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大佐から口止め「真実を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#30

RKB毎日放送 / 2024年4月16日 16時16分

太平洋戦争末期、1945年4月に石垣島で3人の米軍機搭乗員が日本兵によって殺害された石垣島事件。その日捕らえられた搭乗員の殺害は誰が決めたのか。石垣島警備隊の本部にいた海軍少尉が処刑実施に至る詳細な経緯をまとめていた。その文書に書かれていたのはー。

◆銀行員の元少尉

処刑実施に至る経緯をまとめていたのは、前島勇市海軍少尉だ。石垣島警備隊では衛兵司令だった。

1949年に行われた横浜裁判の再審査資料によると、前島少尉は年齢49歳。住まいは佐賀県で、妻と息子1人、娘が5人いた。母親と兄弟2人、姉妹2人も同居する大所帯だ。職業は銀行員。海軍には終戦まで26年在籍した。一審で死刑の宣告を受けたが、1950年3月、GHQによる再々審で終身刑に減刑されている。釈放されぬまま、1953年6月24日にスガモプリズンの中で生涯を終えた。53歳の年だ。

◆死の前に書いた主張

亡くなる5ヶ月前、1953年1月31日付けで、前島少尉は巣鴨委員会の「戦犯事件調査票」を作成している。丁寧な字でぎっしり書かれた文書だ。この調査票は、「近く派遣される戦犯釈放使節団の携行資料となるので、戦犯事件と裁判に関して何でも主張したい事項を書く」という趣旨のものだった。

この調査票に前島少尉は、井上乙彦司令と井上勝太郎副長の「知らぬ」という無責任な態度によって、自分が罪に問われたと主張している。

「司令はこの件は知らぬ、存ぜぬと口述書に述べ、副長も不在であったから知らぬと口述書に述べ、両人とも前島が実施して殺害したと述べられてあります為に罪状項目の如く、私にかかってきたものと思います。私は司令の命を受けて処刑現場まで自動車にて送り届け、指一本触れた覚えはありません」

◆大佐から口止めされた

さらに、司令の井上大佐から裁判中に口止めされたという。

「裁判中、司令の大佐は私に真実の事を云ってくれるな、頼む、真実を云えば関係者全部、同罪として見られるから、そう思ってくれと申し述べられました」

前島少尉は、裁判でも証言台に立つ事はなく、真実を述べることはなかったようだ。

「裁判に際し、アメリカ人弁護士ワイマンの取り調べがあり、各人とも対決したため、真相は判明しましたので、弁護士は無罪で帰れるから心配するなと再三申し聞かされました。途中で弁護士は交代し、ブライフィールドという女性でしたが、証言台に出なくとも君の不利にはならないから出るなと証書をくれましたので、証言台にも立つ事出来ませんでした」

結局、前島少尉は死刑を宣告された。後に終身刑に減刑されたとしても、理不尽な思いに駆られていたであろう。

◆裁判終了後に書かれた「事件の概要」

国立公文書館に収蔵されている前島少尉が書いた「石垣島事件の概要」は、1964年に法務省が石垣島事件の関係者に面接した調査の中で、この文書を見せて、内容について意見を聞いている。この文書は裁判に提出されたものではなく、「赦免勧告に関する決定書審査資料」ということになっているので、サンフランシスコ平和条約が発効し、戦犯の釈放運動が盛んになった1952年以降に書かれたと推察される。つまり、この時点では裁判も、7人の死刑執行も終わっている。

◆司令の命により死刑に処された

前島少尉が書いた「石垣島事件の概要」には、1945年4月15日の経過が詳しく記されている。当日、石垣島の町を空襲していた米軍機が対空砲撃で墜落。乗っていた3名は、パラシュートで降下し、海軍に拘束されて石垣島警備隊の本部に連れてこられた。

「午後二時半頃より、警備隊司令、同副長、航空隊参謀憲兵隊長立ち合いの上、調査されたのでありますが、司令井上大佐の命により、当夜、死刑に処されたのでございます。この取り調べの後、死刑実施に至るまでの経過を左に述べます。」

この報告書では、ここで、「石垣島警備隊の司令、井上乙彦大佐の命令によって、3人が処刑された」と明確に書かれている。

「午後5時15分頃、副長井上勝太郎海軍大尉より、前島少尉、士官室に来れと命に接す。前島少尉、自室より士官室に出頭す」

◆司令「最高指揮官は俺だ」

この報告書を書いている前島少尉は、井上勝太郎副長に呼ばれて、士官室へ移動している。

以下、士官室でのやり取りが会話形式で記されている。

司令井上大佐:少尉、そこに腰掛けよ。今夜、飛行士を処刑する準備をせよ。

前島少尉:憲兵隊長の話によれば、すでに逮捕している2名の飛行士を台湾に送ると言われました。同時に送られてはいかがですか。

司令井上大佐:飛行士は石垣島町内を激しく爆撃した科により、処刑する。18年8月東京を空襲した飛行士を処刑した前例がある。東條内閣の外国に対する声明もある。差し支えない。最高指揮官は俺だ。君は命令通り、動けば良い。

◆命令通りに準備すれば良い

副長井上大尉:司令の命令だ、命令通りに準備すれば良い。処刑の実施は他の者が行う。

前島少尉:いかなる準備をすれば良いですか。

司令井上大佐:照空隊付近の荒地が良い。あの付近に穴を掘れ。

井上大佐からの指示を受け、前島少尉は下士官に用具を準備させて、作業にあたる10名と一緒に現場へ行くように命令した。

ここで前島少尉の部屋に甲板士官の榎本宗応中尉が訪ねる。井上大佐から少尉と同じ命令を受けたと話し、指定された荒れ地へ行って、穴を掘る作業を始めるよう指示した。同じく現場へ行った前島少尉は、15分ほどして、榎本中尉と一緒に石垣島警備隊の本部へ帰った。そして、二人は士官室へ行き、井上大佐に「指定された位置で作業を始めました」と報告し、お茶を飲んだ。

そして、司令の井上大佐と副長の井上勝太郎大尉とお茶を飲んでいた二人は、午後6時ごろ井上大佐より、もっと近くに座るように言われ、大佐の側に移動した。そしてここから具体的な処刑方法が示されたのだったー。
(エピソード31に続く)

*本エピソードは第30話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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