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「こんないいチームがなぜなくなるのか」という悲しみと怒り…25年前に消滅した横浜フリューゲルス「最後の夜」

プレジデントオンライン / 2024年4月15日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/master1305

1999年元旦の天皇杯決勝を最後に横浜マリノスに吸収合併された横浜フリューゲルス。最後の夜にクラブのメンバーは何を思ったか。選手会長の前田浩二は「終わったときは勝利を掴んだという喜びだった。しばらくして、こんないいチームがなくなってしまうんだという悲しみ、全日空に対する怒りが湧いてきた」という。田崎健太氏の著書『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)より紹介する――。

※本稿は、田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)の一部を再編集したものです。

■天皇杯決勝の国立に足を踏み入れて感じたこと

12月13日、天皇杯が始まった。Jリーグのクラブは3回戦から参加、フリューゲルスは大塚製薬(現・ヴォルティス徳島)に4対2と勝利した。4回戦ではヴァンフォーレ甲府を3対0で下し、ベスト8入りを決めた。

そして準々決勝でジュビロ磐田、準決勝で鹿島アントラーズに勝利。合併発表後8連勝、クラブ通算150勝とした。

そして残り1試合――1月1日に国立競技場で行われる天皇杯決勝、清水エスパルス戦を残すのみとなった。

全日空スポーツ営業部の今泉は、決勝まで天皇杯には同行しなかった。

「選手からなんで来ないんだって言われたこともありました。ただ、ぼくは現場のスタッフではない。中には試合に行く人間もいましたが、ぼくたちはぼくたちの仕事をする、お前たちはお前たちの仕事をしてくれ、元日に国立(競技場)で待っていると言いました」

トーナメント制で行われる天皇杯は勝ち上がりと同時にチケットの割り当てが決まる。クラブの買取分をすぐに販売しなければならない。

「覚えているのは、準々決勝でジュビロに勝った直後、準決勝の長居(陸上競技場)のチケットを佐藤工業の大阪支店に買ってもらったこと。大阪支店は、フリューゲルス最後の試合になるかもしれないと引き受けてくれました。結構な枚数のチケットを大阪まで届けましたね。もちろん試合当日は行っていません」

決勝が行われる元日の朝、今泉は自宅のある新横浜から国立競技場に入った。明治神宮外苑に隣接した国立競技場の一帯は人気がなく、凜とした空気だった。

「朝の9時ごろ国立(競技場)に一歩踏み入れたとき、風が冷たかったことを覚えています」

■「天皇杯では負ける気がしなかった」

昨年の同じ日、ここにマネージャーとして来たことを思い出した。

「(元監督の)オタシリオは決勝まで行くつもりがなかったんです。ここら辺で負けるだろうとオタシリオたちブラジル人スタッフの帰国便を手配していた」

そのことを知った日本人選手たちが、あいつらふざけんなよっ、絶対に元旦までひっぱってやるって言っていたんですと苦笑いした。決勝の主催は日本サッカー協会であり、自分たちの仕事はない。マネージャー時代と同じようにベンチ裏で観戦するつもりだった。

選手、現場のスタッフたちは国立競技場から約6キロ離れた港区白金台にある都ホテルに宿泊していた。ホペイロの山根は荷物運搬用の車で選手たちよりも先に会場に入り、準備を始めた。

「試合用のユニフォームはロッカーに入れて、練習着は長椅子、その下にスパイクを並べる。この日は延長戦、そして表彰式もあるので4枚用意していました。試合前から置いておくと、くしゃくしゃになってしまうのでロッカーには2枚だけ、残り2枚は廊下に置いていました」

天皇杯では負ける気がしなかったと山根は言う。

「準々決勝でジュビロと準決勝でアントラーズという強いチームと当たりましたが、怪我人さえ出なければ勝てると思っていました。一度練習中にアツ(三浦淳宏)さんが足首をやってしまい、ピリついたことがありましたが、それ以外、怪我人は出なかったはずです」

ライトに照らされたサッカースタジアム
写真=iStock.com/Oliver Hasselluhn
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Oliver Hasselluhn

■残り少ない仲間との時間を愛しむ気持ち

試合当日の朝、都ホテルの食事会場には選手が三々五々集まった。部屋には大きなテレビが設置してあった。監督のゲルト・エンゲルスは空から撮影した国立競技場の映像が流れたことを覚えている。各テーブルを回って、選手たちと言葉を交わした。

「今さら新しいことはできない。リラックスしてやりましょうと言ったのかな。そう言っているぼくが一番緊張していたと思うよ」

前田は準々決勝の磐田戦あたりからチームの雰囲気が変わったと振り返る。

「磐田、鹿島という97年、98年のJリーグチャンピオンと当たっていくわけです。負けたら終わり。決勝まで行くぞと言いながら、食事会場がお別れムードというか、寂しくなっていくんです。ぼくは試合の前の日はお酒は飲まない。ただ、(準決勝の)鹿島戦の前夜、サンパイオとちょこっとだけワインを飲んだ記憶がありますね」

残り少ない仲間との時間を愛しむ気持ちになっていたのだ。

「元旦の朝、みんなあんまり喋っていなかったような気がしますね」

PJMフューチャーズにいたとき自己啓発セミナーに参加した前田は、5年後に日本一になると目標を立てた。それが実現しようとしていた。調子は良かった。

薩川、佐藤尽との三人のディフェンスの真ん中に入り、身体を張り、味方を叱咤激励した。磐田、鹿島のような試合を続ければ日本代表に呼ばれるかもしれないと思ったこともあった。

ただし――。

準決勝の鹿島戦で薩川がレッドカードで退場、決勝は出場停止処分となった。前田は薩川のポジション、三人のセンターバックの左に入ることになっていた。ややテンションが落ちていたんですと前田は冗談っぽく顔を顰めた。

ホテルからバスで国立競技場に移動、ウォーミングアップのためピッチの中に入ると、自分たちへの好意的な視線を感じた。

「フリューゲルスに対する声援が明らかに多かった。全体がなんというのかな、どんよりとしたお別れの雰囲気のようでした」

■ホイッスルが鳴った瞬間、両手を空に突き上げた

快晴の国立競技場には5万人を超える観客が集まっていた。ゴール裏にはフリューゲルスのエンブレムがあしらわれた巨大な応援旗が波打ち、あちこちで旗が振られた。

練習前のウォーミングアップが終わり、ピッチに入る前、ベンチ入り以外の選手を含めて円陣を組んだ。円陣の中にはホペイロの山根もいた。

「試合に出られなかった薩川さんが本当にごめん、みんな頼むと言っていたのを覚えています。薩さんいないけれど、他の選手がなんとかしてくれるでしょと思っていましたね」

この日の先発メンバーは、ゴールキーパーは楢﨑、ディフェンダーは佐藤尽、原田武男、そして前田。中盤は5人、山口、三浦淳宏、サンパイオ、永井秀樹、波戸康広。フォワードは吉田孝行と久保山由清。

対する清水は、ゴールキーパーが真田雅則、ディフェンダーは斉藤俊秀、森岡隆三、戸田和幸。中盤にサントス、伊東輝悦、澤登正朗、そして安藤正裕と市川大祐。フォワードは長谷川健太とファビーニョ。

前半開始から風上の清水が積極的に攻める。右サイドから伊東が中央にボールを入れ、澤登が頭で合わせて先制点を挙げた。その後も清水の攻勢が続く。中でも前田は慣れない3バックの左サイドで相対する長谷川に手を焼いた。

それでも楢﨑の好セーブもあり、追加点を許さない。流れが変わったのは、前半終了間際だった。山口からの浮き球を久保山が受け取ると反転して左足を振り抜いた。この得点により同点で折り返すことになった。

後半は風上となったフリューゲルスが主導権を握った。後半28分、サンパイオからパスを受けた永井がボールを持ち込み、吉田に渡した。吉田は右足でゴール右隅に流し込んだ。これで2対1。試合はこのまま終了した。

ホイッスルが鳴った瞬間、楢﨑は両手を空に突き上げた。

スタジアムのゴール前で両手を上げるゴールキーパー
写真=iStock.com/Yobro10
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yobro10

■ロッカールームに用意されていたシャンパン

前田はこう振り返る。

「終わったときは勝利を掴んだという喜びでした。しばらくして、こんないいチームがなくなってしまうんだという悲しみ、全日空に対する怒りが湧いてきましたね」

山根たちは試合出場していない選手たちとピッチサイドで肩を組み、勝ってくれ、頼むと祈っていた。試合終了と共にピッチの中に駆け込み、選手たちと抱き合った。

メインスタンドの表彰台に選手たちが登り、山口が天皇杯を掲げた。表彰式にはチェアマンである川淵三郎の姿があった。川淵の名前が呼び上げられると観客は低い声で不満の意を表した。前田は川淵と握手した瞬間、耳元で「フェアにやってください」と囁いたという。

ロッカールームにシャンパンが用意されていた。このシャンパンは97年7月、ファーストステージの優勝に備えて山口が購入していたものだった。鹿島が勝利し優勝を逃したため、開栓されることなく保管されていたのだ。

山口はシャンパンの味は覚えていないと首を振る。

「ロッカールームでそのシャンパンを開けてみんなで飲んだはずです。ぼくはインタビューを受けてありつけなかったのかな。いや、乾杯はしたかもしれない。とにかく国立(のロッカールーム)を汚しちゃいけないっていうので、軽く乾杯しただけじゃないですかね」

■「これでみんなとお別れだな」

選手たちは新横浜駅北口に設置された特設会場で2000人ものサポーターに向けて報告会を行った。その後、新横浜プリンスホテルでビール掛けを行っている。1000本のビールがすぐに空き、200本追加された。別室に移動して祝勝会は続いた。そこには全日空スポーツの山田、中西たちは呼ばれていない。

選手会長の前田の周りには人が絶えなかった。

「ぼくは妻と息子と行きました。もう終わりですねという感じで、一人一人に挨拶しました。楢﨑はお父さん、お母さんを連れてきていました。選手会長の前田浩二さんです、大変お世話になりましたとぼくのことを紹介したんです。そのとき涙をこらえることができなかった。

ぼくは最後まで残っていましたね。みんな名残惜しかったんでしょう、なかなか帰りませんでしたね。帰り際、ゲルト(・エンゲルス)がいつか飲んでくださいと言いながら、ワインを手渡していました」

田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』
田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』

エンゲルスは、銘柄は分からないけど結構高いワインを選んだと思うと笑った。監督として何かみんなのためにやらなきゃならないと思って人数分、買ってきてもらったんだと付け加えた。

山口はこう振り返る。

「これでみんなとお別れだなって挨拶した。一人、二人と帰って行った。ぼくは最後までいた気がする。サンパイオも残っていたんじゃないかな」

フリューゲルス最後の夜はこうして幕が下りた。

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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日京都市生まれ。『カニジル』編集長。『UmeBoshi』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『新説・長州力』『新説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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