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「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#31

RKB毎日放送 / 2024年4月16日 16時23分

BC級戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた石垣島事件では、41人に死刑が宣告され、うち7人に絞首刑が執行された。死刑が執行されたあとに海軍少尉が書いた「石垣島事件の概要」。そこには事件当日、米軍機搭乗員の処刑の方法を決めるやり取りが記載されていたー。

◆司令の命令通り、兵隊に突かせる

1953年6月24日、スガモプリズンで獄死した前島勇市少尉。前島少尉が赦免に向けて作成した「石垣島事件の概要」には、処刑の当日、誰がその方法を決めたのかが、会話形式で記されていた。

(石垣島事件の概要)※分かりやすく一部書き換え
1945年4月15日午後6時ごろ
司令井上大佐:「榎本中尉、前島少尉、ここへ来い」と命ぜられる(第三図)右手を出し、母指を折り「1名は幕田大尉が斬る。1名は田口少尉が斬る。あと1名は誰に斬らせようか」と井上副長の方を向いて言われた
副長井上大尉:「2名斬るんですから、1名は兵隊に突かせましょう」と言う
司令井上大佐:「2名斬らせて、1名は突かせることにする」
前島少尉:「兵隊は国民兵と補充兵で、訓練はなし。銃の持ち方も完全ではないから、突くことは困難と思います」
司令井上大佐:「敵が今日にでも上陸するというのに、突きも出来ないようでは、仕様がない。元気がないからだ。病人が多いことはどうだ。兵隊に突かせることに決定する」
副長井上大尉:「司令の命令通り、兵隊に突かせる。榎本中尉は模範を示して、刺突の指揮をせよ」
榎本中尉:「銃剣術の上手な者が、ほかにも居ります」
副長井上大尉:「榎本中尉は、銃剣術の五段じゃないか。海南島で8名も突いたと言ったじゃないか。榎本中尉に命令だ、やれ。兵隊にもなるべく多く突かせろ。柱を立てて、縛り付けてやるんだ」

◆3人目の処刑方法を提案したのは副長

前島少尉は、この命令によって3名の搭乗員を誰が処刑するかが決定され、実施となったと書いている。つまり、搭乗員2人を誰が斬首するか決めたのは井上乙彦司令で、3人目を斬首ではなく兵に突かせることを提案したのは、井上勝太郎副長だった。それを受けて、井上司令が決定している。

3人目を兵に突かせ、その指揮を命じられた榎本中尉は、柱を準備し現場に持参、穴掘りの作業が終わるまで指揮した。そして午後8時。隊内の巡検が行われ、午後8時40分ごろ、士官室には各士官、准士官10数名が集った。

◆命令によって準備が進む

副長井上大尉:「前島少尉は飛行士を現場に送る準備をしろ。当直将校○○少尉には、トラックの準備を命令している」
前島少尉:「○○少尉に命じてあれば、私は必要ないのでは」
副長井上大尉:「幕田大尉が1名、田口少尉が1名、榎本中尉が刺殺の模範指揮をするから前島少尉は現場まで搭乗員3名を送れ」
前島少尉:この命によって、先任衛兵伍長に命じ、トラックが来たら当直将校の命を受けて搭乗員3名を乗車させ、準備出来れば届けよと命じて士官室に行った
衛兵伍長:士官室に来て、「前島少尉、準備出来ました」と報告する
前島少尉:司令井上大佐に「準備出来ました」と報告する。なお、井上副長に「司令より送れと命ぜられました」と報告する
司令井上大佐:「送れ」と命じる

各士官は一斉に立ち上がり、士官室を出て現場に行く

◆現場到着時は「実施中」

搭乗員を現場に送る命令を受けた前島少尉は、処刑される搭乗員を乗せたトラックの運転台に乗って現場へ向かった。

処刑現場は、本部から500~600メートル離れた所で、前島少尉は、約40メートル手前で車を止めて下車し、現場を見に行った。井上副長から命令を受けた者が、総員現場に集合の号令を伝達していたので、各人が到着しているのかを見て確かめた上で、トラックに戻り、処刑される搭乗員1人を現場に連行させた。ところが、あと2人いるはずの搭乗員がトラックには1人しか乗っていなかった。本部に戻って調べると、1人は残したままだった。

自室で待っていると、20分後トラックが故障したと報告してきたので、別のトラックを準備して再び現場へ向かったが、三叉路を旋回するときに、前車輪が溝に落ちてしまったので、搭乗員1人を降ろして現場に連れていかせた。約10分、トラックを溝から揚げようと前進後進したがうまくいかず、トラックを置いて、現場に向かった。

前島少尉が現場に着いたときは、「榎本中尉の指揮により実施中なりしも、やがて終了す」とあるので、3人目のロイド兵曹を兵たちが刺突していて、それが終了するまで見ていたと推察される。前島少尉は「本部に帰りし時は、午後11時過ぎと推定す」としている。

◆法廷では「あいまいな証言」

法務省が1964年(昭和39年)に実施した面接調査で、23歳で死刑の宣告を受けた二等水兵は、この「石垣島事件の概要」を見せられて、次にように答えている。

「この資料を私は初めて読むのだが、このように系統立って命令を受け、事が進んでおりながら、公判廷における前島少尉の証言は、あいまいで検事につけ込まれた」

前島少尉は裁判では、誰が処刑を命じたのか、証言しなかったという。

「前島少尉が護送の方法などを供述するだけでなくて、処刑を命じたことを言い出せば、あれ程多くの者を有罪に巻き込むことはなかった。あいまいな証言のために、一同が不利になっていった。いまさら悔やんでも仕方がないことであるが『石垣島事件の概要』のような証言が出ていれば、問題はなかったと思う。前島少尉は、自ら受けた命令についての陳述を回避している。榎本中尉も然りで、彼はノイローゼ気味であった。彼らの責任回避にもかかわらず。結局公判中に、事件の経過として、命令したということになってしまったのであるが、私共下級者は自発的にやったとされた」

◆共同謀議で殺害・・大量の死刑宣告

元二等水兵の指摘は続く。

「上官がはっきり命令したと証言していれば、共同謀議にならないはずである。(1人目を斬首した)幕田大尉は、はっきり命令を伝えられたと証言できても、下士官はどこから命令されたか知らない。この知らないことをもって、検察側は共同謀議にくっつけた。」

なぜ、上官たちは命令したことを曖昧にしてしまったのか。それには理由があったー。
(エピソード32に続く)

*本エピソードは第31話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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