゲームの最大の目的は、私やその子が苦しむ姿そのものにあるからだ。
■「才女」たちのいじめに見た母の幻影
彼女たちが、その無慈悲ないじめを娯楽として愉しんでいたのは間違いない。私とその子が戸惑い、苦しむ姿を見て、彼女らは時折笑みを浮かべていたからだ。それは、彼女たちのストレス解消法であり、愉しみであったのだ。
その一因は、ひとえに子どもにかける親の期待にあったと思う。中高一貫教育のブランド校。そこに渦巻く負のエネルギーは、今考えるとすさまじかった。彼らは、中学時代から東大や京大、国公立、もしくは医大を目指して猛勉強を重ねていた。いわば親の期待を一身に背負っていた。
彼らの目標はただ一つ、この過酷な受験戦争を勝ち抜くことだ。そのため、空き時間は家庭教師や塾などの予定でびっしりと埋めつくされていた。
学校での「仲間外れ」ゲームは、そんな「才女」たちの唯一のガス抜きだった。そして私は、ただなぶり殺しにされる生贄となった。
私が、クラス全員による小学校時代のいじめと異なる女子たちの行為に激しく動揺したのは、きっとそこに母の幻影を見たからだ。
女子グループが私にしたことは、今振り返ると母が私にしたこととまったく同じだったと思う。愛が欲しくて、振り向いてほしくてがんばっても、母の愛は条件付きだったり気まぐれだったりする。考えてみれば母も、私のジェットコースターのような感情の振れ幅をどこか愉しんでいたふしがあった。
女子グループも同じだ。人がどういう状態に置かれればもっとも傷つきダメージを受けるのか、彼女たちは本能的にそれを理解していた。だからこそ、私に一時的にでも「人権」を与えたのだ。それは今思うと、小学校時代とは比べものにならないほどの、ゾッとするような陰湿さがあったように思う。
■母の期待に応えられなかった私に存在価値はない
私立中学でのいじめは、私を心身ともに徹底的に破壊した。
そして、一年ほど通学したあと、私は再び学校に足が向かなくなった。
学校に行けば、今日はクラスでどんな扱いになるかわからない。今日広がっている世界は天国か、地獄か。それは投げられたサイコロの目のように気まぐれなのだ。その偶然性に翻弄されることを考えると、思わず足がすくんでしまい、怖くてたまらなくなった。
ゴミならゴミで、ずっとそう扱ってほしい。そっちのほうが、どれだけ楽だったことか。そうして再び、私の引きこもりがはじまった。私の体は石のように固まり、動かなくなった。
もう、今度こそ終わりだ、と思った。
その瞬間、私という存在は完全に停止した。
私は、母の期待に応えられなかった。「人生が詰んだ」――まさにこの言葉がもっともふさわしい。母があれだけ喜んだブランド私立中学への進学。私は新たな環境で起死回生し、やり直すはずだった。母の生きられなかったバラ色の人生を生きるはずだった。
しかし、私はそのレールから、またもや外れてしまった。母の期待に応えられなかった私なんて、なんの存在価値もない。生きている意味なんて、ない。もう、すべては終わりなのだ。
そんな考えに支配されて、日々頭がおかしくなりそうになった。
いい大学に行き、いい会社に就職すること。徹底した学歴信仰。結婚せず、働き続けること。それが、母が私に望んだ成功ルートだった。そんな強迫観念が頭のてっぺんから足の先まで染みついていた私は、不登校になったことで、生ける屍そのものとなった。
■私立中学を一年で退学
教育虐待の恐ろしいところは、親の期待から外れると即、無用のレッテルを自らに貼ってしまうところにあると思う。学校以外の大きな社会を知らない子どもにとっては、家庭と学校が世界のすべてになってしまう。特に私は、母によって視野狭窄な価値観を植え付けられていた。
それは子どもを必要以上に追い込み、自縄自縛にして心の底から苦しめる。そして、再起不能なほどに精神を病ませてしまう。
両親は、いじめを学校の責任にした。そして、学校側を責め立てた。しかし、私立中学は生徒の親の授業料で成り立っていることもあり、いじめの対応には弱腰だった。「いやなら、いつでも辞めてもらって結構」というわけだ。
結局、私は、私立中学を一年の終わりで退学した。
いざ退学してしまうと、学校とのつながりもプツリと切れてしまった。あの想像を絶するようないじめは確かになくなったが、それは学校という社会とのつながりを失うことでもあった。
だからといって今さら地元の中学に戻るわけにもいかない。あそこには、かつてのいじめっ子たちがいるからだ。義務教育なので籍だけは地元の中学に置くことになったが、私の足はどこにも向かなくなっていた。
母は、そんな私にしびれを切らしていた。
「なんであんたは、どこに行ってもいじめられるのよ!」
「わからない! わからない!」
私は、泣きじゃくった。本当に、わからなかったからだ。なぜ、自分だけがこんな目に遭うのか。どの学校に行っても、うまくいかないのか。いつもいじめの標的にされてしまうのか。なぜ? なぜ? 私自身が一番その答えを知りたかった。
■引きこもりの苦しみ
私はそのままズルズルと、不登校生活へと突入していった。それは本格的な引きこもりのはじまりを意味した。もっとも多感な時期の引きこもりは、私の人生において大きなトラウマとなった。
家から出られない生活は、心身ともにこたえる。
引きこもりは、苦しい。とにかく苦しいのだ。
自分だけが社会や学校から取り残されていると感じる。そして日々、自分がどうしようもないダメ人間に思えてきて、焦燥感が襲ってくる。自分はこの世界には存在してはいけない人間なのではないかと思えてくる。
私は、真昼間に母の車でたまに出かけた。助手席に座った私はシートベルトを外し、必死に小さく体を丸めて姿を隠した。引きこもりは、やっぱり恥ずべき存在なのだ。それは、骨の髄まで母が私に植えつけた「恥」の感覚だったと思う。
考えてみれば私の心は、これまでの人生で幾度となく傷まみれになっていた。幼少期に母から虐待されたとき。母の敷いたレールから完全に外れてしまったとき。そして、こうやって、誰にも見つからないように身を縮めているとき。そうやって自分の存在を押し殺していると、いつしか致命傷になってどんどん苦しくなっていくのがわかる。
私は明るい時間帯に近所の住人に出くわし、じろじろと見られることが怖かった。ゴミ出しなどで私に出くわすと、近所の住民たちはハッとした顔をして、目を逸らす。
「子どもたちはみんな学校に行っている時間なのに、あの子は家にいるんだわ」と陰口をたたかれている気になる。本当はそうでなくても、ひたすら家の中に引きこもっていると精神状態が徐々におかしくなり、そんな被害妄想が私の中で少しずつ肥大化していった。
私は人目を極端に気にするようになってからは、昼間に出かけることをやめ、昼夜逆転の生活を送るようになった。
引きこもりの当初は、自宅学習をしようと意気込んでいた。勉強だけは遅れをとりたくなかったからだ。
しかし、家の中にいると無気力になり、机に向かう気力すら奪われ、それどころではなくなった。自室に引きこもってボーッとしたり、本を読んだりゲームをしたりして過ごしていた。不登校生徒の多くは、私のように勉強で遅れをとるらしい。私も例外ではなかった。
■過去の過ちを母に認めてほしかった
その頃から、私の家庭内暴力がはじまった。母親に向かって暴力を振るうようになったのだ。断っておくが、家庭内暴力は今なら絶対によくないことだとわかっている。
しかし、当時の私は、いつも行き場のない爆発寸前のマグマを煮えたぎらせていて、善悪の分別がついていなかった。いや、きっと分別はついていたはずだ。暴力は悪いことだと私も当然ながらわかっていた。しかし、どうしてもあふれ出る感情を抑えきれないのだ。家庭内暴力のときに、たいていいつも話題に上ったのは、かつて母にされた虐待行為だ。
私の人生は、どうして狂ってしまったのか。ひたすら自分で自分を責め立てる日々――。さらに、私は家に引きこもるようになってからというもの、時折襲い来る幼少期のフラッシュバックに悩まされるようになっていた。
だからこそ、私は母に過去の過ちを認めてほしかったのだ。家庭内暴力が起きる際に、いつも母が私にした暴力を責め立てた。
「あのとき、私を虐待したでしょ! 認めろよ!」
「そんなことはした覚えがないのよ」
信じられないことに、母は私への虐待を認めなかった。徹底的にしらを切った。やった、やってない、の激しい応酬が続く。
私は、母の虐待行為を激しくなじった。虐待親の多くは、子どもにその行為を問い詰められたとき、母親のような反応をするらしい。
あのとき、母が認めてくれたら、どんなによかっただろう。「ごめんね」の一言だけでも言ってくれたら、どれほど救われただろう。私は、母のその一言を長年、待ち焦がれていたからだ。
けれども、母の口から、ついに最後までその言葉が出ることはなかった。母は弱々しく、しまいには擦り切れた声で、「久美ちゃん、本当に覚えていないのよ。そんなことがあったなんて、お母さん、全然覚えてないの」と目を潤ませた。
「うそつけ!」
それを聞いた途端、やり場のない感情が怒涛のように押し寄せた。
無力な私は、あんなに苦しかったのに。あんなに、悲しかったのに――。全部、全部、お母さんは、なかったことにするの? じゃあ、あのときの私は、どうすればいいの。私はいったい、どうすればいいのよ!
■馬乗りになって絞めた母の首
私はどこかちぐはぐだった。確かに体は母よりも大きくなった。母がそんな私の威圧感におびえているのが伝わってくる。
それでも、幼い頃の私はずっと私の中で泣いている。今も苦しんでいる。
心がシャットダウンして、真っ白になる。みんなみんな消えてしまえばいい。心も体も、子どものように泣いていた。そして次の瞬間、煮えたぎるような怒りの感情に、私は全身を支配された。
とっさのことだった。私は我を忘れて母親に襲いかかった。馬乗りになって首を絞めていた。誤解しないでほしいのだが、そのときの私は母に対して、たったの1ミリも、憎しみという感情はなかった。だから母を殺したかったわけではない。ただただ行き場のない悲しみが胸中に押し寄せ、それが濁流となって、全身の血という血が沸き立つような感覚である。それは、私自身がかろうじて保っていた理性をも、どこかへ追いやってしまう。
今考えると、その先に暴力があったのだと思う。私たちはフローリングの上で上下にひっくり返り、激しい取っ組み合いになった。
そのときの感覚は今でも覚えている。母は、驚くほど温かかった。私はなぜかそのとき、母の体温を感じていたのだ。なぜだか、私が触れた母はとてもとても温かかったのだ。
そして、母が私に全身全霊で向き合ってくれているのを感じた。生きるか、死ぬか、という切羽詰まったあの感覚。それは、考えてみれば母に虐待されたあの幼稚園時代と同じあのとき、あの瞬間を彷彿とさせた。
「だれか、だれか、たすけてぇぇ! ころされるぅぅ!」
そのときの母は、子どものように泣きながら絶叫して、必死の抵抗を試みて、私の手から逃れようとしたと思う。そうして、私に嚙みついたり蹴ったりした。
■母への怒りと悲しみ
今でも、あのときのことを思い出すと、胸がいっぱいになる。母は一瞬の隙をついて、命からがら家から飛び出した。ひっくり返ったテーブル、割れて飛び散った茶碗。倒れた本棚――。
ぐちゃぐちゃになった部屋は、無残そのものだった。私は荒れ果てた家を見て、泣きじゃくった。そして、すさまじい後悔の念に襲われた。
「お母さん、ごめんなさい! ひどいことして、ごめんなさい!」
母がいない家。なんであんなことをしたのか、死にたくなった。その後、自殺未遂をしようと考えたこともある。そうしてやっぱり、私はいないほうがいい人間なんだと自らを責めた。そんなことが幾度となくあった。
母が、かつての虐待を完全に忘れていたのか、しらを切っているのか、どちらかは今もわからない。私にとっては、どちらでもいいのだ。
ただ一つ、言えること。あのとき、私が望んでいたこと。それは、母に認めてほしかったのだ、過去の過ちを――。そして、抱きしめてほしかったのだ。それが、母が私に正面から向き合うということにほかならないからだ。
私にとっては消し去りたい暗部で、目を背けたい出来事だが、自分を戒める懺悔の思いと共に、当時のことをありのままに記しておきたいと思う。
私は、おぞましいほどの家庭内暴力を、母に対して幾度となく繰り返した――。私たちはまさに死の瀬戸際にあった。お互いの生死を懸け、悲しみに満ちた苦闘は果てしなく、終わることがなかったのだ。
私にとって引きこもりは、耐えがたいストレスの連続だった。母は、私の家庭内暴力がいつ起きるか、ビクビクするようになっていた。私は、そんな母の態度にもイライラした。
“人生が詰んだ”私は、これからどうなってしまうのか。確かなのは、その先には闇しか広がっていないということだ。母が敷いたレールから外れてしまった私に、明るい未来なんてあるわけがないのだ。私は、日々押し寄せる不安でいっぱいだった。そして、その元凶をつくり出したのは、母なのだという怒りと悲しみに支配されていた。
私と母は、殺し殺されるほんの一歩手前にいたと思う。
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ノンフィクション作家
1982年、宮崎県生まれ。大阪芸術大学芸術学部映像学科卒。出版社で編集者を経てフリーライターに。著書に、『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』(毎日新聞出版)、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)、『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)、『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』(角川新書)などがある。また、東洋経済オンラインや現代ビジネスなどのweb媒体で、生きづらさや男女の性に関する記事を多数執筆している。
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(ノンフィクション作家 菅野 久美子)
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