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大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#36

RKB毎日放送 / 2024年4月12日 19時51分

3人の米軍機搭乗員を殺害したことに対して、41人の元日本兵に絞首刑が宣告された石垣島事件の戦犯裁判。1945年3月、結審した日。判決を前に司令の井上乙彦大佐は、弁護団に礼状を送っていた。「思い残す処なきまでし尽くした」と書いた井上大佐。死刑を宣告された他の兵たちも弁護人に同じ思いだったのかー。

◆判決前に書いた弁護団への礼状

井上乙彦大佐の礼状は、国立公文書館の資料の中にあった。石垣島事件に関わった弁護士の元から提供されたとみられる資料一式が綴じ込まれたファイルだ。閲覧できるのは、原本ではなく、コピーなので黒ずんでいる。それでも、流れるような達筆であるのは分かる。

日付は1948年3月9日。この日、横浜軍事法廷では、弁護人の最終弁論が行われて結審した。判決日は3月16日だ。前年の11月末から始まった裁判は、その冬のシーズン中、ずっと行われていた。まず「冬中の長い間、私達のご弁護ご指導に感謝」というところから始まる。礼状には、「弁護側口述書の作製や被告の個人主張」に配慮いただき、「一同、思い残す処なきまでし尽くしました事は、ひとえに皆様のご厚意の賜と深く感謝致しています」と書かれている。

(井上乙彦大佐の弁護人への礼状)
「最終弁論も終わりまして、私達はあと心静かに判決を待つばかりで御座います。一同を代表して厚く御禮申し上げます。 3月9日 井上乙彦 外一同」

◆「証言台にも立てず」思い残すことはなかったのか

4人の弁護人宛に、井上大佐は「代表して」礼状を書いた。しかし、部下の兵士たちがこの礼状と同じ思いでいたかというと、そうではない。

1964年に法務省の面接調査に応じた宮崎県在住の元二等兵曹は、法廷で証言できた下士官は数人であり、その他の者は「予め証言しない方が有利だから、証言台に立ちません」と、日本人弁護人から含まされて、誓約書にサインさせられていた、と述べている。この人は、弁護団にもかなりの不満を持っていて、そのような策が採られた理由は、「井上勝太郎副長を助けんがためにやったことである」と指摘している。

◆裁判の形を整えるための弁護人?

1967年に調査に応じた大分県在住の元一等水兵も、弁護人から「証言してもしなくてもさしたる変わりはないだろう。証言台に立って却って拙い結果になることもあり得る」と言われ、この言葉を尊重して、証言台には立たなかったという。この元一等水兵は、弁護人個人の働きというよりは、戦犯裁判における弁護人の位置付けについて疑問視している。

(元一等水兵の面接調書 1967年)
「この戦争裁判では殆ど発言の自由はなかった。随って我々が弁護人に種々話して頼んでおいたことも、果たしてどこまで裁判所に通じ得たかは全く疑問であった。弁護人はただ裁判の形を整えるために付けられたのだとの感を深くした。弁護人から判決後に裁判所に対し、『被告の最後の訴え』を許されたい旨嘆願したが、それさえも許されなかった」

◆不運な状況が重なった戦犯裁判

元一等水兵は、井上司令が「自分が命令したこと」を裁判の直前まで認めなかったことで、「共同謀議」とされて、「一蓮托生でやられた」と指摘しながらも、この裁判では不運な状況が重なったことも述べている。

(元一等水兵の面接調書 1967年)
「この事件には、命令服従関係についての指揮系統が曖昧であったという致命的な弱点の外、にも、審理の途中で裁判長が評判の絞首刑を最も多く出している冷酷な人と交代したこと、優秀な当初のワイマン弁護人が、ガスリー検事と法廷で格闘したため罷免されたこと、さらには親日的八軍司令官アイケルバーガーが、ウォーカーに代わったこと等々の不運が重なった」

井上大佐が弁護団に礼状を書いた一週間後の3月16日。判決で宣告されたのは、無罪2人、重労働5年1人、重労働20年1人、そして絞首刑が41人だった。

◆最後の嘆願書

死刑の判決後、死刑囚が集められた棟で、井上大佐は2年あまりを過ごした。その間、嘆願書を3回出したようだ。そして、1950年4月6日。日付が変われば執行される死刑を目前に、最後の嘆願書を書いた。井上大佐はキリスト教徒である。

(井上乙彦大佐の嘆願書 「世紀の遺書」より)
「嘆願書 マッカーサー元帥閣下 私は四月七日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島警備隊司令 井上乙彦であります。私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を具して嘆願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。 由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合は極めて責任が軽い事になっています。戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されていたのであります。 若し間に合はばこの六名を助命して戴きたいのであります。
閣下よ。今回の私達の絞首刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は嘆願致します。これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給はぬと信じます。尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。願くは刑死しゆく私の嘆願書を慈悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。 四月六日 井上乙彦」

井上大佐は、家族に宛てた遺書にも、嘆願について触れている。

(井上乙彦大佐の遺書 「世紀の遺書」より)
「絞刑の友○名と準備室に曳かれて来ています。皆しっかりしているのには敬服とも感激とも言い様がありません。唯、頭が下るばかりです。前から責任者である私だけにして、あとは減刑して下さいと幾度か願ったが、終にこの結果になって御本人にも御遺族の方にも誠に相済みません」

井上大佐、藤中松雄を含む7人の死刑は、4月7日午前0時半ごろから二回に分けて執行されたー。
(エピソード37に続く)

*本エピソードは第36話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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